龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

Roots拾遺(その14)

2010-07-23 10:27:04 | 南北朝 “roots”
ナイチンゲール様へ

A1
工藤氏系図(祐経流) この系図では、工藤貞行の後にも、貞尚→祐景→祐氏→貞朝と続いております。
 
◆貞行の長女加伊寿には福寿という妹がおり、後に福寿は母の志蓮尼より黒石石名坂の地を相続しています。推測でしかありませんが、貞行の後に連なるこれらの子孫は福寿に男子が生まれて、その地で栄えた工藤氏の系統なのかもしれません。

◆また、津軽に異状に工藤姓が多いのは、明治初頭の“国民皆姓”の際に、「おらには苗字はねえけんど、おらの先祖は工藤の殿様の家来だったそんだ」ということで、工藤姓を名乗った人々もあったかと思います。

A2




◆上の三つが工藤氏の代表的家紋です。一番上は“庵木瓜”ですが、工藤祐経を祖とする伊東家に伝わる兜にもしっかりと家紋が記されています。
 このブログの読者の方に、この“庵木瓜”が家紋だという方がいらっしゃるのですが、この方はお父様から常々「この庵木瓜はな、本家にしか許されないんだ」とおっしゃっていたそうです。“庵木瓜”を家紋に持っている祐経流の工藤さんの方が少ないのかもしれません。

◆ちなみに、鎌倉幕府の有力御家人の工藤氏には、工藤祐経・宇佐美祐茂兄弟と、工藤景光・行光親子の二流があります。祐経流は後の青森県に敷衍し、景光流は後の岩手県に敷衍します。祐経も景光も先祖は同じで、六代目前の工藤継景です。
 
◆僕の母方の家紋は“丸ニ木瓜”だったと思います。津軽はこの“丸ニ木瓜”が比較的多いと思います。ナイチンゲールさんのご先祖様と私の母方の工藤はもしかしたら同族だったかもしれませんよ。おそらく工藤貞行の家紋はこの“丸ニ木瓜”だったのでは?と考えております。

◆ナイチンゲールさんのお父様の系統が、青森県のどこに住んでいたかが判れば更に判明することもあると思います。
 ちなみに、後に工藤貞行は外ヶ浜の尻八舘を中心とした地区も所領として授けられますが、郷土史家の沼館愛三氏は、その尻八舘はシリベチ舘であり、今の青森市の東南にあった古舘ではないかと推測しています。
 沼館氏は、そのシリベチ舘は、斉明朝に北征を行った阿倍比羅夫が政庁を置いたという“後方羊諦政所”ではないか、とも推測しています。

Roots拾遺(その13)

2010-07-11 08:28:06 | 南北朝 “roots”
最近、“姓名のルーツを知る”みたいなブログを見たら、ネットで入手出来るありとあらゆる資料を繋ぎ合わせて書き写しているブログをみつけました。

丸っきりの引き写しを繋ぎ合わせている文章なのですが、引用先を全く明記せず、さも自分のオリジナルであるかのようにして書いているのは如何なものかと思いました。
しかも、引用元が間違っていることも、そのまま間違った状態で引用しているのです。
これはいけませんねぇ。間違いがドンドン拡大して行くではありませんか。

その間違いとは、『工藤氏は、現在の青森県上北郡東北町に下向し、その地に厨川城を造り、後年厨川工藤氏を名乗った』というもので、これはとんでもない間違いです。
東北町に厨川なんて地名はないし、厨川城なんて存在していません。
これはおそらく岩手県の厨川柵と混同しているのでしょう。
また、二系統ある奥州工藤氏のことも混同しています。

奥州工藤氏は、現在の青森県に敷衍した名久井工藤氏と、岩手県に敷衍した厨川工藤氏の二流あり、名久井工藤氏は工藤祐経の流れ、厨川工藤氏は工藤景光の流れです。
その六代前の先祖は一緒なのですが、そこから分かれたのです。

さて、本題ですが、創作過程で判明したことがあります。

一点目は、工藤氏がいつ陸奥奥方に入部したか?です。
(陸奥奥方とは、糠部と津軽の当時の総称)
このことについては、どんな資料にも「ハッキリしたことは不明」と書かれていますが、この度はっきりしたことが判りました。
(詳しいことを書くと他のブログにパクられかねないので詳細は書きませんが…)
工藤祐経の系統が文治五年(1189)に津軽に入部しています。
その人物の名前も官職もハッキリしました。
これで、名久井工藤氏から津軽工藤氏の流れも解明出来そうです。

二点目は、鞭指ノ荘についてです。
これも僕の中では結論が出ているのですが、パクられたくないので全部は書きません。

まず、当時の八戸と呼称された場所は、現在の行政区分とは違っていただろうとうこと。
八戸は、その呼称が鎌倉時代の初期と後期には名前が違っていた可能性もあります。

次に、当時は川には橋がほとんど架っていないため、川によって行政区分がされていただろうということです。
馬渕川の川沿いに点在する当時の城や舘は全て対岸に対する防備であり、ということは川の右岸と左岸は行政区分が違うということを示しています。

