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1929年6月13日トゥイでの「聖母の汚れなき御心と聖三位一体御出現」とロシアの奉献

2017年06月12日 | ファチマ
1929年6月13日、トゥイでの「聖母の汚れなき御心と聖三位一体御出現」とロシアの奉献

以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。


ロシアの誤謬と共産主義の悪

1917年の、特に7月13日の聖母の預言は世界史に深く関わっています。聖母はロシアの誤謬ということをはっきりと述べられました。聖母マリアが1917年7月13日の預言でロシアについて述べられたことは、世界平和がロシアの奉献とそれに伴うロシアの回心にかかっているということでした。ロシアの回心がなければ、世界には第一次世界大戦よりもはるかに恐ろしい戦争が起こるという預言は実現しました。戦争だけではなく、教会の迫害、教皇の苦しみ、民族の絶滅が預言されました。

第一次世界大戦がまだ終わっていない1917年、聖母の御出現が始まる3ヶ月ほど前の2月にロシアのペトログラードで反乱が起こり、皇帝ニコラス2世は3月15日退位を迫られました。

4月レーニンが密かにスイスからドイツ政府の保護の下に鉛で封印された列車に隠れてロシアに戻りました。ニューヨークのユダヤ人銀行家たちの財政援助を受けたボルシェヴィキは合計すれば32万部にもなる17の日刊紙を発行してプロパガンダを強めていました。

7月にフリーメーソンで民主主義者のケレンスキーが政権を握りますが、9月に起こった軍のコルニロフ将軍の反乱に対して、政権を渡すことを拒否してボルシェヴィキに援助を要請したことが彼の命取りになりました。ボルシェヴィキがコルニロフの軍隊に対するレジスタンスの指導権を握り、軍隊の大多数がコルニロフに従わないのを見て、コルニロフ将軍はボルシェヴィキの側につきます。

ケレンスキーは9月14日共和国樹立を宣言しますが、時すでに遅しで、セント・ベテルスブルグそしてモスクワのソヴィエトがボルシェヴィキにはせ参じます。

10月25日ボルシェヴィキは冬宮を攻撃して占領し革命は勝利しました。

この後に起こったことはまさに聖母の預言だった教会の迫害でした。1918年1月20日、教会と国家の分離、教会財産の没収、その法的諸権利の抑圧を布告する法令が出されました。ボルシェヴィキの戦闘的無神論はまず第一の敵であるキリスト教の撲滅に乗り出したわけです。

ボルシェヴィキの憎しみはしかし宗教の枠を越えて、ボルシェヴィキでないすべての者に向けられました。教会に忠実な信徒であったロマノフ王朝の最後の人々は1918年7月16日から17日にかけて、エカテリンブルグで側近の人々と共に暗殺されました。襲ったのはドイツの囚人たちだと言われていますが、実際はモスクワから送られたユダヤ人の暗殺者たちでした。

ボルシェヴィキが取ったやり方は、ソルジェニーツィンの言い方を借りれば、「ジャコバン・テロリズム」でした。フランス革命でもそうでしたが、自由、平等、友愛をスローガンにしながら、実行したのは組織的、制度的な恐怖による自由と平等の抑圧、いな圧殺でした。

1917年10月、農民たちは富裕な土地所有者から没収した土地を与えられましたが、その土地の収穫を全部供出させられたので、至る所で反乱を試みました。8月9日にレーニンは「容赦ない大衆恐怖の効果をあげる」ことに決め、この時に強制収容所を作っています。この強制収容所では秘密警察がまだ射殺していなかった政権の敵たち、すなわち、ボルシェヴィズムに反対する、あるいは反対しそうなインテリ、農民、軍人などあらゆる人たちが容赦なく消されました。

1919年11月にモスクワの総主教ティホン師はヨーロッパに向けて悲痛な訴えを出しました。「司教、司祭、修道者、修道女たちが『反革命』という曖昧な口実のもとに<ひとまとめにして>銃殺されています。残酷さに磨きをかけて彼らには秘蹟という至高の慰めが拒絶され、一方彼らの親族は彼らの遺体をキリスト教の儀式に従って埋葬することができないのです。」

