花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

アナログとデジタル 

2017-12-12 11:08:54 | Weblog

バカになれる、、、いわゆる「玄人」には、心も技も、、、勝てません。

我が家は父が外科医であった事も原因で、

小さいころより、、、「医者バカ」の父の姿を見てきました。

戦時中に防空壕で産まれた私は、ひ弱な赤ん坊だったらしく

鳴き声を立てて、空腹を知らせる元気もなかったそうです。

ひたすら眠り続けていたおかげさまで、

防空壕の中で、味方に口をふさがれることも無く、

戦火の中を、、、運よく生き延びて73歳になりました。

耐えがたきを耐え、、、忍びがたきを忍び、、、

玉音放送の昭和天皇のお声の「ラジオ」の前に

日本人はひれ伏して、敗戦を知りました。

教科書には、背高の「マッカ―サー」の「カジュワルモード」の服装と

いぎを正された服装の昭和天皇陛下の「お写真」が

何と、、、教科書で、「社会科」として掲載されていました。

敗戦は国民も苦しい時代でした。

しかし、陛下のご苦労は、心身ともに想像をはるかに超えた

耐えがたきを耐えられた、次代であったと推察しています。

祖父は筑波大学の前身であった師範学校を卒業し

27歳の時、嵐の中を汽船に乗って、

3か月という月日をかけて

渡米しております。

戦後、疎開先の南紀で頼まれて町長を引き受けていた時代に

私は5歳ぐらいの時に、祖父に出逢っていました。

疎開先で、にわかに人口が増えて「町」となったためか、

ワシントン大学を卒業した親戚のオジサンは

郵便局の窓口で、切手を買いに行くと、いつも、折り紙をくれました。

葉書を包んであった包装紙で造った「だまし船」でした。

眼をつぶって船のへさきをしっかり持たせ

眼を開けると、それが帆にすり替わっていた、、、あの「だまし船!」

校長先生だったこともあるお爺ちゃんは

毎朝の朝礼で、三つ揃えを着て

白い手袋をはめて、「朕、、、おも、、、に、、、」

恒例の早朝の風景であった「富国強兵の時代」の人であった。

敗戦後は、町長になって、疎開をしていた町が、

少しでも、近代化に遅れないようにと、

ランプと蝋燭の文化だった山中に「ダムを創る事を提案した。」

反対も、賛成も、入り混じる中、

ダムが出来上がったら、

ダムのある地区の村長さんへの引き渡しをして

完成した。

ダム工事の長い年月。

娘婿であった私の父は、あたり一帯の無医村の医療を請負い

村民は父を医療面でも、文化面でも受け入れてくれていたと思った。

にわかに町になった村の診療所は

二階は解放されて、

アナログの戦争の傷跡を背負った疎開人の

傷ついた心を吐き出す事の出来る

趣味のイベント会場」となっていた。

バスで通ってきてくださる「日舞の先生」

「三輪バタバタ車輪」で迎えに行く「ダンスの先生」

三味線、、、も、、母のピアノのそばに有りました。

アコーデオン、ハーモニカ、笛、

手回し蓄音機と、電蓄はお爺ちゃんからの借り物。

まず我が子から、

母は、パン屋さんの娘さんや、宿屋の娘さん、

お店の娘さん、、、等々、

おけいこに通う先発隊の娘らに、

いくつかの日舞を取得させて、祭りなどに踊らせてもらいました。

奴さん、春雨、梅にも春、松の緑、山姥、潮汲み、、

浦島、雨の五郎、、、、南紀らしく、、、御所車、、、など、

高学年になるにつけて、レコードが5枚ほどもある長唄に

習う方も、だんだん真剣になってゆきました。

「この、、、山中に、、、れきじつなし、、、はても見事な、、寒紅梅!」

刀をさして、、、旅の笠かぶり、、、背の高かった私も

男役になって、美しい山娘の役に張り切っている下級生と

宝塚の男装の麗人になった気分で、

体当たりの「戦後復興」のピエロをさせてもらいました。

写真も、、、色があせて、、残っているよ。

敗戦の後の

「いも入りおかゆ」

「脱脂乳」「ピーナツバターのコッペパン」を

御馳走と思いながら食べつつ

祭りにかけた、はけ口は、

今、振り返ると、、、

「心の医療」を受けていたのだと、、、気が付く。

出番があるという事は「元気になるという事であった。」

ポツダム宣言を受け入れて

GHQという、、、聴いたことのない横文字が頻繁に聞かれて

英語の達者なお爺ちゃんや、

一緒に住んでいた祖父の兄嫁である所の御婆ちゃんに

横文字の意味を、教えてもらいに走ったものだった。

祖父の家は玄関の上がベランダになっていて

あのころはみた事のない洋館で、

玄関のドアを開けると、

みた事のない橋の絵がかかっていた。

祖父は、

「ゴールデンゲイトブリッジ」という橋を見て書いた油絵だと言った。

なんやて?、、、怪訝そうにする私に、改めて

「金門橋」、、、きんもんんきょう、、、て言う橋じゃよ」、、、と。

もう一つの入り口の下が地下室になっていた。

地下室は浴槽大の大きな木箱がぐるりとおかれ、

食堂に通じる螺旋階段があり、

階段の下は井戸があった。

木箱には、

田畑のない、「疎開で無一文の手伝いの家族」の為や

配給では足りない、食料に困った傷痍軍人に

用意したイモや玉ねぎや、トリの卵がストックされていた。

皆で力を合わせて、戦後を支え合っていきた.

