しばらくシリーズものとして、「自由」についての情報をお届けします。
フリーターを含む不安定雇用の人たちは、「正社員よりも自由でいい」とうらやましがられることがあります。と思えば、「それほど不自由な生き方もないでしょう」との批判もあります。
ここでは、個人の生き方を道徳的に断罪するのではなく、一般的に「自由」とは何なのか、それは不安定雇用に悩む層にとってはどのように関わっているのかについて書いていきます。
後藤さん、すなふきんさんらの取り上げていらっしゃる「待ち組」批判も大事です。けれど、こういうのをいちいち批判・分析していたのでは、モグラたたきみたいなものでキリがない。
それで、自由とは何かについて書いたほうが、おかしな自由主義もどきへの抵抗力が増すと考えたわけです。個人にとって自由とは? 社会にとっての自由とは? 組織のなかの自由とは? といったことについて論じてゆきます。読者各位もトラックバック・コメント・メールなどで議論にどんどんご参加ください。
はじめの質問です。自由って何でしょう?
束縛のないこと。放縦(わがまま・ヤケクソなど)とは違う。反動(ただやみくもに反発をくりかえすだけ)とも異なる。自分の自由は大事・だけど人のそれも尊重しないといけない。
それらを両立させ調停させるものとして、人々はルールやエチケットを作った。(↑実際には上のものにとって都合のよいようにルールや礼儀が作られている側面もあるのですが、ここではとりあえずそのように仮定した自由主義のルール・エチケットにかぎって話をすすめます。)
フリーターや派遣社員など不安定雇用の人々は、「自由でいいですね」という世間・マスコミの声。これは本当なのか? 読者はどうお考えになるだろうか?
管理人@ワタリの答えは、違う。
不安定雇用は自由ではない。むしろ正社員のほうが自由だ。
いつでもクビにされ、あるいは恣意的に減給される。左遷も日常茶飯事。突然の配置転換、遠方に行けと夜の11時半にも朝の5時にもかかってくる派遣会社の営業係の号令。タテマエとはうらはらにダメと言えない慣習と雰囲気。もし言えば、ワガママ・横柄と人格をおとしめられ、仕事を干される。その立場になればわかる。そうなったり、なりかけた知人なら、誰もが一人や二人知っている。
自主的・自律的な判断、主体の尊重はそこにはない。ただ複雑に移り変わる状況に、風に舞う木の葉のように翻弄される人の群れがわたしくしどもプレカリアート(=不安定階級・階層)なのだ。
景気がよければ職がある。交通費も弁当代もつく。景気が悪くなれば職はない。あるとしてもたまに、一日に入れる時間も、週のうち仕事に入れる回数も減ってゆく。当然、収入も、身分も、アイデンティティも、「労働者」としての世間からのわずかな尊重も失ったり、小さくなったりしてゆくわけだ。
以前のエントリーにも記したとおり、正社員なら許される作業効率の悪さ、会社への批判、正社員なら許される服装・髪型の自由、山登りのサークルに加わるなどの結社の自由・・・・・・すべてがアルバイトや派遣には閉ざされている。ルールというよりも“暗黙の了解”によって、あるいは、あまりに貧しくかつ不安定である状態によって、門は閉ざされる。会費も払えないのに、NPOに参加できるわけがない。スイミングクラブにも通いにくい。あまりに低収入で、かつ不安定だから。
日本国憲法に記された「移動の自由」もない。生きてゆくのに必死の収入では旅行もむつかしい。失業や半失業状態では、新しい不動産も借りられない。車のローンもしかり。
こんな雇用形態のどこが自由なのか? 入りたいときには職がない。入りたくないみなが嫌がって逃げ出す職場をまかされる。選挙民ではないけれど、選べるのははいめのうちだけ。あとは、不安定雇用という身分のしがらみから、一部の例外はのぞいて、抜け出せない。
g2005さんの記事にもあったとおり、「正社員」というニンジンを目の前にぶらさげればいくらでも酷使できる。実際、「もうすぐアルバイトから正社員にしてあげるから」と雇用主に言われながら、いざその期限がやってくると「もうちょっと待って」と言われてから半年も正社員になれないという例もある。同じような条件で、3年もそうなれないケースもある。
また、こういう状態はあまりおめでたくない。親類や友人の結婚式には出席を断られるか、遠慮することになりがちだ。晴れの席にはふさわしくないという判断だろう。
自らによって自らが動く。それが自由だとしよう。そうすると、会社の都合にふりまわされ、組合にも守ってもらえず、世間からはたたかれることのほうが多い不安定雇用は、不自由なのである。
フリーターを含む不安定雇用の人たちは、「正社員よりも自由でいい」とうらやましがられることがあります。と思えば、「それほど不自由な生き方もないでしょう」との批判もあります。
ここでは、個人の生き方を道徳的に断罪するのではなく、一般的に「自由」とは何なのか、それは不安定雇用に悩む層にとってはどのように関わっているのかについて書いていきます。
後藤さん、すなふきんさんらの取り上げていらっしゃる「待ち組」批判も大事です。けれど、こういうのをいちいち批判・分析していたのでは、モグラたたきみたいなものでキリがない。
それで、自由とは何かについて書いたほうが、おかしな自由主義もどきへの抵抗力が増すと考えたわけです。個人にとって自由とは? 社会にとっての自由とは? 組織のなかの自由とは? といったことについて論じてゆきます。読者各位もトラックバック・コメント・メールなどで議論にどんどんご参加ください。
はじめの質問です。自由って何でしょう?
