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バーボングラス片手のロックな毎日

WBC 勇気と感動の大安売り

2017-03-23 23:54:08 | Talk is Cheap
WBC2017が終わった。
優勝はアメリカだったらしいね。

でもさ、この世界野球大会はあまり好きじゃないのよね。
野球が嫌いなわけじゃないよ。
今じゃスポーツとは全く無縁だが、子供の頃は日が暮れるまでボールを追いかけてた野球少年だったからね。

西宮に住んでた頃は、甲子園球場も西宮球場も親に連れられてしょっちゅう行ってた。学生の頃は、弱かった阪神の試合を見にガラガラの甲子園球場にも行った。高校野球も外野席はタダだったからよく行ったね。専門学生の頃は学校帰りに日生球場に行って近鉄戦みたり、藤井寺球場の外野席で寝転んで、ラジオ聞きながらビール片手に南海戦を観戦してた。ドジャーススタジアムも行ったよ。

だけど、WBCは興味わかないのよね。
そりゃ今回も大谷が出ないとか、ホームラン性の当たりを子供がキャッチして二塁打になったとか、菊池がファインプレーしたとか、準決勝で負けたとか。ニュースは見るから知ってるけど、それで「へぇ〜」ってなくらい。

だいたいワールドベースボールクラシックって大会名からして嫌い。
アメリカと日本以外で野球に興味がある国ってどれくらいいるのかさえ曖昧だが、その野球の全世界大会に、「クラシックって・・・」とツッコミ入れてしまう。
クラシックって古典とか伝統とかって意味だよな。野球の歴史は古いけれど、この世界大会は2006年が最初で、今年で4回目のはず。それなのにクラシックって。なんかおこがましい。

ゴルフのThe Openはクラシックだ。歴史もあるし伝統がる。今までにも数々の熱戦やドラマがあった。深夜でも未だに見てしまう。
テニスのウィンブルドンもクラシックだろう。あのセンターコートで勝つことは名誉だろうね。錦織ブームで最近は逆に見なくなったけど。
サッカーのW杯なんかもそろそろクラシックと呼んでいいかもしれない。これは大会期間中どこの国の試合であろうが見れる限り見てしまう。しかし、顔にペイントしてパブリックビューに行ったり、街中で騒いでる人を見ると冷める。
オリンピックは当然クラシックだ。

でも、野球の世界大会はクラシックではないだろう。
なんか観る気がしない。
それらに関するスポーツニュースや特集も嫌い。
何が嫌いって、「感動をもらいました」「勇気をもらいました」ってコメントが嫌い。これが特にこういった世界大会では多いのよね。
「日の丸を背負って」とか勝手に押しつけるのも嫌いだし。

いいプレーをする選手や、白熱する試合を見て一般人が「感動しました」と言うならまだわかるのよ。
大舞台で緊張と不安の中、全力を出し切った選手のプレーを見たときは鳥肌さえ出る。
長野オリンピックの原田のジャンプとかね。最後の船木のジャンプの着地の際、不覚にも涙流してしまったよ。

しかし「感動した」ならわかるのだが、「感動をもらいました」って、言葉変じゃない?
最近のテレビはやたらと感動仕立てにしようとするからか、最近やたらこの言葉を視聴者側が言うからなんか冷める。
これはオリンピックでも高校野球でも言えることだけどね。
生い立ちがどうとか、女手一つで育ててくれたとか、父がサポートしてくれたとか。そんなドキュメントをリアルタイム放映され、「さぁ感動しなさい」と強要されてる。視聴者はそれが観たいのか。それで感動を誘発されるのか。それで涙を流せるというのか。って思いながら見てしまうから余計に冷める。

「勇気をもらいました」ってのも嫌い。
視聴者側が「勇気をもらいました」、プレーする選手側が「(日本のファンのみなさんの声援に)勇気をもらいました」
勇気の安売り。

これも日本語おかしくないか?
勇気を振り絞ってとか、勇気を出してとかならわかるが、勇気をもらったって。

アメリカの偉大な野球選手・ベーブルースが、手術受けるのを不安がって拒んでる少年を勇気付けるために、予告ホームランを宣言し、見事その打席でスタンドにボールを叩き込んだという逸話がある。
その少年が「ベーブに手術を決意、病気と闘う勇気をもらった」って言ったのならわかるのよ。