1922年にメルシエ枢機卿が最初の数字を公にしました。「迫害の犠牲者の統計は恐るべきものである。1917年11月以来、兵卒26万人、将校5万4千人、土地所有者1万8千人、労働者19万2千人、農民81万5千人、司教28人、司祭1,215人が死刑にされた。....司教,司祭たちの数には、聖なる器物の没収を命じる法令に協力することを拒否したことでこの数ヶ月間に判決を受け、処刑されたまだ知られていない数の正教およびカトリックの両方の司祭たちの数をつけ加えなければならない。」

実際、1922年2月26日の法令は、聖別されたものを含む教会のすべての財産を没収しました。信徒たちはそれに反対することを試みました。次のように言われています。「3ヶ月の間に、信徒たちと軍隊の間に1,414件の流血事件が報告された。」

レーニンは政治局員全員を教育するためにこのことを利用しました。彼はこう言います。

「今は数年の間彼らがどんな種類の抵抗も考えないために教訓を与える、まさに最もよい機会だ。....われわれは反動的なブルジョワと反動的な聖職者たちの代表を出来る限り多く逮捕しなければならない。....1922年には全部で8,100人の司祭、修道者、修道女が銃殺された。」

革命はいたるところに荒廃をもたらしました。飢饉がロシアに襲いかかりました。無数の農民が革命以来殺され、移住させられて減った上に、1918,1919,1920年の3年間全収穫物を強制的に供出させられて、農民たちは赤軍と共産党員のためにだけ種を蒔き、働くことに意気阻喪しました。労働者もサボタージュを繰り返し、工場や輸送機関は散発的にしか機能しなくなりました。1921年には事態は恐るべきものとなりました。食糧、衣料、燃料がなく、病院には医薬品がなくなり医師、看護婦がいなくなりました。セント・ペテルスブルグでは多くの人々によって木造家屋が燃やされたりしました。

レーニンと共にロシアに戻ったジノヴィエフは、1918年9月にこう述べたと言われています。

「われわれは勝つであろう。ロシア人のうち、9千万人はソビエトの権力下に置かれる。残りの人間?われわれは彼らを絶滅するつもりである。」

ツァー(ロシア皇帝)の帝国は1億8千万人を擁していました。戦争と革命が人口を約1億3千万人に減らしました。それでも、ジノヴィエフの計算によればまだ4千万人多いということになります。1918年ペトログラードのソビエト公式機関には次の言葉が掲げられていました。「われわれはわれわれの心を残酷に、過酷に、容赦のないものにするであろう。われわれはこの血の海のダムを開くであろう。同情や憐れみを持つことなく、われわれはわれわれの敵を無数に殺すであろう。われわれは彼らを彼ら自身の血の中に沈めるであろう。」しかし、機関銃を用いるよりももっとすばやく、もっと静かに、手続きも要せずに、飢饉が彼らの意図を実行しました。

1924年レーニンが死んだ後、ライバルたちを倒したスターリンは1929年に決定的な権力を確立します。1925年には「戦闘的無神論者連盟」が作られ、その機関誌「ベズボジニク」は講演会を開催し、涜神的なデモをやったりしました。この連盟は特に青少年の間に無神論を広め、またより効果的に宗教に対する闘争をするために映画を見せ、博物館を作りました。

1929年4月9日の法律は迫害をさらに強める口実を与えました。これによって歴史的建造物を含む多くの教会が取り壊されました。8月27日には「連続した週」の制度が導入されましたが、これは日曜日(主日)を停止するためでした。秘密警察(KGB)は数年の間にウクライナのカトリック聖職者を全滅させました。1929年11月スターリンはコルホーズ(集団農場)制度を実施し、富農(クーラーク)の追放(dekulakization)を実行しました。富農たちは家族もろとも暖房のない貨車で数千マイルを僻遠の地であるウラル、シベリア、カザフスタンなどに送られ、多くの者が途中で死ぬか、あるいは到着すると死にました。これら追放された人々は人気のない場所すなわち森林地帯、山岳地帯、草原地帯に置き去りにされました。富農追放による農村の荒廃は1932-33年に飢饉を招き、それはその範囲とその犠牲者の数において1921-22年の飢饉よりもひどいものでした。

国家は飢饉を農民に対する市民戦争の武器として利用し、飢饉の度を強めることに貢献しさえしていました。農民たちが飢餓で死んでいるときに、政府は小麦の輸出をし続けていたのですから。

