龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

Roots №17 (鎌倉時代の糠部 その3)

2010-06-08 18:05:11 | 南北朝 “roots”
【太平記と糠部】

 太平記の中には、北畠顕家の足利尊氏討伐軍に参加した南部師行の名前は記載されていない。奥州陸奥国の糠部や津軽の武将のことは全くと言っていいほど触れられていないのだが、それでも太平記を丹念に読んでいくと、糠部の武将のことについて興味深いことが書かれていることに遭遇したりする。

 元弘三年(1333)五月八日、ついに新田義貞が宮方として挙兵し、鎌倉幕府の本拠地である鎌倉攻略に向う途上で、幕府軍を相手に「小手指原の合戦」「分陪河原の合戦」と二度の合戦を行うのだが、その分陪河原の合戦で新田義貞を迎え撃つ鎌倉方の武将に、まことに興味深い名前があるのだ。

 『相模入道、舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫次郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日夜半許に、分倍に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。』(太平記 巻第十)

 幕府軍は鎌倉の第一次防衛ラインを入間川に設定、絶対防衛ラインを多摩川に設定する。そしてまず、第一次防衛ラインの入間川と久米川の間に開ける小手指原に迎撃軍を送り新田義貞軍の迎撃を企図していた。
 しかし五月十一日・十二日に行われた「小手指原の合戦」では幕府軍が新田軍にじりじりと押され配色が濃厚となる。幕府軍は勢力を温存するため絶対防衛ラインである多摩川を背にした分倍河原まで後退し、背水の陣を敷く。
 鎌倉の絶対防衛ラインである多摩川を新田軍に超えられれば鎌倉陥落の危機と見た、幕府の時の最高権力者である北条高時は、弟の北条泰家を総大将とする援軍を急遽派遣する。「太平記巻第十」から引用した箇所はその場面である。
 五月十四日の早暁には、泰家を総大将とし、塩田・安保・城・長崎・佐藤・安東・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開・三浦の各武将の連合軍十万余騎の援軍が分倍河原に到着し、敗軍の先発部隊も勇躍進軍を始める。というくだりである。

 以下「太平記巻第十巻」から意訳する。
『 新田義貞は鎌倉勢(幕府軍)に新手が加わったことを知らなかった。鎌倉勢は十五日の夜明け前に分倍河原へ大挙して押し寄せ鬨の声を上げた。
 鎌倉勢は先ず屈強の弓の射手三千人を選りすぐって全面に進め、雨の降るごとく散々に矢を射かける間中、新田勢は射立てられて進むことが出来なかった。鎌倉勢はこれ幸いと、新田勢を取り囲むように攻め立てた。
 新田義貞の逞しい兵共は引き返すために、敵の大勢を蹴破っては裏へ回り、取って返しては鬨の声を挙げてまた敵の中に駆け入り、電光の如き激しさであった。(中略)
 劣勢の中で義の心だけで戦ってきた新田義貞は遂に討ち負けて堀金を差して引き退いた。』

 このように五月十五日の戦闘は幕府軍の勝利となり、新田義貞軍堀金まで退却し陣容を整えるものの、鎌倉軍が十万余騎とあまりの大軍であるため、坂東の荒武者新田義貞もその大軍に再度戦いを挑んで勝つ自信は無かった。

 意訳を続ける。
 『かかる状況に、さすがの義貞も為す術なしと考えあぐねているところへ、かねてより義貞の志に共感を覚えていた、本来鎌倉方の三浦義勝が、相模国の手勢、松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷の側近六千余騎を引き連れ、十五日深夜義貞の陣へ馳せ参じたのであった。
 義貞は大いに喜んで、急いで対面し礼を厚くし席を近づけて合戦についての意見を三浦義勝に聞いてみた。』

 三浦義勝は自分の軍勢が囮になって、幕府軍の中央を分断する奇策を義貞に提案する。義貞はその作戦を入れて、十六日早暁に幕府軍に奇襲をかける決断を下す。
 一方、幕府軍は前日の一方的勝利に新田軍はしばらく再起できまいと油断し、十五日より翌朝まで酒宴を続けていた。
 その幕府軍の陣へ十六日早暁、幕府軍に援軍として合流すると見せかけて三浦義勝の軍勢総勢四万余騎が近づいた。三浦義勝の軍が敵陣中央まで進んだ頃合を見て幕府軍の左右から新田勢が鬨の声をあげ奇襲にかかった。
 幕府軍は既に三浦勢に中央突破されておりその上左右から新田勢の奇襲に遭遇したため、全くの不意を突かれて、たちまちの内に幕府軍の陣は瓦解していく。
  
 意訳を続ける
 『北条泰家は、鬨の声に驚いて「馬を持て鎧兜を持て」と慌て騒ぐところへ、義貞・義助兄弟の兵は縦横無尽に駆け立った。(中略)三浦義勝の計略にはまり落ち行く鎌倉勢は散り散りとなって鎌倉目指して次々と引き退いていく。討たれるものは数知れず、遂に総大将の北条泰家すらも関戸あたりで既に討たれたようにも見える敗戦の中、横溝八郎が踏みとどまって奮戦していたが、近づく新田勢二十三騎の間で矢に当たり落馬。横溝の主従三騎は奮闘空しく討ち死にした。』
(つづく)
 

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