花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

弟からの電話。

2020-10-18 06:21:27 | Weblog

コロナの閉じこもりで

     生活時計も、針が止まっている様な、、、閉じこもりの毎日が続く中、、、

弟から電話をもらった。

     父母に愛されて可愛がられた幼少のころから、

         戦後の、、、ややもすると、、、暗い世相の中

                  弟たちの年代は、「団塊の世代」と呼ばれて

                     戦後の日本の復活を背負ってきた年代である。

戦争を知らない新世代の誕生に、父母は再び、希望を持って

        立ち上がっていきました。、、、この子の為にも。。と。

戦前には市ヶ谷のお屋敷に生まれた父も、

関東大震災や、富国強兵の時代に青年期を迎え、

○○庁勤務だった実父の「国に役立つ人間に成る為の教育と、家訓」の中で

明治生まれの父の時代は、現在のように、自由な主張は通らなかったようですね。

「東京大学に入学」して、学者家の緻密な学問で御国の為になれるか?

外科医になって、次々と続く戦場で、戦陣外科医として、何でも対応できる技術で生きるか?

厳しすぎる家の希望に、長男の父は従うしかなかったようです。

本当は、地球規模の森羅万象すべてに興味が有った父は

本人は、、、農学部に行きたかったと、私が高校生学生の時に

大學の学部について話してくれたことがありました。

医学部に行くなら、獣医さんの方が興味が有ったらしいです。

坊ちゃん育ちの父にとって、ピンからキリまでの職業の患者さんを診察するのは

自信が無かったようです。

動物なら、そのまま、観察しながら、素直に、状態から学べばいいとも言っていた。

人間の医師は、小児科なら、、、母親とのコミュニケーションに神経を使うし、

内科なら、精神と内科的疾患の関係も勉強するだろうから、、、

人間の複雑さと付き合うのは苦手らしい事を言っていました。

外科医と言うのは、、、昔、、、床屋さんだったのだよ、、、とも言った。

床屋のパレは、瀉血や、外科的処置を

          学問の域にまで達せさせた。

                 外科は、技術から医学へと発展したそうです。

父の実父と言う人は剣道なども5段で、

             日本の忠儀の心の

                 武士のような人だったのかもしれませんね。

ビジョンに生きて、東大を目指すか!?

           技術を磨いて、国の役に立つ人間に成るか!

現在の子供なら、、、聞いてないふりをするかもしれない,、、無理難題を

当然のように,、、言ってくれるじゃない、、、て感じがしますよね(^^!

 最終的に父は

                         

東大には挑んだが、、、あえなく、、、減益は破れ、

浪人は石頭の実父(爺ちゃん)には許されず。

当時は運よく、英語とドイツ語の達者な父は、2年への専門課程入学を許されて

外科医になった。

       そして、日本の占領地であった大陸への道が開けてしまい、、、

            時代の成り行きから、、、

               世界大戦に巻き込まれて

                  従軍しました。

終戦まじかに、日本の寄せ書きのある日の丸の旗と  

               軍隊手帳と、

                   千人針の「武運長久」と刺繍された晒布のたすきと

                       母が生前

                、、、これは男の子に渡すより、

                   他家に行くだろう、、、女の子に持たせた方が良いと考えたのかもしれません。

          母は外国の地で、3人の子供を亡くしているので、、、戦争の事は思い出したくないのでしょうね。 

           歴史の物として私に預けたものはそれだけでした。

後日母が亡くなった後、母の住まいを訪ねた時は、

窓が壊され、グランドピアノは持ち出された後でした。

3台あったピアノの家は、廃墟のように荒らされて、

   今、着替えたばかりのような、母のロングスカートと、上着が,

        入口の玄関にたたまれていました。

               総和20年代に。疎開地で購入した

             brather???こんな会社だったかな?。。。

           黒いヘッドに金文字で書いた足踏みミシンが

               実は、、、私は、、、それが欲しかった。

                   何とも言えない、、、お淑やかさと、モダンと

                       静かに、、、アグレッシブな日本女性の

                           ミシンを踏む姿に希望が持てたから、、、。

                   しかし、、、疎開地で活躍して、村人の人気を博した、、、あの!