正月が近くなると、地下室は大勢の村人であふれ、

大きな臼でもちをつき始めるのだった。

夏の前には、梅干しの樽が、ぎっしりとなった。

疎開から13年、我が家は息子たちの戦後の教育の為に

父の生まれ故郷の東京に帰ることになったのでした。

父は、市谷界隈の武家屋敷の長男であったと思いますが、

母は結婚当初、「歌舞伎門のある大きな家だと思った」そうです。

戦争で、すっかり焼け落ちて、

実家も、混乱の中で失ってしまい、

宝仙寺のお墓だけが、残っていました。

下町の使えなくなったお寺の後に診療所を新設し

疎開地から、戦後の教育から遅れまいとする有志の一族とともに

一から出直しの里帰りの東京への帰還でした。

、、、、、、

あのまま疎開先の、親しんだ山や川で

村の診療所が引き留めてくれるままに、

尊敬されて、敬愛されて、必要とされていた40代を続けていたら、、、

父はもっと、、、もっと、、、長生きをしたと思いました。

子供の教育の為にと、母は2年も先に、東京入りをしていました。

村人に引き留められるままに、2年遅れて、父は

母が下準備した下町に、開業しました。

大きな総合病院の院長だった父は

戦争で、全てを失い

男の子2人、女の子一人、外国で失っていました。

最後の力を振り絞って

鮭が産まれ故郷に帰って来たかのごとく

本能に任せた命がけの帰還だったと、、、

今は振り返って思うのです。

丁度、武見会長が銀座に診療所を持たれて

医師会長をされていた時代でした。

健康保険制度が始まり、

外科医だった父の診療、手術、薬品は、

患者さんの状態の為には、自腹の抗生剤投与も多く、

銀座の武見診療所は「払える人からだけしか医療費をいただかない」

。。。。。+++++。。。。

一般の開業医でも、

払えない人は、入院の費用が踏み倒しが常識でした。

我が家は、それでも従業員には月給を支払うわけですから、

父は、まっすぐな性格上、

軍医の時の延長上のように、

門の前で倒れた患者さんは、

無料で完治させて、退院近くには、姿は消えていても

あえて、追う事はしませんでした。

戦後の急成長のおかげで、

お金持ちの患者さんも来てくれていたことで、

何とかなっておりました。

しかし、、、坊ちゃまという戦前の生い立ちから

慈恵会医科大学でイギリス医学を取得して

「病気だけを診ないで」、「病人丸ごと診なさい」と、、、教えられた父は

面倒見が良すぎて、

お金のない人が、倒れていることが頻繁で

医療費が回収できなくて

母と、口論していることが多く、

それでも、

「イギリスの病院は、、、ゆきだおれの人を診療しているうちに

病院という、社会になくてはならない組織が出来た原点だから、、、!」

がんとして、面倒をみて、家族や、働く仲間との間のコントロールで

時代の犠牲者になってしまったと、、、私は思いました。

54歳で、、、前日、、、手術の執刀をして、、、

麻酔が切れるまで、仮眠している、、と思っていたら、、、

永眠してしまいました。

しかし、団塊の世代と言われた

敗戦からの復興の旗頭集団の息子たちが

父の後をついで、

日本の医療に貢献できた事は、

父は、天国で、きっと、満足していると思います。

生前、、、国立がんセンターが出来た時、

これからの時代の医師として、尤も願っていたセンターが出来た、、、と

当時、日大の医学部の学生だった兄に

語っていたのを思い出す。

末っ子は、高校生の時、父は54歳で旅立った。

国立だけしか受けられないとなると、

テニスにくるっていた高校生も、命がけの受験にアタックする者だな~~と

君子豹変する、弟に、私も夢を託した。

彼は、千葉大の医学部の合格して、