そして、最後に重要なことは、『鞭指』の言葉の意味と、その言葉が、ある方向を示しているということです。
鞭指ノ荘について、詳細な考察をしているブログもありましたが、そのブログでは、鞭指ノ荘は、僻地で石高の少ない青森県ではなく、宮城県周辺だったのではないか?という推論をしていますが、私は鞭指ノ荘は陸奥国糠部にあったと考えています。
またそのブログでは、鞭指ノ荘は七戸ではないのか?という推論もされていましたが、「九戸四門の制」は平安時代後期には既に定められているので、私は「戸」と呼称されている地域と鞭指ノ荘は重ならないと考えています。

平安時代から蝦夷の馬はブランドとして確立しており、馬は売り手に莫大な富をもたらすと共に、騎馬戦が中心の当時馬が供給されなくては戦が出来ず、「糠部俊馬」は国家的な戦略物資でした。
九世紀始めには、人々は争って「糠部俊馬」を買い求めていました。
名馬のブランドとして「戸立」(へだち)という言葉があったということは、糠部の戸制が名馬の供給先であったことを明白に表しています。
源頼朝が後白川院に、糠部産の名馬20頭を献上し、院は「戸立」その馬の「戸立」に興味を持たれたこと、また、宇治川の合戦で戦陣争いした、梶原景季と佐々木高綱の乗っていた馬が、「三戸立」「七戸立」だったと伝えられていることは、いかに「糠部俊馬」が珍重されていたかを物語っています。

糠部は「糠部俊馬」という国家的戦略物資の供給地なのですから、幕府有力御家人が地頭に配置されるのは当然です。

また津軽についてですが、岩木川の最終河口地の十三湊は当時の日宋貿易港の一つでした。
当時、津軽十三湊は国策上の国際貿易港だったのです。
津軽の城や舘はそのほとんどが岩木川沿岸に配置されていますが、これは岩木川が十三湊の輸送路になっていたからです。
国際貿易港とその輸送路を持つ津軽に、幕府有力御家人が地頭に配置されるは当然です。
だからこそ、鎌倉幕府後期には、幕府執権北条氏が、陸奥奥方(津軽・糠部)全域を得宗領にして独占したのです。

現代人はどうしても現在の感覚で中世も考えてしまいがちですが、中世における津軽と糠部は、国家戦略上極めて重要な地域であり、現代人の認識のように「最北端の僻地である青森県」とみなしていては中世史は解明出来ません。

Roots №18 (鎌倉時代の糠部 その4)

2010-06-09 16:50:44 | 南北朝 “roots”
【新田義貞の鎌倉攻めの合戦に参加した武将達】

 昨日は、元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に行われた二つの合戦譚を「太平記巻第十」より引用したが、今日はそこに名を連ねた武将から糠部の状況を考察したい。

 まず、「太平記」の中に、幕府方として名を残している、北条泰家の軍勢に参加した「横溝五郎入道」という名前にご記憶はあるだろうか?
 この人物は鎌倉末期に糠部一戸の領主として名前が挙がっていた人物である。この「横溝五郎入道」なる人物だが、史料において筆頭に上げられているのでおそらく地頭であったのであろう。
 地頭であれば領地には下向せず、地頭代を現地に派遣して領地の管理を任せるケースがほとんであるので、この「横溝五郎入道」が糠部一戸の地頭だからといって一戸から出陣したと考えるのは早計であり、おそらく鎌倉御家人として横溝氏の家長として鎌倉から出陣したものと考えられる。

 一戸の地頭ないし地頭代の氏名には、横溝六朗三郎入道という名も見られるので、横溝五郎入道の親族(おそらく弟)が地頭代として一戸に下向して管理したのではないだろうか? また、三戸の地頭ないし地頭代の氏名には、横溝新五郎入道なる名が見られるがこれはおそらく「横溝五郎入道」の息子なのではないか。

 ここでもう一度、鎌倉末期の糠部の領主ないし地頭代の氏名と配置について確認しておきたい。 

【鎌倉末期の領主ないし地頭代】
一戸・二戸 →横溝五郎入道・工藤四郎左衛門入道・浅野太郎・横溝六朗三郎入道
三戸 →会田四郎三郎・大瀬次郎・横溝新五郎入道
四戸 →南部氏?
五戸 →三浦介時継(佐原時継)
六戸 →南部氏?
七戸 →工藤右近将監
八戸 →工藤三郎兵衛尉
九戸 →南部氏?

 
 「太平記巻第十」では、新田勢に散々に打ち負かされた鎌倉勢が算を乱して鎌倉に逃亡する中、横溝八郎が踏みとどまって防戦するが、新田方二十三騎に取り囲まれ「主従三騎討死す」と記されているが、この三騎とは「横溝五郎入道」「横溝八郎」の二名と、おそらく「横溝六朗三郎入道」なのではないかと推測している。
 その推測の根拠は、「建武元年四月(1334) 工藤四郎左衛門入道地(一戸)、工藤三郎兵衛尉地(八戸)、横溝新五郎入道(三戸)を闕所とし、南部又次郎(師行)、戸貫出羽前司、河村又二郎の三人預かりとする」という「多田貞綱書状」である。(カッコ内は筆者記入)
 