犠牲者の数を正確に知ることはできません。確実に言えることは秘密警察がスターリンに350万人のクーラークの抑圧について報告したということです。スターリン自身がチャーチルに「集団農場化の期間に1千万のクーラークに対して正義が行われた。彼らの大部分は絶滅させられ、他の者はシベリアに送られた」と得意げに語りました。

まじめな人口統計学者たちは1929-1933年の飢饉の犠牲者の数を少なくとも1千500万人と見積もっています。すぐに絶滅させられずに生き残った人々が送られたのはグーラーグ(収容所)でした。彼らは1928年の工業化5カ年計画のための無限に供給可能な原料として奴隷労働に従事させられました。以後ソビエト連邦共和国は「収容所群島」と化しました。

私たちはマルクスやレーニンの著作を研究するよりも、ボルシェヴィキ・ロシアの歴史の中に共産主義の真実の姿を見なければなりません。「木はその実によって知られる」からです。

ボルシェヴィキ革命は常にどこででも非人間性の深みに落ち込みました。そして誤謬と悪魔的な支配を拡大し、虚偽、暴力、殺人を制度的、法的に拡大しながら、真実と正義と平和の名を騙りました。

私たちはソビエト連邦の崩壊を目の当たりにしてもまだ共産主義の真の姿に幻想を抱いているところがあるかも知れません。ソビエト連邦の崩壊を単なる経済システムの破綻として理解するのは間違いです。自由経済に移行すれば、「ロシアの誤謬」が終わりを告げたと考えるのは誤解です。

共産主義は単なる経済のシステムではありません。

聖母マリアが預言された戦争、飢饉、教会の迫害は「ロシアの誤謬」の具体的な現れとして、第二次世界大戦が始まるずっと以前、1917年以来ロシアの地で実現されていたのです。しかも、この共産主義の悪はロシアの地にとどまらずに、その後全世界へと拡大されて行ったことは歴史が証明しています。



ロシアの奉献-1929年6月13日(火)トゥイの啓示-

1929年6月13日に彼女はトゥイの修道院で幻視を経験していました。それは汚れなき御心の聖母マリアを伴った聖三位一体御出現とロシアの奉献に関するイエズスの啓示でした。

1936年5月に彼女の霊的指導司祭であったゴンサルヴェス師がシスター・ルシアに自伝を書くように求めて、書かれた[オリジナルのものはルシアによって破棄されましたが、1941年4月にゴンサルヴェス師がルシアに会って再現しました]記録から、そのときの様子を知ることができます。

「ゴンサルヴェス神父様はときどき私たちの聖堂に告解を聞きにお見えになりました。私は神父様に告解をしていました。神父様に対しては落ち着きを感じることができましたので、ここに上長として3年間いらっしゃった間ずっと神父様に告解をしていました。

「この度、私たちの主はロシアの奉献のお望みとロシアを回心させる御約束とを聖なる教会に知らせるように私にお望みになる時が来たことを私にお知らせになりました。....そのお知らせは次のようにして起こりました。」

「(1929年6月13日)私は木曜日から金曜日にかけて午後11時から真夜中までの聖時間をしたいと私の上長と聴罪司祭に求めて許しを得ました。」
「夜独りで聖堂の真ん中の聖体拝領台の前で跪き、天使の祈りをひれ伏して唱えました。疲れを感じて、立ち上がり、跪きました。そして腕を十字架の形に伸ばして祈りを続けました。唯一の光は聖櫃からの光でした。」
「突然ある超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井まで届く一つの光の十字架が現れました。」
「十字架の上の部分、いっそう明るい部分に一人の人のお顔と胸から上のお身体を見ることができました。」
「その方の胸の上には同じように光り輝く一羽の鳩がいました。」
「そして十字架に釘づけにされて、他のお方の身体がありました。」
「その少し下に、空中にカリスと大きなホスチアがかかっており、それらの上には十字架に付けられたお方の顔とそのお胸の傷から数滴の血が滴り落ちていました。これらの血の滴はホスチアの上を流れくだり、カリスの中へ落ちていました。」
「十字架の右側下方に、汚れなき御心をその手にされた聖母がいらっしゃいました。....[それは汚れなき御心を....その手にされたファチマの聖母でした。....その御心は剣の突き刺さった、あるいはバラに取り囲まれた御心ではなく、茨に取り囲まれ炎の冠のついた御心でした。....]」
「(十字架の)左側には何か大きな文字があり、あたかも祭壇の上に流れ落ちる水晶のきれいな水のようでしたが、『恩寵と憐れみ』という言葉を形作っていました。」
「私はそれが、私に示された至聖三位一体の神秘であるということ、そして私が明かすことを許されていないこの神秘についての光を受けたということを理解しました。」
「それから、聖母が私にこうおっしゃいました。『神が教皇に、この手段によって救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。』」
「『私に対して犯される罪のために神の正義が断罪する霊魂たちがあまりにも多いので、私は償いを求めるために来ます。この意向のためにあなた自身を犠牲にし、祈りなさい。』

