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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(1)

2018年01月05日 | 読書ノート

マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(1)
 数ヶ月前からその書店を訪れるたびに、その本の存在が気になって仕方がなかった。水声社から叢書「人類学の転回」の一冊として出ている、マイケル・タウシグという人の『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』という本は、たったひと棚しかない哲学のジャンルに含まれる一冊として、下の方にひっそりと置かれていた。
 発見してから2~3回その書棚を訪れたが、いつも売れずにそこに留まっている。私が興味を覚えたのはもちろんヴァルター・ベンヤミンの名がタイトルにあるからであった。しかし、なかなか私の食指は動かない。
 昨年私は『言語と境界』という、後半がベンヤミンの言語論についての論考になっている本を上梓したが、最後の文章を書くときに、諸般の事情から患っていた胃潰瘍が急激に悪化するという経験をしている。
 当時は昼間の仕事も忙しく、ものを書くのは夜に限定されていた。夕食を終えて机に向かい、ベンヤミンの本とベンヤミンに関する参考文献を開くと、そのとたんに胃がギリギリと痛みだすのである。最後の一編を書き終わったとき、「もうこんなきついことはやめよう」と正直思った。
 特にそのとき参考にしていたアントワーヌ・ベルマンの『翻訳の時代』という本が、胃潰瘍の痛みと密接に関係している。ベンヤミンその人の本よりも、ベルマンの本の方が今でも胃の痛みを想起させる。
 その後私は哲学的な本を読むことから遠ざかり、もっぱら小説を、その中でも特にゴシック小説といわれるものを中心に読みあさり、このブログの「ゴシック論」を展開することになった。
 およそ3年間(腸閉塞で手術・入院・自宅療養の半年を含めて)そんな読書生活を送ってきたのだが、小説ばかり読んでいると頭の中の収拾がつかなくなってくることがある。収拾をつけるためにこのブログを自分に義務づけていても、そこから逸脱する読書体験というものもある。
 昨年末に、トマス・ピンチョンの『ヴァインランド』という小説を読んだのだが、私はそれについて書くことができない。ピンチョン小説があまりに破天荒なために、それについて行けないというだけの理由ではない。そうではなく、むしろそれが私の中の論理的中枢を刺激しないからという理由からである。
『ヴァインランド』で頭の中をぐちゃぐちゃにされた私は、年末にその書店を訪れて、3度目かに『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』に面会し、ついにそれを買い求めることを決断した。このままでは私の中の論理的中枢が破壊されてしまうのではないかと恐れたからだ。
「人類学的転回」と言われても、私は文化人類学の本をろくに読んできてはいない。クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』に思想的な転向を促され、『悲しき熱帯』に論理的な感動を憶えたという経験があるくらいで、マルセル・モースもジェイムズ・フレイザーも読んだことがない。
 レヴィ=ストロースの本が文化人類学の思想的転回点としての金字塔であるという事実は、私にとってそのフィールドワークとしての価値よりも遙かに重要な要素であって、未開人と呼ばれる存在に接したこともない私にとって、レヴィ=ストロースの〝ものの考え方〟の方が圧倒的な衝撃をもたらしたのであった 。
 ところでマイケル・タウシグなどという人は全然知らないし、帯に書いてある「ゴンゾー人類学者」なる言葉にも初めて出会ったのであるが、ではなぜ私はこの本を買うことにしたのだったか。
 それは訳者あとがきに「フィクションとしての枠組みを使っている」というような解説があり、帯に「ビートニク小説のようにも読める民族史的試論集」なる言葉が書き付けてあったからだろう。
 私が3年間小説を読み続けてきたのは、フィクションに対する確固とした信頼があったからである。私は中学生の頃から様々な本を読んできたが、フィクションとしての小説ほどに、私に世界に対する眼を開かせてくれたものはないからである。
 私はほとんどフィクションを信奉している。だからフィクションの枠組みを使った人類学なるものがいかなるものであるのか、読んでみないわけにはいかなかったのである。
マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(2016、水声社、叢書「人類学の転回」)金子遊、井上里、水野友美子訳