 この「多田貞綱書状」によれば、建武元年四月(1334)直前には一戸の領主は工藤四郎左衛門入道の領地になっているが、そのことは、それ以前にこの地の地頭であった横溝五郎入道も、地頭代であった横溝六朗三郎入道もこの地の管理者ではなくなったということであり、一戸は次席の工藤四郎左衛門入道に譲られていたと考えられるからだ。
 そして、それは横溝五郎入道と横溝六朗三郎入道の二人が、新田義貞の鎌倉攻めの攻防戦において落命したからだと推測される。
 ちなみに、建武の新政の開始によって糠部を追われた元八戸地頭工藤三郎兵衛尉と元三戸地頭横溝新五郎入道は、津軽曽我氏を頼り津軽に逃れ宮方に抵抗するが、持寄城の合戦で南部師行、工藤貞行に破れ捕虜になっている。

 私の推論として、鎌倉末期の一戸の地頭工藤四郎左衛門入道と三戸の地頭工藤三郎兵衛尉は、工藤祐広の子孫であり、その弟祐時の長男工藤祐朝の直系ではないと考えていることはこれまで述べてきたとおりだが、それは、祐朝の直系である工藤貞行と祐広の子孫であろう工藤三郎兵衛尉が敵味方に別れて戦っていることも推論の材料となっている。
 と言うのも、もし仮に工藤三郎兵衛尉が工藤祐朝の直系ならば、系図にそのように書かれていなければならないが、系図上は祐朝の直系は貞行である。そして、貞行と三郎兵衛尉は同一人物ではない。同時期に敵味方で戦っているからだ。

 「太平記巻第十」には、横溝五郎入道ともに幕府方に名を連ねている人物に「南部孫二郎」があげられる。
 この孫二郎という名前から、後の三戸南部氏十代当主南部茂時ではないかとみなされており、兄の南部義重は新田方に味方して兄弟相別れて戦ったとも伝えられているが、異論もあるようだ。
 
 そして、「太平記」には記されていないものの、定説では南部師行の兄である時長と弟の政長の二人が新田義貞の軍勢に加わったとされており、南部氏は新田義貞の鎌倉攻めにおいて幕府方と宮方に分かれて戦ったのであろう。
 しかし、肝心の南部師行については、「新田義貞の鎌倉攻めに参加した」「新田義貞の鎌倉攻めには参加しなかった」という二つの説があり判然としないのだ。
 北畠顕家の国代として南部師行が元弘三年(1333)に奥州糠部に下向した際に、どこから下向してきたのかについても、「甲州波木井から下向した」という説と、「京から北畠頼家に付き従って下向した」という説があるのだ。
(つづく)

Roots №17 (鎌倉時代の糠部 その3)

2010-06-08 18:05:11 | 南北朝 “roots”
【太平記と糠部】

 太平記の中には、北畠顕家の足利尊氏討伐軍に参加した南部師行の名前は記載されていない。奥州陸奥国の糠部や津軽の武将のことは全くと言っていいほど触れられていないのだが、それでも太平記を丹念に読んでいくと、糠部の武将のことについて興味深いことが書かれていることに遭遇したりする。

 元弘三年(1333)五月八日、ついに新田義貞が宮方として挙兵し、鎌倉幕府の本拠地である鎌倉攻略に向う途上で、幕府軍を相手に「小手指原の合戦」「分陪河原の合戦」と二度の合戦を行うのだが、その分陪河原の合戦で新田義貞を迎え撃つ鎌倉方の武将に、まことに興味深い名前があるのだ。

 『相模入道、舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫次郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日夜半許に、分倍に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。』(太平記 巻第十)

 幕府軍は鎌倉の第一次防衛ラインを入間川に設定、絶対防衛ラインを多摩川に設定する。そしてまず、第一次防衛ラインの入間川と久米川の間に開ける小手指原に迎撃軍を送り新田義貞軍の迎撃を企図していた。
 しかし五月十一日・十二日に行われた「小手指原の合戦」では幕府軍が新田軍にじりじりと押され配色が濃厚となる。幕府軍は勢力を温存するため絶対防衛ラインである多摩川を背にした分倍河原まで後退し、背水の陣を敷く。
 鎌倉の絶対防衛ラインである多摩川を新田軍に超えられれば鎌倉陥落の危機と見た、幕府の時の最高権力者である北条高時は、弟の北条泰家を総大将とする援軍を急遽派遣する。「太平記巻第十」から引用した箇所はその場面である。
 五月十四日の早暁には、泰家を総大将とし、塩田・安保・城・長崎・佐藤・安東・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開・三浦の各武将の連合軍十万余騎の援軍が分倍河原に到着し、敗軍の先発部隊も勇躍進軍を始める。というくだりである。

 以下「太平記巻第十巻」から意訳する。
『 新田義貞は鎌倉勢(幕府軍)に新手が加わったことを知らなかった。鎌倉勢は十五日の夜明け前に分倍河原へ大挙して押し寄せ鬨の声を上げた。
 鎌倉勢は先ず屈強の弓の射手三千人を選りすぐって全面に進め、雨の降るごとく散々に矢を射かける間中、新田勢は射立てられて進むことが出来なかった。鎌倉勢はこれ幸いと、新田勢を取り囲むように攻め立てた。
 新田義貞の逞しい兵共は引き返すために、敵の大勢を蹴破っては裏へ回り、取って返しては鬨の声を挙げてまた敵の中に駆け入り、電光の如き激しさであった。(中略)
 劣勢の中で義の心だけで戦ってきた新田義貞は遂に討ち負けて堀金を差して引き退いた。』