父と同じの外科の医局に居たが、

劇的な出会いが、、、彼をがんセンターの無給スタッフとして夢を追い始めた。

キット、54歳という父は、自分が死んだことに気が付いていなくて

弟とともに、医師の夢を追い始めたのかもしれません。

アナログな私は、このように考えたりするから、、、ふしぎな 脳でしょう?!

        ****************

武見会長の時代に、開業医と病院の役割分担を提案されていましたが

大学や、がんセンターや、国立循環器センターや、、、医学の深淵さは

工学も光学も、講学も、親たちの向学応援も、全て高額の時代に突入して

あらゆるジャンルの専門家が

円卓に向き合って、

医学の進展にかかわる時代に突入してから

久しくなります。

医学部を出てから、医師になる事の難しさもさながら

医師を続けることの難しさは

医師本人のみならず、家族伴侶すべてが

医療バカになっても、

やっとの思いで、医学の進歩にのって、診療が出来るという

デジタルな速さで進歩する医療界となりました。

70歳を過ぎても、5歳年下の私より、

キーボードを扱う、電子カルテの時代に、

主人は、数々の認定医の講習や、指導医の講習や

医師以外の認定等や、指導医資格の試験を受けに

学会に参加したり、試験を受けに飛行したり、

診療や、勉強会や、報告会や、、、

家庭は、医師をするための舞台裏でした。

あらゆる家事は、メンテナンスから、、、雪かき、、、ゴミ捨てまで

家内だけに任されている以上、

薬剤師としては、真夜中の急病センターのボランティア調剤で

腕を落とさないという工夫。

結婚以来、病気がちの夫が、育児が終わらないうちに

父のように54歳で死んでしまったら大変と、

トラウマのように、、、用心深くなってい居た。

病後、単身赴任していった主人を、、、一度も訪ねてゆく余裕は無かった。

薬剤師という腕を信用していただき、私名義で

拓銀から、4家族用のアパート運用の資金をローン借りた。

子供の居るうるさい、いたずら書きする、

他のアパートが敬遠する家族に入居してもらい、

出てゆくたびに、子育て支援と思って、

壊れたところは、大工さんを呼んだり、

自分で壁紙を張り替えに奔走した。

おかげで、5000万円のローンに

さらに上乗せした事業資金であったが

20年の間には、何とか回って行っていた。

息子たちの学資として、、、何とか役に立った。

主人が、国立の大学スタッフという、

医者の本人が、先進的な仲間に遅れまいと、

日進月歩の医学仲間のレベルについてゆくための

自分の学問人生を支えるだけの、

精進の時期と

息子たちの大学進学が重なったための、

苦肉の作戦の自転車漕ぎで、、慣れないアパート経営であった。

苦労も、、、振り返ると多かった。

リホームは、ダイナミックな壊され方をする時代になった。

素人の壁はりでは無理な時が来た。

水道や、キッチン、トイレ、、収入はほとんどマイナスになるほど

リホームにかかり始めた。

ガスボイラーも、子育て中の入居者には、支払えず

頻繁に壊すたびに、万一のことを考えて

新品に付け替えた。家賃は3か月分が消えた。

おりから、責任ある役職に就く時代が、

主人にも、やって来た。

私は、

「性格が正直で、一生懸命子育てをしている家族」を

一家族だけ、入っていただき、入居者のトラブルを最小限に設定しました。

主人が役職に居るときは、

断腸の想いで、完全にリホームした部屋を

空室にしたまま、水を落として、貸さないでキープしました。

入居者の安全管理が100パーセント完全でないと

主人の役職中に、

家内の事業が迷惑になる可能性を重視したからである。

 