「私はこのことについて私の聴罪司祭に説明しました。彼は私たちの主が為すように望んでおられることを書くように私に命じました。」

「しばらく後に、私たちの主は、内的語らいという手段によって、不満を表明されながら、次のように私におっしゃいました。『彼らは私の要求を顧みることを望まなかった!....フランスの王のように彼らは後悔し、私の要求を顧みるであろう。しかしもう遅いであろう。ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、すでにその誤謬を世界中に広めてしまっているであろう。教皇は多く苦しまなければならないであろう。』」

シスター・ルシアは1930年に同じくゴンサルヴェス師に書いた手紙の中で、少し言い回しを変えて天の要求を次のように述べています。

「よき主は、もし教皇様が御自身、同じことをするようにカトリック世界のすべての司教様に同様に命じて、イエズスとマリアの聖なる御心に対して償いとロシアの奉献の荘厳な行為をなさるならば、ロシアにおける迫害を終わらせることを約束なさっています。教皇様はそのとき、この迫害が終わるときには、すでに述べました償いの信心の実行を認め、勧めると約束なさらなければなりません。」

1917年7月13日にルシアたちが見せられた地獄は哀れな罪人たちの霊魂がが行く地獄でしたが、1929年6月13日に聖母がルシアにおっしゃりたかったことはこうではないでしょうか?

「あなたは真の共産主義グーラーグの生ける地獄に見捨てられた哀れな人々を圧倒する飢饉、戦争、迫害を見ました。」

彼らを救うために聖母は執拗にこう言われたのでしょう。「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。」1929年はすでにスターリンがグーラーグの血に染まった恐怖を最高度にまき散らしていた時期ですが、そのときに、神はルシアに教会がロシアを聖母マリアの汚れなき御心に奉献すれば、ロシアの回心を約束することを、教会に知らせるように望まれたのでした。

神の御約束は「ロシアの迫害を終わらせること」であり、「ロシアを救うこと」でした。残虐な殺戮、冷酷に計画された飢饉、諸々の迫害、秘密警察の襲撃、愚かで非人間的な集団化、これらすべてのことは神の御母、すなわちロシアの人々がそのイコンを密かに崇敬し続けたテオトコス(神の御母)、の強力な仲介によって終わらせられるべきものでした。

ソルジェニーツィンはその著『西欧の誤り』(1980年)の中で、ソビエトのイデオロギー的、軍事的膨張主義についてこう言っています。

「共産主義は、公然たる戦争によってであれ、政府転覆的ないしテロリスト的な活動によってであれ、あるいは社会構造の安定をなくさせることによってであれ、世界征服の野望を自ら断念することはできない。....共産主義それ自身からは何一つ希望され得ない。共産主義の教義とは何一つ妥協は不可能である。われわれは、全世界における共産主義の全体的な勝利か、それとも至る所でのその完全な消滅かのいずれかを予見することができる。ロシアにとって、中国にとって、そして全世界にとって唯一の救いは共産主義を拒否することのうちに存する。さもなければ、世界は破滅させられ、絶滅させられる危険を冒すのである。」

これはまさに、1917年7月13日ファチマにおける聖母の預言を思い起こさせる発言です。

「もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

ロシアにとって、そして全世界にとっての唯一可能な救いはロシアの回心です。そしてこのロシアの回心の方法は、1929年6月13日トゥイにおいて、神の恩寵と憐れみのうちにシスター・ルシアに示されたのです。つまり、世界の全司教たちと一致した、教皇による聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を神はお望みになりました。ロシアの奉献による神の平和の実現はこのようにして教皇様の決断にかかることになりました。