 このように五月十五日の戦闘は幕府軍の勝利となり、新田義貞軍堀金まで退却し陣容を整えるものの、鎌倉軍が十万余騎とあまりの大軍であるため、坂東の荒武者新田義貞もその大軍に再度戦いを挑んで勝つ自信は無かった。

 意訳を続ける。
 『かかる状況に、さすがの義貞も為す術なしと考えあぐねているところへ、かねてより義貞の志に共感を覚えていた、本来鎌倉方の三浦義勝が、相模国の手勢、松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷の側近六千余騎を引き連れ、十五日深夜義貞の陣へ馳せ参じたのであった。
 義貞は大いに喜んで、急いで対面し礼を厚くし席を近づけて合戦についての意見を三浦義勝に聞いてみた。』

 三浦義勝は自分の軍勢が囮になって、幕府軍の中央を分断する奇策を義貞に提案する。義貞はその作戦を入れて、十六日早暁に幕府軍に奇襲をかける決断を下す。
 一方、幕府軍は前日の一方的勝利に新田軍はしばらく再起できまいと油断し、十五日より翌朝まで酒宴を続けていた。
 その幕府軍の陣へ十六日早暁、幕府軍に援軍として合流すると見せかけて三浦義勝の軍勢総勢四万余騎が近づいた。三浦義勝の軍が敵陣中央まで進んだ頃合を見て幕府軍の左右から新田勢が鬨の声をあげ奇襲にかかった。
 幕府軍は既に三浦勢に中央突破されておりその上左右から新田勢の奇襲に遭遇したため、全くの不意を突かれて、たちまちの内に幕府軍の陣は瓦解していく。
  
 意訳を続ける
 『北条泰家は、鬨の声に驚いて「馬を持て鎧兜を持て」と慌て騒ぐところへ、義貞・義助兄弟の兵は縦横無尽に駆け立った。(中略)三浦義勝の計略にはまり落ち行く鎌倉勢は散り散りとなって鎌倉目指して次々と引き退いていく。討たれるものは数知れず、遂に総大将の北条泰家すらも関戸あたりで既に討たれたようにも見える敗戦の中、横溝八郎が踏みとどまって奮戦していたが、近づく新田勢二十三騎の間で矢に当たり落馬。横溝の主従三騎は奮闘空しく討ち死にした。』
(つづく)
 

Roots №16 (鎌倉時代の糠部 その2)

2010-06-05 18:37:31 | 南北朝 “roots”
【承久の乱と南部氏】

 承久三年(1221)に勃発した承久の乱では、第二代執権北条義時の命により、嫡男泰時が後鳥羽上皇を中心とした宮方討伐のため上洛軍を組織し、19万の大軍を三軍に編成し京に進軍した。それについて「吾妻鏡二十五巻」にはこう書かれている。
 『上洛令めん為、今日遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の国々へ、京兆の奉書を飛脚す』(吾妻鏡二十五巻)
 これは鎌倉幕府が東日本全域から、幕府方の従軍を求めたもので、それを図示すれば以下のようになる。

(玉川学園HPより)

 その徴兵において、南部氏二代南部実光は武田信光の軍に従軍したと伝えられている。武田信光は東山道軍の東山道将軍であり、南部実光もその部隊に加わっていたのだろう。

 『京兆に於いては其の公名を記し置く所也。各 東海、東山、北陸の三道に分け上洛可き之由、之を定め下す。軍士忽じて十九万騎也。
 東山道大将軍(従軍五万余騎と云々) 武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山左衛門尉朝長 結城左衛門大尉朝光』(吾妻鏡二十五巻)

(玉川学園HPより)

 この19万の大軍による朝廷討伐軍による京都制圧は僅か一日で終結する。幕府軍の圧勝であった。
 おそらく、これにより南部実光には僅かながら恩賞が下されたのだろう。それは元来南部氏の所領であった六戸に隣接する四戸(名久井)だったのではあるまいか? その四戸(名久井)は工藤祐広の息子二人が領する土地であったが、それが実光に下されたのではないだろうか。

 もちろん、南部実光は鎌倉幕府北条執権の側近中の側近である後内人であるので、その身は鎌倉にあったはずである。陸奥国糠部の所領の管理は兄弟に任せていたのだ。
 それについては『南部町HP「南部藩の足跡」』の年表に参考になる記載があった。
 『1219年(承久元年) 2代南部実光、糠部に下向所領を兄弟に分かつ』
 この兄弟とは誰か? これは実光のすぐ下の弟で三男の南部実長、後の波木井実長である。
 この年表では、その年は承久の乱の2年前にはなっているが、その承久の乱(1221)年前後に六戸と四戸(名久井)は確実に波木井南部氏の所領であったのだろう。
 四戸櫛引村への櫛引八幡宮の遷宮と本殿建立は、南部実光の祝勝と糠部における領地拡張に対する祝いの意味があったのではないだろうか?
(つづく)

Roots №15 (鎌倉時代の糠部 その1)