                          2Fに逢った、、、ミシンは無くなっていた。

                  独り住まいの、ピアノ教師の家は

                 葬式の後、初七日に再度訪問したときには

                   廃墟になっていた。

                  49日の日三度目の訪問の時は

                     懐かしい2階の母の住宅はブルトーザーのタイヤの跡がついていた。

               父が自慢していた愛用の柿右衛門の赤絵の皿が

                   土だけになった、、、幻の母の家の庭に、、、割れて刺さっていた。

                              

                     庭の 鯉の居た池の傍に、、、母が大切に育てていた鉢植えの植物が

                          粉々になった鉢の傍で元気に生きていた。

                           空港で買ったお菓子の袋に入れて、

                   

            古い箪笥の、引き出しは、鍵が開けられて、

               空の引き出しが、引きだされたまま、、、

                         空になっていました。

                           ドアも、窓も壊れていたから、

                             守りたいものは、、、一つも無かったのかもしれないと

           はやく運び出さないと,、、天国に召されてしまうと、、、焦ったかのような???

   お父さんが若くなて戻ってくるのだからと、、、楽しみにしていた時期は過ぎていた。

母の意向からであったとはいえ、、、北海道の外科医と結婚して

実家に入ってくれる約束だった。。。。。主人ともども、母と暮らすはずだった。

           しかし、外科医が一人前になるのは40歳前後であった。

             主人が40歳前後の頃、

               外科医としてピークの年代に差し掛かり、

                 医療環境の整った大病院のスタッフを辞めて

                    妻の家の開業を共に発展させるという約束は

                       幼さがさせた口約束のように

                      夢物語の、愛情の世界は、、、あえなく挫折した。

                       北大が必要としてくれる限り

                               学ぶものが多くあったように 

                              妻と言うより、この頃は、、、家庭を振り返る暇のない主の姿が

                           長男の兄貴分のような、、、学生のような、下宿人のような、、、

                          一歩間違えて考えるなら、、、家庭が捨てられているのに

                          家族とすれ違いで帰ってきて、

                             朝には寝床から出勤してゆくので、、、帰ってきていたのだろうと、、、。

、                呼び戻されて、民間病院から臨床力や、何やら,、韓やらで、、、戻ることになったと

                  本人は言っていたが、、、妻のカンでピーンと来たことは、、、

                     当分、、、、家庭は、息子ともども、、、母子家庭のつもりで頑張らねば

                      姿は有れども、、、主人も父親も、すれ違い人生になるという感が働いた。

                  大学に戻ったとたんに、、、家庭には,こころあらざれば、、、主人が居ても、、、別の社会。

                    子供たちにとったら、、、父は居るはずなのに、、、居ないのと一緒のすれ違い。

                    男が一度、、、男道を選んだら、家庭は江戸屋敷と一緒!。

                     私は、母の葬式には、、、1人、、、とぼとぼと、、、弟に感謝の参列をしに

                       各駅停車の日本海廻りで、、、

                     母の大好きだった「藤田画伯」の生まれ故郷で下車して

                    もう、、、すでに、、、私の身体に、、半分同居し始めた母と

                      秋田で下車した、

                    ゆっくりと、新潟から、東京に向かった。

                       弟の勤務していた、がんセンター黎明期の立ち上げの先生がたが

                      お寺の庭にテントを用意して、手伝ってくださっているのは、

                      弟の仕事仲間らしかった、

                     60人ほどの、先輩や後輩や、

                      弟の高校時代に良く遊びに来ていた友人まで、

                      母の葬式が、、、弟に引き合わせた友人や、先生や、先輩、、、親類は

                      まるで、、、お祭りのように陽気な明るい雰囲気でした。

                      弟の娘が、、、大きな声を張り上げて!!!

                      「みなさん!!!静かにしなさい!!!、、、おばあちゃまが起きてしまうでしょう!!」

                         

                   皆静かに、、、笑いだしてしまった。

                  お婆ちゃんは、孫たちにとっても、、、永遠の人なのですね!。

                    母のピアノのァ弟子さんたちで埋まっている境内を

                   娘時代に出逢ったお弟子さんが、女の子を二人連れてきていました。

                  

                          

       

                  

     北海道に来るのは、、、容易だったが、

                  東京に戻るのは、

 

                     難しく

        

              里帰りもままならず、、、

                  

                    

               父が亡くなる直前の、元気な姿を、

                     私がペトリと言うカメラで撮った写真が宝物だった母!

                            生きることに振り回されながら、

                                70歳過ぎてからの母とは

                       会うことも無かった。

                  

                         

                80歳過ぎて、母の入院を知らせてくれたのは

                        弟でした。

                     

                      

入院2日目にも、、、

   「お姉ちゃん、、、早く来ないと、、、死に目に会えないよ!、、、」

弟は、何回も、電話をくれました。

             母の友人たち

                       ↑この可愛い真ん中のおさげが身の女性が母です。

                         私は、、、ベランダに出て、

                   母に別れを、空に向かって無言で伝えました。

                     母から、無言の応答が有りました。

          

「お母さん、、、

私の身体を半分かしてあげるから、、、

これからはいつも一緒だからね!」

          

母のアルバムを何度もめくり、、、

                こころ、、、は

                       東京の母の病院のベットの傍で

                         お母さんの、一生を、

                    遺書代わりに送られてきたアルバムを視ていました。

                       母の声が聞こえるようです。

   

                 弟の為にも、日記帳に残しておきたいと思いました。

     

 

戦後、南紀の疎開地で、誕生した弟は、同世代の、戦争を知らない世代として!

