日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





「上」の続き)


 晩年のトウ小平と現在の胡錦涛を比べてみたとき、胡錦涛に欠如しているのは言うまでもなくカリスマ性です。カリスマ性があれば、いかにバランス配慮の妥協人事体制下であろうと、鶴の一声でそうした現実を超越し、大局を転換できます。自らの奉じる指導理論を徹底させることもできます。ちなみに、トウ小平理論が党規約に明記されたのはトウ小平の死後のことです。

 逆に、胡錦涛がいかに果断な性格で必要とあらばどんな無慈悲な措置にも踏み切ることのできるキャラであっても、カリスマ性がない以上、我を通すことができません。あっちに配慮しこっちに気を遣って……ということになり、打つ手打つ手がことごとく切れ味を欠くことになります。当然ながら、「科学的発展観」が途中で骨抜きにされることにもなるでしょう。

 「構造改革派」vs「既得権益層」と前述しましたが、今後はどちらの勢力も錦の御旗である「科学的発展観」を高々と掲げて相争うことになるでしょう。前者は胡錦涛の意に沿った字義通りの、そして後者は自分たちの都合のいいように骨抜きにした「科学的発展観」の旗を押し立てるのです。

 最もわかりやすい例は「諸侯」と呼ばれる各地方当局の面従腹背です。今年の中国のGDP成長率は通年で10%を超えると予測されています。ところが元々3月の全人代で示された目標値は8%前後。中央の指示などどこ吹く風といった様子です。

 地方当局といっても様々ですが、直轄市・省・自治区レベルの当局には「団派」など中央から胡錦涛の息のかかった連中が送り込まれていますから、まだいいのです。問題は、そうした「雇われトップ」が赴任するなりいいように祭り上げられ、末端レベルまで自らの意思を徹底できないことでしょう。

 汚職摘発で最も多いのが県当局あたりの官僚です。省当局より2段階ほど下のランクになりますから「雇われトップ」の監視の目も届きにくく、その割には意外に大きな裁量権を有していることによります。地元のボス、本当の「諸侯」はこうした県党委書記あたりで、位は低いものの、上からの掣肘に抵抗できるだけの「割拠」状態を現出させ得る実力を有しているといえるでしょう。

 そのひとつ下の鎮当局あたりもやりたい放題です。分際不相応な超豪華庁舎の多くがこうした県当局、鎮当局あたりによるものであることは象徴的といえるでしょう。「雇われトップ」はマスコミによるスクープでもなければこうした末端レベルの振る舞いを知らずにいるか、あるいは手を出せないかのいずれかです。

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 こうした「諸侯」が典型的な「既得権益層」なのですが、胡錦涛の実力ではそれをねじ伏せることはできません。今後もGDP成長率などが中央の定めた目標値と実績ベースがかけ離れている、といった形で私たちはそれを実感することができると思います。

 もっとも、「本位主義」(大局を無視して地元最優先)だの「地方保護主義」だのと中央から批判される「諸侯」にも言い分はあります。中央の視点に立って効率に合わない炭坑や開発区を整理する、公害企業を叩く、ということになったとき、わんさか湧いて出る失業者を救済するのは「諸侯」の仕事ですから。……ただし、そんなことよりも不動産開発や農地強制収用に象徴されるような官民癒着の甘い汁を吸えなくなることが「諸侯」にとっては大問題でしょうけど。

 ともあれ、カリスマ性が欠如した胡錦涛には、「科学的発展観」という立派で正論といえる指導理論があるものの、これを以て「既得権益層」にいうことを聞かせるというのは無理な相談です。無理ということは改革開放の「負の部分」である現状の「格差」がいよいよ激化することが避けられない、ということになります。

 こうした状況に対し、「政治改革が必要」とか「民主化は不可避」といった意見が日本や香港のマスコミで目につきました。ここで私は標題を持ち出すことになります。

「民主化?政治改革?寝言は寝て言え」

 ということです。現在の状況下で中華人民共和国がバラけず立ち腐れずに何とか一国としてやっていくとすれば、いま必要なのはカリスマによる独裁だと私は考えているからです。

 以下は前回のコメント欄でもふれたことですが、まず「改革」とは何かということです。立ち行かなくなった古いしきたりをぶっ壊して、新たな秩序を定着させるということだと思います。中国の場合、具体的には競争原理の導入と分権化が改革の骨子であり、それは現在も変わりません。

 ただし、中国は巨大な人口を抱える割には資源が少ないという不幸な国家です。いざ開発路線となったときに資源の争奪戦が発生するのは自然なことです。また中国人とはいえその地理感覚は平素なら県レベル、広くても省や自治区といった範囲が実感できる生活空間。