2010-06-04 13:52:35 | 南北朝 “roots”
 今日は、櫛引八幡宮の成立の経緯から、当時の糠部の状況を考察してみたい。

 そのためには、南部光行が頼朝から奥州征伐の恩賞として拝領したという「糠部五郡」を明確にすることが必要だろう。
 光行が拝領した「糠部五郡」は「三戸・鹿角・北・九戸・岩手」であるという説があるが、これは地元の歴史研究者もその著書の中で「一説によれば」とか「定かではありません」と書いており断定していない。
 ウキペディアで櫛引八幡宮を検索すると、その「糠部五郡」についての記載があるが、これには「八戸・三戸・下北・鹿角・下北」と下北を二回記載するという誤記も見られ、記述が混乱している。
 糠部五郡を「三戸・鹿角・北・九戸・岩手」と見るのは後年の三戸南部の領地であって、南部光行時代の領地でないことはこれまでも述べてきた。おそらく「光行拝領糠部五郡=三戸・鹿角・北・九戸・岩手」説は後年の三戸南部氏の創作であるのだろう。

 「糠部」は平安時代から「九戸四門」と定められているということを念頭に入れていれば、「糠部五郡」という表現自体おかしなものであるし、糠部に鹿角が含まれているなどという珍妙な説は出てこないはずである。
 糠部に「九戸四門」には鹿角は含まれていないし、第一、鹿角は戦国時代以降に三戸南部が支配した領地である。(光行が拝領した領地が「三戸・鹿角・北・九戸・岩手」だとするならば、それは奥州陸奥国五郡と表現しなければならない)

 現在、南部光行が鎌倉前期、糠部に領地を持っていたかどうかは不明である、という説もあるが、通説にしたがって所領を持っていたと考えても、光行が拝領したのは「糠部の五つの荘園」だったといえるだろう。
 昨日も書いたことだが、その「糠部五荘」とは、光行がそれぞれ息子を配置したという、一戸・三戸・四戸・六戸・九戸であると考えるのが順当だろう。
 
 櫛引八幡宮の歴史を見ていくと、当時の南部氏の領地が確定出来る。ここで『青森県神社庁HP 櫛引八幡宮』を参照したい。(櫛引八幡宮で検索できるサイトはこのHPを元ネタにしているようだ)
 これを見れば、1191年以降に南部氏が甲斐国の八幡宮を糠部六戸へ勧請した、と書かれている。この記述から、昨日書いた「六戸は南部氏の領地であったか、工藤氏の領地であったか不明である」という疑問は解ける。六戸は南部氏の領地であったということが推測される。
 そして、その六戸に勧請された八幡宮は1222年には四戸櫛引村に遷宮しているので、その時点で四戸も南部氏の領地であったことが判明する。それにより鎌倉前期から中期にかけては、四戸と六戸は南部氏の領地であったのだという推測が成立つ。
 
 四戸櫛引村は八戸との境にある。1222年当時の八戸は、おそらく工藤祐広が支配していたはずである。祐広の没年と年齢は1236年68歳と明確になっているで、1222年当時は祐広は54歳の壮年である。おそらく四戸の境まで進出してきた南部氏に工藤祐広は警戒感を持ったはずである。
 四戸の櫛引八幡宮の目と鼻の先には馬渕川が流れている。その橋のたもとに南部氏が舘を作れば、南部氏は船に乗ってその下流にある祐広の八戸舘をいつでも自由に攻めることが出来るからだ。
 しかも南部氏が八戸舘攻撃軍と八戸沿岸上陸軍の二つを組織し、その二軍が馬渕川を下って八戸と八戸館を挟み撃ちすることも可能であるし、それに加えて陸上軍も組織すれば、八戸の工藤祐広は南部氏に三方から八戸を包囲されてしまうのである。

 この時代は鎌倉幕府の治世であり、その行政区における私闘は禁止されていたので、そのような戦いは起こるはずもないが、この1222年に南部氏が櫛引八幡宮が四戸櫛引村に遷宮したのは何か政治的意味があるのではないかとも考えられるのである。
 この1222年という年代は、鎌倉幕府にとっては微妙な年代で、頼朝の息子実朝が暗殺されたのが1219年であり、その後幕府は宮将軍を立て執権北条氏の力はますます強大となり幕府の実権を握っていくのである。
 1222年は二代目執権北条義時の時代であり、その前年の1221年には後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」が勃発しているのである。
 そして、工藤祐広の甥にあたる、工藤祐朝が宝治の合戦直後に糠部に下向するのが、25年後の1247年である。
(つづく)
 

Roots №14 (津軽工藤氏の系譜 その11)

2010-06-03 13:37:25 | 南北朝 “roots”
【工藤祐朝以降】

 これまで鎌倉末期から南北朝前期までの工藤氏と南部氏のことを調べてきて、ネット上でかなりの資料を集めたが、その中で一番信頼の置ける資料は『身延町町史』である。
 これは古文書も引用されている上にかなり詳細に南部氏の事跡が記載されている。南部氏における甲州側の資料であり、その点貴重な資料だと思う。
 この資料は多く歴史関係のHPやブログに引用されており、それらの元ネタとなっているようだ。しかし、引用元を明らかにせず、そのまま文章を引き写しているサイトも見受けられるがそのような姿勢とはいかがなものだろうか?

