暗記構造下の自律性教育を欠いた愛国心の育みは再び国を過つ付和雷同型の病巣となり得る危険性

2015-04-05 09:32:15 | Weblog


 内閣府が2015年3月21日発表の「社会意識に関する世論調査」のうちの《集計表2(Q2)国を愛する気持ちを育てる必要性》(CSV形式:16KB)に関する姿勢は次のようになっている。 

  該当者数   そう思う  そうは思わない  わからない
 6011人    75.8%    12.5%    11.8%

 6011人の日本人の愛国心に関わる見方を日本人全体の傾向とする世論調査の性格からすると、75.8%もの日本人が「国を愛する気持ちを育てる必要性」を感じている。裏を返すと、75.8%もの日本人が日本人は国を愛する気持を欠いていると見ている。

 いわば日本人は全体的な傾向として国を愛する気持を欠いているとしていながら、75.8%もの日本人が「国を愛する気持ちを育てる必要性」を感じていることになって、ちょっと矛盾することになる。

 この矛盾を解いて、妥当な答を導き出すとしたら、日本人の大人は十分に愛国心を持っているが、今の若者、あるいは学校生徒は愛国心を欠いていると見ていて、その気持を育てる必要性を感じているということなのだろう。

 安倍晋三も第1次安倍内閣時代の2006年12月成立改正教育基本法で、いわば小中高大学生を対象に愛国心の涵養を規定することに成功した。

 〈(教育の目標)第2条5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。〉・・・・

 だが、現在、8年余経過していながら、75.8%の日本人が自国民に関して愛国心の欠乏を感じている。

 愛国心教育の危険性は戦前の国家主義が教えている。このことは誰もが否定しない歴史的事実であろう。

 いや、安倍晋三とその一派は否定するかもしれない。

 殊更断るまでもなく、戦前の愛国心は付和雷同型であった。付和雷同とは自身の考え(一定の主義・主張)がなく、安易に他の考え・他の説に衝動的に賛成する盲目性・無条件性を言う。

 国が天皇を利用して国民はかくあるべしと求めたことに盲目的・無条件的に従った愛国心であった。そのことに反したとき、国賊として糾弾され、非国民として斥(しりぞ)けられた。国が求める国民の姿に反することは許されなかった。反しないことが愛国心そのものの表明となった。

 このような国家と国民との関係は国民が自律性を欠いていることによって可能となる。自律性は衝動的な盲目性・無条件性を拒絶する。

 【自律】『大辞林』三省堂)

 ① 他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること。
 ②〘哲〙カント倫理学の中心概念。自己の欲望や他者の命令に依存せず、自らの意志で客観的な道徳法則を立ててこれに従うこと。

 自律性はまた、自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度や性質を言う主体性を兼ねている。

 基本は行動に関しても判断することに於いても自分の考えを持って行動し、判断するということである。そこに責任がついて回る。

 だが、戦前の日本人は自分の意志からでなく、他人の考えや判断、あるいは他人の意志・命令に従って行動する他律性に支配されていた。

 当然、付和雷同を排して国家に対してどう向き合うかは個人の自律性如何にかかってくることになる。

 いわば愛国心教育よりも先に自律性の育みがなければならない。後者を欠いた愛国心教育は戦前型の付和雷同的な愛国心に近づく危険性を抱えることになる。

 逆に自律性を獲得していたなら、国家に対してどう向き合うかは自律的な自らの考えや判断に従うことになって、取り立てた愛国心教育は必要なくなる。

 安倍晋三が第1次安倍内閣で成立させ、自慢としている改正教育基本法でも自律心の涵養を規定している。

 〈(教育の目標)第2条2 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。〉・・・・

 個人が国家にどう向き合うべきかの愛国心はこの条文に任せるべきだろう。自律性・主体性を育む教育が取り立てた愛国心教育を不必要とし、付和雷同型の愛国心が回避可能となる。

 では、小中高生、あるいは大学生まで含めて、他からの支配を受けずに自らの考えや判断を持ち、それらに従って行動する自律性をどれ程持ち得ているのだろうか。

 3年毎実施、日本では高校1年生対象の2012年OECD学習到達度調査(PISA)の日本の学力の平均点は「読解力」、「数学的リテラシー」、「科学的リテラシー」共に2000年調査開始以降で最も高く、順位も前回を上回ったという。

 この理由として2003年調査で順位が急落した「PISAショック」を契機に「脱ゆとり教育」へ転換したことが功を奏したこととして挙げられている。

 但しこの好成績に反して数学に関する学習意欲を調査したところ、「数学を学ぶことに興味がある」と答えた日本の生徒は僅か38%。OECD平均の53%を下回り、65カ国・地域では下から4番目の低さだったという。

 「将来の仕事の可能性が広がるので学びがいがある」と回答した日本の生徒は52%

 シンガポール88.2%、上海72.7%。

 この「脱ゆとり教育」を契機とした成績回復と成績に反した学習意欲の低さは日本の教育が暗記教育そのものであることの証明以外の何ものでもない。

 暗記教育は自律性とは無縁の他律性を構造としている。教師が教科書に書いてある知識・情報を児童・生徒に伝え、児童・生徒はそれを自ら考え、判断して自分なりの知識・情報に高める自律性に従うのではなく、伝える知識なり、情報なりに受け止め、丸のまま暗記する他律性に優れていることこそが暗記教育に於ける成績を上げる要点となる。

 もし教師が教科書に書いてある知識・情報を自分の知識に昇華して児童・生徒に伝えることができる自律性を備えていたなら、その自律性は児童・生徒にも伝わって、児童・生徒自身も自ずと自律性を介在させた学びを習得できたはずだ。

 だが、学習意欲は極めて自律性を必要とするにも関わらず、それを育み得ていないから、暗記教育の成果のみが突出して、学習意欲が低いにも関わらず成績は良いという矛盾を生み出した。

 安倍晋三の改正教育基本法に込めた「自主及び自律の精神」の育みはカラ手形で終わっていた。

 このように自律性を育み得ていない日本の教育環境下で愛国心教育の必要性を訴える声が多い。

 結果、期待できるのは他人の考えや判断、あるいは他人の意志・命令に従って行動する他律性に支配さた、戦前型に近親性を持った付和雷同型の愛国心の植え付けとならない保証はない。

 国家とどう向き合うかは愛国心に恃むのではなく、自らの考えや判断・意志に従う自律性に恃んでこそ、付和雷同を排除して国を過たない、国のためになる国民個々の基本姿勢とすることができるはずである。

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