 「春秋五覇」「戦国七雄」ではありませんが、そうして分裂しているカタチがむしろ常態かも知れないのです。「さあ開発だ」となったときに、競争原理と分権化のもと、各省・各自治区がいずれも自己完結する川上から川下までの産業体系を揃えようと競い合うこととなり、資源の争奪戦と各地区の市場の保護主義が深刻化します。産業構造が重複しますから質も効率も悪いものとなります。「諸侯経済」と呼ばれるものです。

 しかも一党独裁制ですから、その少ない資源を分配する権限を握る者が特権を有することになります。これが汚職の温床となることはいうまでもありません。

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 こうした状況は1980年代末期にはすでに出現していました。政治的にも経済的にも、競争原理の導入と分権化そして一党独裁制によって生じる「負の部分」をコントロールするシステムの構築が課題となりました。当時の総書記だった趙紫陽は経済面での対策を講じる一方、「党政分離」「党企分離」といった政治制度改革、また全国政協(全国政治協商会議=形骸化した共産党外のチェック機関)の監督権限強化によって一党独裁制のもたらす弊害を最小限にとどめようと試みます。これが「十三大」(1987年)秋の段階です。

 ところが趙紫陽は翌1988年夏に思い切った経済政策を断行したことでスーパーインフレが発生し、その責任を保守派に衝かれて経済運営の主導権を奪われてしまいます。そして、そのまた翌年の民主化運動~天安門事件にて失脚。そのブレーンも散り散りとなり、折から東欧・ソ連など共産主義政権が相次いで崩壊していく時期だったため、政治制度改革はタブーとなってしまいます。

 振り返るに、もし手を打てたとすれば、それはこの20年前の段階だったのではないかと思います。トウ小平は徹頭徹尾「中共人」でしたから複数政党制の導入などもってのほかだとしても、中共政権がその内部に抱え込んだガンをすっかり切除することまではともかく、最低でもガン細胞の転移を抑制することができたかも知れません。

 しかし、民主化運動がもたらした中途半端な権力闘争に巻き込まれて趙紫陽は失脚し、その機会は永久に失われることとなります。その後約20年間、タブーである政治改革を置き去りにしたまま、経済面のみの改革開放という片肺飛行を続けてしまったからです。その挙げ句が「負の部分」の蓄積による社会状況の悪化。いわばガンがあちこちに転移した状態で、「民主化」だの「政治改革」だのといった外科手術に耐えられるほどの体力を中国社会はもはや残していませんし、そんな悠長なことに取り組んでいる時間もありません。

 1989年の民主化運動は、民主化という理想を求めた大学生や知識人によるムーブメントでした。体制内改革を求めたものでもあります。民衆はそれに拍手を送りました。が、自らも加わって運動の主体となるまでには踏み切れませんでした。

 然るに現在、当局発表でも年間8万件以上のデモや暴動や争議が頻発しているという状況はどうでしょう。驚くべきことにその主体は都市住民であり農民であり、理想ではなく生活を賭けての蹶起です。もはや大学生や知識人に出番はありません。「民主化」とか「政治改革」を持ち出せるタイミングでもなければ、そういう余裕のある社会状況でもありません。

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 中国は一党独裁制です。これを一朝一夕に複数政党制へと変えることはまず無理でしょう。

 ではいま現在、一党独裁体制下で何ができるかといえば、カリスマによる独裁、強権政治なのです。

 法制はあっても法治が未だ実現していない中国においては、税務署の役人が徴税に回ることも命がけの場合があります。これを滞りなく断行するには、やはり法治ではないにせよ、実力と権威を以て臨むほかありません。

 むしろ相手を腕ずくでねじ伏せて法治を実現するくらいの実力が中央、具体的には最高指導者である胡錦涛自身になければなりません。

 当ブログが再三強調していることですが、胡錦涛政権の至上課題は本来「トウ小平と江沢民の尻拭い」、すなわち改革開放の「負の部分」の改善であり、「既得権益層」を潰して構造改革を断行することです。

 そのための条件として「強権政治と準戦時態勢」が必要だとも繰り返し指摘しています。「準戦時態勢」というのは別に戒厳令を敷くとか軍隊を使ってどうこうするというのではなく、いざとなったらそれをやりかねないピリピリ感を社会に浸透させることです。

 2004年9月に江沢民が完全引退し、名実共に胡錦涛政権が発足した時点で、胡錦涛にはそれが必要であることをわかっていた筈です。

「2010年までに重大な危機が中国を襲う!?」

 という専門家の悪魔的な予測を公開したり民間の勝手な先走りを防ぐために反日サイトを閉鎖したり、政権発足時の「四中全会」(党16期中央委員会第4次全体会議)では、

「執政能力の向上」

 を呼号し、その後もこのままでは中国共産党が政権担当者の座から引きずり下ろされるという危機感を強くにじませたりしました。当ブログでは胡錦涛政権の開明性に期待していた中国知識人を馬鹿な奴らだと笑ったりもしています(本当にいたのかそんな奴?)。