「団塊の世代」と呼ばれ、日本の希望を現実の復興として、実現した世代であった。

 

自分も後期年齢者の歳になって、弟の為にも、

    写真だけをまとめてみたいと思いました。

           

   母の実父の作次郎爺ちゃんです、町長さんや、疎開中は山奥の村長さんや校長先生や、

     南紀の山間の、戦後の電気のない村落にダムの建設にも貢献できた立場に居ました。

晩年は叙勲を受けたこともあり、東京にて生涯を閉じました。

明治20年代の生まれで、筑波大学の前身である師範学校を卒業して、28歳でアメリカに留学しました。

アメリカの長きにわたる生活は帰国してから、頼まれ町長を引き受けて、役場の隣の診療所に

戦後、疎開することで、13年間にわたる、無医村の七か村の住人の医療に従事した父は

君(弟)が生まれて学童期に入ると、戦後の日本の復活は、アメリカの教育を受けることで

アメリカに追いつき追い越し、平和な日本を復活させる新しい世代の息子たちの為に

東京に帰る,、、鮭が故郷に帰り、、、卵を産んで息絶えるように、東京で産まれた父は

最後の力を振り絞って、生まれ故郷の故郷、、、東京にたどり着けたのでした。

  

                            

13年間の疎開の村を去る日に、、、父の患者さんたちが、見送りに来てくれました。

無医村だったこともあり、外科医のはずの父は、村の出産にも関わり、老人の臨終に立ち会い、全ての村人の種痘を引き受け

学校医として、学童の検診に行き、、、診療代金は、、、ウナギや、野菜,、、クリ、、ヤマモモ。。。イチジク。。。桃、、、ミカン

何でも蔵人の誠意の代金を受け取っていた。

村人の、涙で送る姿。老婆が、、、地べたに座り込んで泣く姿、、、従軍して、戦陣外科で鍛えられた父の働きは

疎開先に集まった人々の健康を、孤軍奮闘しながら、守り抜いた14年間だった。

この時、弟の君は小学校3年だった。「お姉ちゃん、、、医者って、、、僕は大人になったら医者に成るからね!」

お姉ちゃんは、、、この時に、父の背中を視て、、、男の子は、医者を目指すんだと感じた。

父は、背中で、息子たちに、、、大切な何かを、、、伝えて、、、54歳で、、、過労死で、最後の瞬間まで手術をしていた。

戦争とは、、、何だったのか、、、明治生まれで、山村から、東京の大学を卒業して、50歳で未亡人になった母の表情から

強く生きる女性だっただけに、、、戦争が始まった時代、、、戦争中、、、戦後と

巨星の表情に、時代が反映されているように、、、お姉ちゃんの私は感じるので

母の表情に、、、戦前戦後の≪緊迫した、孤独な戦いの表情を、、、読み取れたら、、、

              私が幼くて、認識できない日本の女性の表情が、、

                       写真を通して、、、時代を語っているのではと思います。

  

                                

この学童たちの「大根畑の中に

                年子の兄が居ます。

                    父が従軍中に誕生した世代の、、、戦後の疎開先の学校の授業風景です。

疎開の人々が、村に入ってくる前は、山村の家もまばらな村でした。そこから「弁護士になった、、、村の羨望のエリートです。」

母が、息子達を山村で導くときに、弟に、井ノ口先生と言う。弁護士になった村の青年の話をしていました。

弟は学校の作文の時間に「井ノ口君」と言う母に聞いた偉人伝を、自分たちの世代に置き換えて、

弁護士と言う、、、子供には聞きなれないテーマで、和歌山県下の作文弁論の優勝カップをゲットしてきました。

村では、、、作文弁論、、、僕、私の主張、、、がブームになりました。

やがて、県下の作文弁論大会が始まり、弟は県下で優勝してきました。

新聞にも、観光紀州の雑誌にも、小学生の作文が掲載されて

弟の作品の主人公の「弁護士先生」がはるばる,、、蒸気機関車に乗って…バスに乗って。

疎開先の作文小学生だった弟に、、、!!!会いに来てくれました。

感動の一瞬を、、、小学生の私が、、、おもちゃのような{ヤシカのカメラ}でパチリ!!