しかし、リホームして空室にしたという事は、

経営者側からすると、

安全の保障を得るための苦しい防衛であった。

 

リホームのお金は回収できないわけであるから、、、

主人の出世を感謝するなら、、、、

火の車の経営になる前に

手放してしまった。

世間様に払うべきものを支払うと

アパートを経営していたという、、、痕跡すら消えた。

サザエさんのような、、こどもが成人した暁には

家族全員で住める住宅を創る事で、

老後の、長生きしすぎた人生を、楽しく過ごす夢があった。

夢は消えた、、、というより、、、夢があったから、出来たのかもしれない。

私は、、、何を、、、、、、したのだろう、、、

子供たちの授業料に間に合ったではないか!

子供たちが、、、社会の一員として、親元を飛び立ったではないか!

サザエさんの家なんて、

73歳の婆ちゃんの夢であって、

皆は、一緒に住みたいと思ったかどうかは、、、?解らないよね。

古城が残って、管理に困るイギリスは

日本のホテル業者に古城を任せるという番組を観たことがある!

きれいさっぱり、無くなった今、

本職の、病院薬剤師をしていた5年間の思い出が甦る。

あの時代は、稼いだ分だけ、海外研修に参加していた。

父の尊敬していた、、、高木先生が留学していたイギリスの病院も見てきた。

ペニシリンを発見したフレミングのタブレットのかかっている病院も

見学してきた。

大学時代に生薬学の女性教授が研究していたという

パスツール研究所にも見学に行ってきた。

狂犬病の予防で有名な研究所であったが、

エーズの研究でも知られている。

理科で習った「ツル首のフラスコなどが、、、保存されていた。

結局、、、薬剤師として戻ると、

家庭を振り返らなくなる自分に気が付いた。

主人が、、、俺、、俺、、と自分中心になるのも理解が出来る。

家庭に舞い戻ったのは、二男が格闘技の最中に

怪我をして、急きょ勤めを辞めて、完全に復帰するまで

東京で暮らした。

帰郷すると、、人事部長さんが、部下と一緒に

今は無くなったけれど、、、我が家の近くの

ロイズコーヒー喫茶店まで来てくださり

もう一度戻って来ないかと、、、お誘いくださった。

怪我は、、もう、、こりこりだが、、、

二度も三度も、、、仲間に負担をかけるわけにはいかないし、、、

合わせる顔もない、、、2か月の欠勤だった。

アナログな、サザエさんの夢を追う時代は終わったのだった。

私は、、、主婦専業として、家庭に還った。

次世代の子供や孫は

ロボット時代に入るのだから、

スマホを使いこなし、

情報の社会を泳ぎ、

センチメンタルな爺婆は、、、かえって、、足手まといと思うだろうね。

80歳過ぎてから、英検1級に合格した兄さんから

学ぶことは多いものです。

兄さんは、兄弟4人の思い出の実家を

あの、、、父が命がけで還ってきた東京の医療施設を

勤務医として飛び出した今は、、、足手まといとばかり

二束三文で売ってしまった。

ダイナミックな終活作業であった。

そして、施設に入って、後方に憂いはないだろう、、、

たった一万円の分け前もなかった。

維持費のかかる古城は、ただ同様でも

手放せた事を喜ぶべきか?