 私は前回、「鎌倉末期の鞭指ノ荘園(八戸)の地頭代ないし領主であった、工藤三郎兵衛尉は、工藤祐経の長男で母が万劫である工藤祐広の子孫ではないか?」と書いた。
 その推測に「名久井家文書」の伝承が生きてくるのだが、その「名久井家文書」の内容を『南部町商工会HP「南部町の歴史」』から引用する。

 『兄の右京介祐時※1は名久井に留まり、地元の娘を娶り二人の男子を設け、鞭指ノ荘領主として君臨したと古文書が伝えている。嘉禎二年(1236)12月13日68歳で逝去、法光寺に埋葬したという。
 右京介の死後、彼の長子常陸左京は八戸から下名久井までを領し「八戸の名久井工藤」を称した。次男の右衛門尉祐光は一戸から上名久井を領して「一戸の名久井工藤」を称し、法光寺和尚の娘「初重」を室に迎えたという。
 領主祐光と初重妻の娘八重姫に、南部三代時実の次男政行が婿養子に入り、根城の祖師行と政長が誕生したという。
 この時代の県内は、津軽に曽我光広が地頭代として配され、南部氏はまだ三戸にも八戸にも見当たらない。時実の次男政行が名久井に婿養子で先行した様子が(伝承で)伺える程度だ。
 (祐広・祐時・祐長の三兄弟の)叔父の伊東祐兼は「奥州外ヶ浜へ流され幾程なく悪しき病を受け、当年九月三十七歳で亡くなる」と記録されている』
(筆者注※1→筆者は工藤祐広と推定)

 上記の『名久井家文書』だが、史実とは違う点も多いのだろうが、その全てが違っている訳でもないようだ。人物や年代に錯綜があるようだが、きちんと精査していけば、真実も隠されているように思えるのだ。

 まず、文中では右京介であり私が祐広と推定している人物の年齢が正確であるようだ。文中の右京介の没年とされる嘉禎二年(1236)12月13日68歳が正確であるということを前提にすれば、右京介は1168年生まれとなり、父祐経が曽我事件で没した1193年には25歳である。伊東氏の資料によればその時、次男祐時は9歳だとされているので、25歳の長男右京介は次男祐時より16歳年長となり他の伝承とピッタリと符合する。

 次に文中の『右京介の長子常陸左京は「八戸の名久井工藤」を称した。次男の右衛門尉祐光は一戸から上名久井を領して「一戸の名久井工藤」を称した』という一節が、鎌倉末期の糠部の地頭代と符合するのである。
 前回も記載したが、鎌倉末期の糠部の地頭代で、八戸には工藤三郎兵衛の名前があり、一戸には工藤四郎左衛門入道の名前がある。これのことは少なくとも八戸・名久井・一戸という地域は祐広系の工藤氏の支配地域であったことを物語っており、この八戸・名久井・一戸が鞭指ノ荘ではなかったかとも考察出来る。 
 
 そして、私の想像では、工藤祐広の二人の息子は、従兄弟である工藤祐朝の鞭指ノ荘入城を拒否したのだろう。祐朝とその兄弟は五戸郷で生涯を終わったか、津軽に向ったのかのいずれであろう。
 祐広の子孫はそのまま八戸・名久井(四戸)・一戸に残り北条方の地頭代としてその地を支配したが、建武の中興の際に宮方で糠部の新しい支配者となった糠部奉行南部師行に蹴散らされてしまう。
 祐朝の子孫は南部氏と接触し、建武の中興の際には工藤貞行が宮方として南部師行と連動して活動するのである。 

 また伝承では、右京介の息子の弟側と南部氏が血縁を結んだということになっているが、南部氏と接触があったのは「八戸から下名久井まで」の所領を持っていた方ではないかと考えられる。
 八戸と下名久井の間にあるのが「四戸」である。名久井自体を四戸と考えてもよいだろう。現在の櫛引八幡宮は鎌倉末期には四戸八幡宮と呼称されていたそうである。四戸八幡宮は南部氏が本拠地の甲州から勧請したものと伝えられており南部氏の氏神である。氏神を他人の領地には勧請しないだろうから、四戸八幡宮が勧請された時代には四戸は南部氏の領地だったと推察される。
 元来四戸が工藤氏の領地だったとしても、いつの時代にか南部氏の所領となったのだろう。それが「南部政行が工藤氏の婿になった」という伝承に結びつくのだろう。しかし、私はその伝承に素朴な疑問を持たざるを得ない。というのは南部政行が工藤氏の婿になったというのなら、なぜ工藤政行とならなかったのか?ということである。 
 また、南部氏が接触した工藤氏は、祐広の子孫ではなく、祐朝の子孫の方であろう。その理由は前記した通りであるし、私は南部氏と祐朝直系の工藤氏が連合して八戸を奪還したのだと想像している。
 
 そして私は、南部氏から工藤氏に婿入りした人物を、今ある程度思い描いているのだ。
(つづく)

Roots №13 (津軽工藤氏の系譜 その10)

2010-06-02 14:04:00 | 南北朝 “roots”

 【鞭指ノ荘】

 今日は鞭指ノ荘について考察する。

 まず、鞭指ノ荘を知るためには、糠部に平安時代に制定されたという『九戸四門』を知る必要がある。
 掲載した図は「青森県中部上北合併協議会HP」からのものだが、当時の『九戸四門』を知るためには好都合の図である。