またそのベーブルースやゲーリックなど、大リーグの強打者相手に三振をとりまくった沢村栄治のピッチングを見て当時の人が「感動した」「勇気をもらった」というのならまだわかるのだ。
日本が外国にコンプレックスがあった時代に、日本人が対等に渡り合った姿を見たらそりゃそう思うだろう。
これは力道山が外人レスラーに空手チョップを炸裂させたりしてたのを、街頭テレビで見てた人ならそう思うだろうさ(その時代に俺は生まれちゃいないけど)

これは日本のプロ野球関係者にボロカス言われながら、単身海を渡った野茂がトルネード投法でメジャーリーガーから三振奪いまくったのと通じるな。
でも、立ちはだかる強敵に真っ向勝負で挑むその姿を、見てるファンが「感動したぞ」「勇気を感じたぞ」と言うのならわかるが「勇気もらった」はおかしいだろ。

それなのにWBCの試合を見て「勇気をもらった」などという人(選手も)がテレビに映るたびに「?」って思ってしまう。
そんなにいつもビクビクしてて、不安で、何をやるにも決断できてないのか。それでサムライジャパン(このネーミングも嫌いだが)がプレーしてる姿を見て、いったい何の勇気をもらったのか教えて欲しい。

実力差がありすぎて、明らかに勝てないであろう相手に挑んでいく姿を見て勇気を感じたり感動するのはわかるよ。
映画「ロッキー」を観て「よし、俺もやるぞ」とか、矢沢永吉の「成り上がり」を読んで「ちくしょう、俺も何かやってやるぞ」と一念発起したとかね。決断する力、吹っ切る力、それこそ一歩踏み出す勇気を与えてくれたんだろうから。

最近ではフィギュアスケートだろうが、バレーボールだろうが、何かにつけ「勇気をもらいました」がはびこってる。
声援に後押しされてというのならわかる。
もう諦めそうになってる時、くじけそうな時にファンや観客の「頑張れ!」「ファイト!」って声が聞こえ、立ち上がれた人が言うのならわかる。
そんな気持ちになれるなんて、羨ましいくらいだ。

だけど軽々しく「勇気をもらった」とかいうのはやめてくれよ。
ほとんどの場合、勇気なんて与えちゃいないし。

WBCでイチローが韓国に対し「今後30年、日本とは戦いたくないと思わせるような試合をする」なんて言ったせいで、韓国チームが奮起しイチローは完璧に抑え込まれたた。そして決勝で、最終回イチローがヒットを打って日本が優勝できた。
あのイチローの打席はファンは固唾をのんで見守って、心の中で声にならない声援を送ってただろう。
あれがファンの声が届いたとイチローが言うのならわかる。あれは「勇気をもらった」と言ってもいいかと思う。でもさ、イチローはインタビューでそんなことは一言も言わなかったよね。

それなのにマスコミやメディアは未だに軽々しく「感動をもらった」「勇気をもらった」のオンパレード。
特にWBCの報道の際は多いのだ。
野球ファンでさえ興味のない人もいる(俺だ)WBCなんて、野球好きじゃない人には全く関係ない。少しでも興味を持たせようと必死なのはもわかるが、くだらないドラマの番宣みたいだ。
しかもそのファンでさえ、試合時間をもっと短くしろとか、試合開始をもっと早い時間にしろとか、なんで証人喚問と同じ日なんだ(これは長嶋一茂だけだが)とか好き勝手言ってたし。

東日本大震災の時は「頑張れというのは無責任」とか「頑張れというのは被災者にプレッシャーを与える」なんて言ってたくせにな。
マスコミに勝手に日の丸を背おわされた選手には「頑張れ」と言っていいのか。
それを誤魔化すかのように「感動をもらった」とか「勇気をもらった」って報道されてもねぇ。

そのうち豊洲移転問題で市場関係者が「勇気をもらった」とか言いだしたりするんじゃないか。小池都知事が言うかもしれない。いや、すでに思ってるかもしれない。
森友学園の理事長(元)も言いだしそうだ。いや、すでに勘違いしてそうだ。

感動とか勇気の安売りはもううんざりだ。







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