父母から継いだ医療施設は、医師となって継ぎたい人はいなかった。

親から継いだ医療施設だけに

5パーセントの購入費だけが相続を認められたらしい。

後は、、、現金納入、、、

痴呆が認定された兄嫁には、、、維持は難しかったのであった。

父と、母に可愛がられた弟は

人手に渡った実家を一人で観に行くのはさびしいからと、

私も、ゆくつもりはなかったが、、、

弟の運転する車の後部座席から、車内から見るのなら付き合うと、、、

同乗して、懐かしい公園前の、、、かっての我が父の診療所を観た。

がっちりとした、鉄の門んがしまっていて、、、無心だった。

私は、、弟に言った。

お姉ちゃんの故郷は、、、

君自身が成し遂げた医師として社会に還元した実績が

お姉ちゃんの「実家だから、、、」と言った。

心から、言えた。

この実家が、、、燃え尽きてくれたから

二人の医師と、二人の薬剤師、、、

そして、後を継いだ兄は、、、母が死ぬまで開業を維持していた。

母は、父の造った医療施設で守られて

ピアノの教師を80歳まで続けられた。

母が死んだあとは、兄は勤務医として

内視鏡の指導医の資格で実家から飛び立った。

兄は、家から出て行った内科医の息子を信じたのだろう。

もう、この施設は燃え尽きたと、、、判断したのだろう。

主である兄嫁が痴呆になっては、、、守りきれない。

我が家だって、、、他人事ではない、、、

医者バカの、、、医者しかしない主人は

仕事を続けるから、社会の役に立っている。

本人がやる気になっている間は、全力でサポートしようと思っている。

役職に就くと

「有名税のような立場維持のための配慮が必要だ。」

77歳になって、、、

しっかりと残ったものは

医師として、医師をし続けた医師の心が残った。

医師を続けるという、、、、難しい持続をやってのけた。

名誉ほど高くつくものはないかもしれないが、、、

医師を続けることが出来ている間は

無条件に、世間様のお役にたっているのだから

相棒として、、、縁があった以上

神のおぼしめしと信じて、

、、、、割に合わない雪搔きも、

。。。。一人ぼっちの北国の暮らしも

、、、、人生登山の主人の仕事の重さを認識し

、、、、シェルパの仕事を、黙々とやりながら、、、

、、、、欠陥住宅の離れに、セントラル暖房のある

、、、、リホームが出来る日が来るといいね。

そしたら、、、私の専属の部屋が出来るかもしれない。

今は、、、現役の家族の移動の度に

必要なくなったガラクタが、、、、いいえ、、いいえ、、

移動によっては必要かもしれないガラクタ?が

昭和50年頃、本州のブランドのメーカーが建てた家が

当時は、北海道には、技術者が足りなかったようですね。

去年やっと、、、水道が漏れ続けて、、、

庭が水浸しのままだった原因が判明しました。

入居者の責任範囲以外の、、、

市の担当範囲の部分が漏れ続けていたという事でした。

長い間、何度も何度も水道やさんがどやどやと来られて、

メンテナンスを繰り返しても漏れるので、

何十年も使ってない水道はきっと、、、水を通すと、、、

どこかが、、、漏れてくるでしょうね、、、

最後に、、、ついに見つけてくれた原因不明の漏水部分は

庭を恥繰り返して、、やっとわかりました。

この損害は、、、金銭的な事よりも、、、

水道が止まっていた何十年間は、、、

倉庫にしか使えなかったという事です。

 

住むには危険な欠陥住宅であるがゆえに5年後には

ローンを抱えたまま、隣の敷地にコンクリーパネルの家を建てタ。

今は使ってない家具や本、電化製品などが、陣取っています。

近所の人は言います、、、、

家が、、、2件あっていいね、、、

「水道も、トイレも使えない、、、スガ漏れのする、、、愛すべきオールドかーよ!」

今は、現役の、家族の男どもの、古本、机、壊れたソファー、電気製品、、、

未使用同様のVM21、、、洗濯機、、、テレビに電燈、、一見して

不必要に見えるが、データーが大切とか、、、

アナログ時代を生き抜いた私には

デジタルなガラクタに見える物の

データーの価値が、、、今一つ処理に困るのです。

情報が大切な時代になりましたね、、、

アナログな私は、、、、情報の前で経ちつくし、、、

ガラケーで息子たちに電話をかける、、、、

捨てていいもの、、、より分けに来て、、、!!

子育てには、、一緒に育児に参加してくれる職業の

ご主人を探して結婚すると、、、サザエさんのような家族に、なれますよ!