【工藤祐朝以降】
これまで鎌倉末期から南北朝前期までの工藤氏と南部氏のことを調べてきて、ネット上でかなりの資料を集めたが、その中で一番信頼の置ける資料は
『身延町町史』である。
これは古文書も引用されている上にかなり詳細に南部氏の事跡が記載されている。南部氏における甲州側の資料であり、その点貴重な資料だと思う。
この資料は多く歴史関係のHPやブログに引用されており、それらの元ネタとなっているようだ。しかし、引用元を明らかにせず、そのまま文章を引き写しているサイトも見受けられるがそのような姿勢とはいかがなものだろうか?
私は前回、「鎌倉末期の鞭指ノ荘園(八戸)の地頭代ないし領主であった、工藤三郎兵衛尉は、工藤祐経の長男で母が万劫である工藤祐広の子孫ではないか?」と書いた。
その推測に「名久井家文書」の伝承が生きてくるのだが、その「名久井家文書」の内容を『南部町商工会HP「南部町の歴史」』から引用する。
『兄の右京介祐時※1は名久井に留まり、地元の娘を娶り二人の男子を設け、鞭指ノ荘領主として君臨したと古文書が伝えている。嘉禎二年(1236)12月13日68歳で逝去、法光寺に埋葬したという。
右京介の死後、彼の長子常陸左京は八戸から下名久井までを領し「八戸の名久井工藤」を称した。次男の右衛門尉祐光は一戸から上名久井を領して「一戸の名久井工藤」を称し、法光寺和尚の娘「初重」を室に迎えたという。
領主祐光と初重妻の娘八重姫に、南部三代時実の次男政行が婿養子に入り、根城の祖師行と政長が誕生したという。
この時代の県内は、津軽に曽我光広が地頭代として配され、南部氏はまだ三戸にも八戸にも見当たらない。時実の次男政行が名久井に婿養子で先行した様子が(伝承で)伺える程度だ。
(祐広・祐時・祐長の三兄弟の)叔父の伊東祐兼は「奥州外ヶ浜へ流され幾程なく悪しき病を受け、当年九月三十七歳で亡くなる」と記録されている』
(筆者注※1→筆者は工藤祐広と推定)
上記の『名久井家文書』だが、史実とは違う点も多いのだろうが、その全てが違っている訳でもないようだ。人物や年代に錯綜があるようだが、きちんと精査していけば、真実も隠されているように思えるのだ。
まず、文中では右京介であり私が祐広と推定している人物の年齢が正確であるようだ。文中の右京介の没年とされる嘉禎二年(1236)12月13日68歳が正確であるということを前提にすれば、右京介は1168年生まれとなり、父祐経が曽我事件で没した1193年には25歳である。伊東氏の資料によればその時、次男祐時は9歳だとされているので、25歳の長男右京介は次男祐時より16歳年長となり他の伝承とピッタリと符合する。
次に文中の『右京介の長子常陸左京は「八戸の名久井工藤」を称した。次男の右衛門尉祐光は一戸から上名久井を領して「一戸の名久井工藤」を称した』という一節が、鎌倉末期の糠部の地頭代と符合するのである。
前回も記載したが、鎌倉末期の糠部の地頭代で、八戸には工藤三郎兵衛の名前があり、一戸には工藤四郎左衛門入道の名前がある。これのことは少なくとも八戸・名久井・一戸という地域は祐広系の工藤氏の支配地域であったことを物語っており、この八戸・名久井・一戸が鞭指ノ荘ではなかったかとも考察出来る。
そして、私の想像では、工藤祐広の二人の息子は、従兄弟である工藤祐朝の鞭指ノ荘入城を拒否したのだろう。祐朝とその兄弟は五戸郷で生涯を終わったか、津軽に向ったのかのいずれであろう。
祐広の子孫はそのまま八戸・名久井(四戸)・一戸に残り北条方の地頭代としてその地を支配したが、建武の中興の際に宮方で糠部の新しい支配者となった糠部奉行南部師行に蹴散らされてしまう。
祐朝の子孫は南部氏と接触し、建武の中興の際には工藤貞行が宮方として南部師行と連動して活動するのである。
また伝承では、右京介の息子の弟側と南部氏が血縁を結んだということになっているが、南部氏と接触があったのは「八戸から下名久井まで」の所領を持っていた方ではないかと考えられる。
八戸と下名久井の間にあるのが「四戸」である。名久井自体を四戸と考えてもよいだろう。現在の櫛引八幡宮は鎌倉末期には四戸八幡宮と呼称されていたそうである。四戸八幡宮は南部氏が本拠地の甲州から勧請したものと伝えられており南部氏の氏神である。氏神を他人の領地には勧請しないだろうから、四戸八幡宮が勧請された時代には四戸は南部氏の領地だったと推察される。
元来四戸が工藤氏の領地だったとしても、いつの時代にか南部氏の所領となったのだろう。それが「南部政行が工藤氏の婿になった」という伝承に結びつくのだろう。しかし、私はその伝承に素朴な疑問を持たざるを得ない。というのは南部政行が工藤氏の婿になったというのなら、なぜ工藤政行とならなかったのか?ということである。
また、南部氏が接触した工藤氏は、祐広の子孫ではなく、祐朝の子孫の方であろう。その理由は前記した通りであるし、私は南部氏と祐朝直系の工藤氏が連合して八戸を奪還したのだと想像している。
そして私は、南部氏から工藤氏に婿入りした人物を、今ある程度思い描いているのだ。
(つづく)