年末には家の近くにある白雲稲荷神社跡の手入れ(掃除)をしています。
神社跡の手入れを始めてから今年で三年目になります。手入れをする前は神社跡は山林化寸前でした。
室積の白雲様は、上関の皇座山にある白雲様から勧請した神社です。この三年間の手入れで何とか昔の眺望に戻すことができ、この場所から上関の皇座山も見渡せるようになりました。
今年の成果は、食事や寝泊まりしていた通夜堂(神供所)のあった場所を発見できたことです。上関方面が見渡せるように南斜面の雑木林を伐採中にかまど跡を見つけました。通夜堂は昭和43年春の三日三晩にわたる山火事で焼失しています。
ここで、「室積の白雲稲荷大明神」というタイトルで紙芝居を作成してみました。絵は福祉作業所OB(2代目所長)に描いてもらいました。
【表紙】
【1・2月】
室積で雑貨商を営んでいた吉岡道介は、毎年商売仲間と上関の皇座山にある白雲稲荷大明神を参拝していました。そこは平安時代に京都伏見から勧請した由緒ある稲荷社でしたが、当時は参拝者も少なくさびれていました。
【3・4月】
ある日のこと道介は夢の中で「上関にある白雲様はさびれているのでどうか私を室積に連れて行っておくれ!」という神の声が聞こえてきました。そこで、道介は自ら修行を積んで宮司の資格を取得し、昭和7年に室積湾から皇座山まで見渡せる場所に室積の白雲神社を設立しました。
【5・6月】
農業・漁業・商売を営む人たちが世話人となってスタートした神社は、特に商売を営んでいた新市商店街の人たちを中心に大変にぎわいました。毎月3が付く日が祭り日で、神楽舞の催しなど室積の人たちを楽しませるイベントが数多く行われました。まさに昭和時代の室積繁栄を象徴するような神社でした。
【7・8月】
神社は山腹に造営されており水の確保が大変でしたが、水くみも修行のひとつと考えてみんなが水くみに出かけました。昭和30年に浮浪者の火の不始末によって拝殿が焼失しましたが、すぐに再建されました。昭和43年春の三日三晩にわたる山火事では通夜堂は焼失しましたが、拝殿は幸いなことに近くにある堤の水で消し止めることができました。
【9・10月】
山火事によって神社周辺の立派な赤松は失われ、その年に発生した大型台風による水害で参道階段と鳥居までも崩落してしまいました。この自然災害には宮司の道介も気落ちしてしまいました。それにもかかわらず、神社は参拝者でにぎわい、昭和45年には念願の厠も完成しました。崇敬者の中には九州方面から訪れる人もいたそうです。
【11・12月】
昭和50年に宮司の道介もなくなり、その後近親者の手で神社は存続しました。平成になると神社の世話人も途絶え、平成16年神社は解散の運びとなりました。たくさんの鳥居も撤去、拝殿も解体されましたが、門柱、灯篭、神殿は残され、在りし日の神社の姿をとどめています。神社跡には桜やツゲの木が植樹され、雑草が生えないよう瓦が敷き詰められました。
おおざっぱなストーリー作成で推敲段階です。いずれは偉人伝カレンダーとして形にしたいと思っています。