貴重な、お姉ちゃんの作品です。昭和30年近いころ、

       大人たちは、戦後の復活のエースとなり年代の団塊の世代の少年少女に

                背中で導く心の影響を意識しないで示していた時代だった。

            

             疎開地の昭和24年ごろの、疎開先の小学校一年生です。

疎開地を出発!!、、、東京へ帰還する父。

東京での新規開業は、慈恵会医科大学時代の学友や、

先輩の助けが有ったからこそ実現できた

父の命をかけた、、、戦後の息子たちに、日本の復活を託した

命がけの、、、復活!日本は、、、教育だ!新しい教育を子供たちへ!

晩年の新規開業でした。

戦争さえなければ、、、

父も親戚も、友人も、、、」

最大の被害者は、女性たちの家庭が、流浪の旅を繰り返したという事です。

54歳で燃え尽きた父が、戦後の復活の日本を、、、末っ子に託して早逝した、、、、が

               弟は父の背中を視て、社会に貢献できた報道が、

                  孤独な北海道の姉にも、新聞、JAMA-アメリカ雑誌、

                    医学部進学の息子の教科書、、、などを通して

                  父の頑張りは、弟が引き継いで、日本の復活の医学分野に貢献できた様子が伝わってきて

                       北海道に閉じこもっていても、、、孤独ではなくなった。

  

            これは弟が国立がんセンターに勤務しているとき

義兄弟の主人とは仲良しです。

                    

                              戦後の復活期にCTスキャンの画像診断の発展に尽くしたという

                                  新聞記事だったので、

                                  大切に保存したものです。

      叔父さんの背中にくっついて、、、放射線に興味を持った、、、次男に

                  画像診断の「ピットホールを指導してくれた、、、叔父さんになった、、、弟」 

               

                       

                               

                          

                              

                         

                           

医者の卵を抱えて、、、地位は有ってもサラリーマンの医師の家にとったら

医師が一人前になるのは40歳ごろ、、、私も共働きの薬剤師に復帰した。

 

                   その後、一か月後には、大学病院の薬剤科の薬剤師として勤務に就きました。

                 何か月か経過した後、心やすらかに過ごすためにも

               その後、弟の勤務しているがんセンターで、

                  「検診のフルコース」を受けました。

                         ペットを受けるときは、、、

                     アロハー派のメㇿデ―(^^   ♪~ ♬♫、、、   の流れる

                            快適空間で、検診を受けれたことを、

                               思い出します。

                 がんは見つかりませんでした、

                  ダチョウの卵のような、、、卵巣嚢腫を手術してから、、、十数年、、

                           一切のがんは無い!心の平和!

                   検診の大切さは、、、自分を知るというメリット。

 

                   「叔父さんの診断の力は,、、神の域だよ、、、」と言う。

                   晩年の弟は、束の間の政権交代劇で、学門の良く分かっていない政治家の介入で

                    学問一途に世界に認められた国立がんセンターに

                         政治家と権力のメスが振るわれた。

                           政権が束の間だっただけに、、、弟たちの世代だけの被害で

                          今は又、、小クリルに帰還したようですね。

                 

                       弟の世代は、政治のクレバスに入ってしまい

                         弟たちの、黎明期のがんセンターを背負ってきた

                           だんかいの世代の名医は

                            国立がんセンター50周年記念のHPには

                              出ていらっしゃらなくて、、、

                             患者さん置き去りのまま、、、愛知県からの先生方に

                                 変わってしまい

                             弟の名前を言っても、、、

                          がんセンターには、黎明期の貢献者のスタッフは、、もういなかった。

                           「若い研修医のような年頃の白衣のスタッフが、、、

                          「聞いたことのある名前の先生だな?!」

                  一生懸命、、、探してくれましたが、

                           弟は、、、もう、、、がんセンターには居ませんでした。         

               

                         

                        

                         日大の同級生のあなた、、、新橋の新興クリニックに行くときは

                             近くに、イタリヤワインのお店が有ったから

                               今もその店やっているかどうか?

                                   気になっている同郷性が

                                       北海道に居るってこと、、、思い出してね!

                         

                        

                        私の主人とは、、、義兄弟で、二人とも現役の医師をしています。

                  

                    

                                      夫婦となると

                                    旦那には、、、文句の一つも出るから、、、

                                救われない、、、私の、、、ダメなところかもしれません。

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

               

                              

新橋の駅から、歩いて行ける検診センターで

          定年後は一般患者さんの検診をしていると聞きましたが、

             がんセンターの検診検査室長の時は

                     国立一期校の教授の先生も