 工藤祐経と奥州南部氏の開祖南部光行は、ほぼ同時期に頼朝から奥州陸奥国糠部に所領を拝領している。南部光行が当時本当に糠部に所領を拝領していたかどうか不明であるという説もあるが、ここでは、南部光行は所領にそれぞれ息子を配置して支配したという通説を元にして考察する。
 鎌倉初期に南部光行が拝領した領地と、鎌倉末期に鎌倉幕府から任命された地頭代の記録とを重ね合わせて考察すれば、工藤祐経が拝領したという鞭指ノ荘が明確になるだろう。
  
 【光行所領】     【鎌倉末期の地頭代ないし領主】
一戸 →行朝    横溝五郎入道・工藤四郎左衛門入道・浅野太郎・横溝六朗三郎入道 
二戸 →
三戸 →実光    会田四郎三郎・大瀬二郎・横溝新五郎入道
四戸 →宗朝
五戸 →       三浦介時継(佐原時継)
六戸 →
七戸 →朝清    工藤右近将監
八戸 →       工藤三郎兵衛尉
九戸 →行連
 
 まず、工藤祐経と南部光行が、ほぼ同時期に糠部を拝領したことを前提にすれば、祐経の所領は光行の所領以外と考えられる。
 上記の表から、まず挙げられるのが、二戸、五戸、六戸、八戸であるが、その中で五戸はごく早い時期に佐原氏の所領となっていたので除外される。
 次に二戸はおそらく一戸と行政地域が同じであったのではないかと推測されるのでこれも除外する。(一戸の地頭代が四名もいることから広範囲の行政区域だったのだろう)
 六戸については、七戸と同じ行政区域だったのか、五戸と同じ行政区域だったのか、または独立していたのか、不明である。
 このように考えれば工藤祐経が拝領した鞭指ノ荘は、八戸と六戸と推測することが出来る。
 
 次に南部光行の所領が、鎌倉末期にはどのようになっていたのかを考えると、当時地頭代ないし領主が存在しない場所が、南部氏の所領だと推測されるが、それは上記の表より、二戸、四戸、六戸、九戸が挙げられる。二戸は前述した理由で除外されるので、残る四戸、六戸、九戸が鎌倉末期の南部氏の所領だと考えることが出来る。

 上記をまとめれば、鎌倉末期において『工藤祐経の所領と推定される場所→八戸、六戸
』『南部氏の所領と推定される場所→四戸、六戸、九戸』という結論になるのだが、問題の六戸はどちらの所領であったかは不明である。

 工藤祐経が拝領した鞭指ノ荘は八戸であることは確実であろう。八戸の太平洋岸にある蕪島神社は工藤氏が建立したものであることは「蕪島神社由来記」からも明らかであると伝えられている。
 では、八戸の地頭代ないし領主とされている工藤三郎兵衛尉とはどんな人物なのであろうか? この人物の館である八戸舘が後に南部師行に接収され後に「根城」となったと伝えられていることはこの連載の初回に書いた。
 私は、この工藤三郎兵衛尉は、工藤祐時の三人の子供である、祐広・祐時・祐長の中で、一人鞭指ノ荘に残こりその地を支配したという工藤祐広の孫か曾孫だと考えている。

 以下はあくまで私の想像である。

 父祐時から、鞭指ノ荘(八戸)を譲られていた祐朝は、1247年上総介千葉一門の五戸郷逐電に同行して糠部に下向した際、当初は鞭指ノ荘(八戸)に入城するつもりでいたのだろう。
 しかし、祐朝の叔父である祐広の息子達は、従兄弟に当たる祐朝の八戸入城を認めず、八戸の所有権は自分たちにあるとを主張したのではないのか。その根拠の一つとして、当時の武士の間には「20年統治すればその土地は自分の領地になる」という慣例法の存在があげられる。
 また、私が工藤祐広の子孫と考えている工藤三郎兵衛尉は、1331年の南部師行の糠部平定の際には、北条方として駆逐されているので、師行と盟友関係にあった工藤貞行の直系ではないのである。

 おそらく、八戸に入城出来なかった祐朝と祐盛・祐綱の弟は五戸郷で生涯を終えたか、もしくは弟の一人が津軽の田舎郡に移住したのではないかと推測される。
 祐朝の息子か孫の代に、四戸に勢力を持っていた南部政行と接触し血縁となり、その息子である南部師行と工藤祐朝の子孫が連合して八戸の工藤三郎兵衛尉の八戸館(根城)を攻め、奪還したのではないかと考えているのである。 
(つづく)


Roots №12 (津軽工藤氏の系譜 その9)

2010-06-01 18:42:24 | 南北朝 “roots”
【曽我事件後の工藤氏 その2】

 前回は、工藤祐経亡き後、工藤一族は北条時政に何らかの嫌疑をかけられ、祐経の弟である工藤祐兼(伊豆祐兼)と祐経の三人の息子である祐広・祐時・祐長の計四名が、陸奥国外ヶ浜へ流罪となるが、四人は外ヶ浜へは向わず父祐経が頼朝から拝領した奥州陸奥糠部鞭指ノ荘に逃亡し、その四年後、祐時と祐長は許されて鎌倉へ帰り、長男の祐広だけが鞭指ノ荘に残りそこを実質支配した。その後、鞭指ノ荘は祐広の二人の息子が分割して支配したと伝えられている。というところまでを書いた。