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「強権政治・準戦時態勢下での構造改革断行」

 とは胡錦涛政権が発足した時点では唯一とり得る選択肢だったように思いますし、胡錦涛も確かにそれを志向していたようにみえます。もはや延命措置にすぎなかったのかも知れませんけど。……しかし現実には政権運営の主導権を確立するまでに3年間を要し、その時間の浪費の挙げ句わかったことは、胡錦涛はカリスマという器ではないということ。

 答はすでに出ているということです。今回の「十七大」で世代交代を果たし、折り返し点を過ぎて残り時間は5年となりましたが、恐らくこの5年間でも胡錦涛は当初志向したような独裁者となることはできず、バランサーに終始することになるでしょう。そして状況は少しずつ悪化していくのみ。

 ちなみにいえば、胡錦涛は共産主義青年団を振り出しに、共産党員のエリートとしての道を歩いてきました。胡燿邦を敬慕し、可愛がられ、また宋平など長老格の保護を受けつつ、最後にはトウ小平によって大抜擢されたうえ、次世代指導者にまで指名されました。そうした経歴や感激を思えば、胡錦涛の頭の中に中共一党独裁政権以外の選択肢がないことは至極自然のように思えます。

 趙紫陽は「中共人」でありながらギリギリの段階になって「中国人」であることを優先しましたが、トウ小平の衣鉢を継いだ胡錦涛は徹頭徹尾「中共人」。しかしながらカリスマの器ではないために、「既得権益層」の跋扈によってバラけるか末端から立ち腐れていくか「八國聯軍」の再来となるかはともかく、中国の末期症状に手をつかねて呆然としているしかないでしょう。足掻いてもいいですけど無駄な努力。そういう胡錦涛を生暖かく眺めていくのが私たちということになります。

 今後、国際社会における中国は政治面でも経済面でも「居直り強盗」や「大手海賊版業者の開き直り」のようなキャラとして振る舞っていくことでしょうけど、願わくば周辺国に迷惑のかからないことを。それとも自分で自分の外科手術はできやしませんから、あるいは「八國聯軍」の方が中国人にとっては幸福なのでしょうか。

 ともあれ事態が発生してから騒いでも間に合わないのですから、少なくとも日本のマスコミは「政治改革」だの「民主化」だのと寝ぼけたことを言っていないで、中国の現状に照らして残り5年の胡錦涛政権を……って、まさか紋切り型じゃなくて本気で「政治改革」とか「民主化」で何とかなるって思っているのでしょうか。それならそれで、まあいいんですけどね。




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コメント
 
 
 
空中楼閣 (町方同心)
2007-10-24 00:17:00
2日続けて投稿させて頂きます。御家人さん渾身のエントリーではないでしょうか。たいへん勉強になりました。戦争や革命でもない限り、13億人の国を束ねるカリスマなど、今後、出てくる筈ありませんよね。結局、「社会主義市場経済・共産党独裁」(→官僚資本主義)の中で力を付けた「既得権階級」と妥協しながらしか政策運営出来ず、現在の奇形的資本主義の副作用に中国自体が徐々に追い詰められていく。カリスマなど、欧米や日本にも見当たりませんが、選挙による信任、というのはやはり大きいですね。SFなどで「世界連邦政府」なるものが出てくることがありますが、考えてみれば、世界人口の5分の1を統治している政府というのも、たいへん虚構じみたものに思えます。そのフィクションを如何に守るか、ということに汲々ということですね。その意味で、今後「既得権層」も、表面的には「胡錦涛を立て、科学的発展観を奉じ」という擬態をとるかもしれない、それが、マスコミなどの眼には、「権力基盤強化」と映るということでしょうか? 党大会終了後に、ロケットを飛ばすという演出の幼児性に、中国の民衆が目覚めるのは何時なのでしょうか?(って、無理でしょうね~暫く)。おやすみなさい。
 
 
 
Re:空中楼閣 (御家人)
2007-10-25 16:40:48
>>町方同心さん
 コメントありがとうございます。渾身のエントリーなんて、そんなカッコいいものではありません。ただ長いだけの駄文。まあ自分なりの「十七大」に関する総括+αてな感じです。「+α」というのは、マスコミが「民主化」とか「政治改革」とかいった御託を並べるのにちょっと憤慨しまして。

 いまの中国に「民主化」や「政治改革」ができるのか?
 いまの中国で「民主化」や「政治改革」をやれば中国はマトモな方向に進めるのか?

 本当にそう思って書いているなら何も言うことはありません。「ああそうですか」といったところですけど、各紙各局とも足並みが揃い過ぎています。要するに余りに紋切り型ではないかと。

 そうやってお茶を濁してきれいに記事まとめて仕事終了はい撤収さあ飯食いに行こう、という連中はそれでいいかも知れませんけど、日本でテレビや新聞の報道に接している人の大半は中国に詳しい人ではないでしょうから、「そうか民主化や政治改革すればいいのか」と甘い受け止め方をしてしまうのが怖いです。
 
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