 今回は、その経緯を『南部町商工会HP「南部町の歴史」』から引用する。

『 許されて鎌倉に戻った異母弟の祐時と祐長は、北条家で教育を受けて成人※1、鎌倉の御家人となり、祐時は室に祐経の先妻万劫の娘を迎えた。この室は万劫が祐経との縁を引き裂かれた後、伊豆に帰り土岐遠平と再婚して得た娘であった。
 この娘と祐時の縁組は、家督争いの悲劇を乗り越える和合の縁組として執権から評価され、その代償として祐時は嘉禎元年(1235年)大和守を任ぜられる。その後祐時は11男7女に恵まれ、生涯を鎌倉で過ごした。
 (祐時の子らへの家督相続の際に)北条は、万劫の血脈を嫌い、長男祐朝、次男祐盛、三男祐綱への家督相続を認めず異母弟の六男、祐光に相続を裁可した。
 これが原因となり、三名の兄弟は執権に不満を懐き、非協力的な行動を取った結果排斥された。長男の祐朝は万劫の血脈である右京介祐時※2の嫡流を頼り鞭指ノ荘園を希望し、少し遅れて下向したという。』
(筆者注 ※1→工藤祐経の息子二人を北条方に取り込むことによって、その後の仇討ちを押さえ込むための手段だったのだろう。 ※2→筆者の推測では工藤祐広)
 
 文中の『長男の祐朝は万劫の血脈である右京介祐時※2の嫡流を頼り鞭指ノ荘園を希望し、少し遅れて下向したという。』という一節が、前回まで書いてきた、上総介千葉一族の五戸荘逐電に結びつくのであり、工藤祐時の長男工藤祐朝は、上総介千葉一族と共に軍船に乗り、陸奥国五戸郷ないし鞭指ノ荘に向かうのである。
 文中の『少し遅れて』とは、祐朝の弟である次男祐盛と三男祐綱は一足先に鞭指ノ荘に下向していたものか? いずれにしてもこの、祐朝・祐盛・祐綱の三兄弟はそろって鞭指ノ荘に下向したものと思われる。
 工藤氏の系図を見れば、津軽工藤氏の系譜は『祐朝→祐綱→祐盛→貞行』となっているからだ。

 ここまでの流れで私は、自分がこれまで密かに思い描いていたストーリーに破綻が生じていることに気づいた。その破綻の原因は先に引用した『南部町商工会HP「南部町の歴史」』の中の、五戸荘に逐電しその84年後糠部一円や津軽に散開したという鎌倉御家人の末裔のリストである。→鎌倉御家人62名
 この資料では、宝治の合戦(1247)の84年後の元弘の変(1331)や建武の中興(1333)の際に各地に移住したと書かれているが、宝治の合戦直後に糠部に下向した工藤祐朝がもし仮に当時15,6歳だとしても、その84年後では100歳になっている。
 ちなみに、祐朝の父祐時は曽我事件(1193)の歳には9歳だったということなので、生まれは1184年と推定できる。祐朝は祐時の長男なので祐時が20歳頃の子供だとすれば、祐朝は1204年頃の生まれと推定できる。
 とすれば、工藤祐朝の年齢は、鞭師ノ荘下向の際は40歳程度であり、建武の中興の1331年から1333年の当時にはなんと127歳以上であり、全くあり得ない話になる。

 この結論から考えられるのことは、以下の3点である
①工藤祐朝が田舎郡に下向したのが、1124年から十年以内の出来事だった
②工藤祐朝の子孫に同姓同名の人間が存在した
③鹿内文書の記載が間違っているか、それを引用した『南部町商工会HP「南部町の歴史」』が記載を間違った
 実際、鹿内文書を元にした『ようこそ我が町南部藩へ』という南部工業高校のHPにも、五戸荘に逐電しその後糠部一円や津軽に散開したという鎌倉御家人の末裔のリストが掲載されているが、そのリストには伊東祐朝の名前は無く、工藤氏関係を探すと、工藤光泰という、北条時頼の側近中の側近である得宗被官の名前が載っているのである。しかし、この工藤光泰は「吾妻鑑」には名前の残る有力御家人でありながら、工藤氏の系図では名前が発見できない出自が謎の人物である。これはまた、いささか混乱を誘発する発見にぶつかってしまった。

 しかし、この結果から、工藤祐朝から工藤貞行に行き着くには、二代ほど謎の時代があることが判った。この二代ほどの時期については、伝承や正史ではない古文書にその秘密が隠されているのかもしれない。
(つづく)


Roots拾遺(その11)

2010-05-31 08:47:14 | 南北朝 “roots”
【櫛引舘】

昨日、櫛引舘を調査してきました。

場所は櫛引八幡宮から500m程南西に下った場所、馬渕川に架った橋のたもとにあります。
住所は八幡(やわた)、館地区です。櫛引舘があったので現在の地名も館というのでしょう。

根城もこの櫛引舘も馬渕川沿いにありますが、櫛引舘は根城の2㎞程度上流にあります。
この櫛引一体が昔は四戸と呼称されていた地域です。
櫛引八幡宮も鎌倉末期には四戸八幡宮と呼称されていたそうですから、櫛引舘も、四戸舘または四戸城と呼称されていたかもしれません。

しかし、この場所を押さえておけば、馬渕川を下って根城の背後も突くことが出来ますし、河口まで下れば、八戸の白銀浜や鮫浜まで一気に移動することも可能です。

私は現地を見て改めて自分の或る推理は間違っていないと確信しました。