束縛のないこと。放縦(わがまま・ヤケクソなど)とは違う。反動(ただやみくもに反発をくりかえすだけ)とも異なる。自分の自由は大事・だけど人のそれも尊重しないといけない。
それらを両立させ調停させるものとして、人々はルールやエチケットを作った。(↑実際には上のものにとって都合のよいようにルールや礼儀が作られている側面もあるのですが、ここではとりあえずそのように仮定した自由主義のルール・エチケットにかぎって話をすすめます。)
フリーターや派遣社員など不安定雇用の人々は、「自由でいいですね」という世間・マスコミの声。これは本当なのか? 読者はどうお考えになるだろうか?
管理人@ワタリの答えは、違う。
不安定雇用は自由ではない。むしろ正社員のほうが自由だ。
いつでもクビにされ、あるいは恣意的に減給される。左遷も日常茶飯事。突然の配置転換、遠方に行けと夜の11時半にも朝の5時にもかかってくる派遣会社の営業係の号令。タテマエとはうらはらにダメと言えない慣習と雰囲気。もし言えば、ワガママ・横柄と人格をおとしめられ、仕事を干される。その立場になればわかる。そうなったり、なりかけた知人なら、誰もが一人や二人知っている。
自主的・自律的な判断、主体の尊重はそこにはない。ただ複雑に移り変わる状況に、風に舞う木の葉のように翻弄される人の群れがわたしくしどもプレカリアート(=不安定階級・階層)なのだ。
景気がよければ職がある。交通費も弁当代もつく。景気が悪くなれば職はない。あるとしてもたまに、一日に入れる時間も、週のうち仕事に入れる回数も減ってゆく。当然、収入も、身分も、アイデンティティも、「労働者」としての世間からのわずかな尊重も失ったり、小さくなったりしてゆくわけだ。
以前のエントリーにも記したとおり、正社員なら許される作業効率の悪さ、会社への批判、正社員なら許される服装・髪型の自由、山登りのサークルに加わるなどの結社の自由・・・・・・すべてがアルバイトや派遣には閉ざされている。ルールというよりも“暗黙の了解”によって、あるいは、あまりに貧しくかつ不安定である状態によって、門は閉ざされる。会費も払えないのに、NPOに参加できるわけがない。スイミングクラブにも通いにくい。あまりに低収入で、かつ不安定だから。
日本国憲法に記された「移動の自由」もない。生きてゆくのに必死の収入では旅行もむつかしい。失業や半失業状態では、新しい不動産も借りられない。車のローンもしかり。
こんな雇用形態のどこが自由なのか? 入りたいときには職がない。入りたくないみなが嫌がって逃げ出す職場をまかされる。選挙民ではないけれど、選べるのははいめのうちだけ。あとは、不安定雇用という身分のしがらみから、一部の例外はのぞいて、抜け出せない。
g2005さんの記事にもあったとおり、「正社員」というニンジンを目の前にぶらさげればいくらでも酷使できる。実際、「もうすぐアルバイトから正社員にしてあげるから」と雇用主に言われながら、いざその期限がやってくると「もうちょっと待って」と言われてから半年も正社員になれないという例もある。同じような条件で、3年もそうなれないケースもある。
また、こういう状態はあまりおめでたくない。親類や友人の結婚式には出席を断られるか、遠慮することになりがちだ。晴れの席にはふさわしくないという判断だろう。
自らによって自らが動く。それが自由だとしよう。そうすると、会社の都合にふりまわされ、組合にも守ってもらえず、世間からはたたかれることのほうが多い不安定雇用は、不自由なのである。
「自由」=選択肢の多さって思うんですけど、ちがいますかね?んでもって物理的選択肢の多さと心の選択肢の多さがあると思うんです。
現代はかなり物理的選択肢は増えてきたと…しかしながら、「自由」競争の結果、心の選択肢が反比例して減っちゃってんじゃないのかなぁっとかっつって。意味わかんないな~
さようならさようなら
半年ほど前に本田助教授のBlogからリンクしてきて以来、更新されていないかチェックしに、結構こまめに来ています。
今回の「自由」シリーズも、貴女と同じく「おかしな自由主義もどきへの抵抗」派として楽しみにしております。
では、また。
フリーターが自由といわれたのは、拘束の多い正社員との対比からだと思います。日本のサラリーマンはかつては「社畜」や「会社人間」、「終身刑」と罵られ、過労死や過労自殺まで追いつめられています。責任や心理的圧迫は金銭や保障が多い分、そこから抜け出せない終身刑的な不自由さがありました。
その対比においてフリーターは自由と思われたのですね。ここから少しは抜け出ていることで得られた自由は、同時にサラリーマンの保障や金銭からの脱落でもありました。
自由に抜け出たとハッピーになれたのは一瞬で、現実には金銭と身分の差別という不自由に出会うことになったわけですね。
自由とは空気の薄い高い山のようだといったのは芥川龍之介ですね。多くの人には耐えられません。ハイエクも自由にはきびしい物質的犠牲がともなうといっています。日本の隠遁者たちも精神の高貴さのための物質的欠乏を耐えてきました。
自由というのは損失のなにものでもないのでしょう。利益を失うことが自由だといっていいのかもしれません。利益に守られることは同時に不自由さもともなうのでしょう。
どちらの利益も得られないフリーターとはなに?ということでしょうが、対比としての自由はどこかにあるでしょうか。どうすれば自由になれるのでしょうか。
自由に抜け出たと思われたフリーターは新たな不自由に出会ってしまったというほかありませんね。ただフリーターは社畜の対比として過去に自由であったという記憶だけがのこったというだけですね。
金銭的不自由、身分的不自由、これらから抜け出すことがフリーターの新たな自由への道なのでしょう。
故・網野善彦さんによると中世までは「自由」は悪い言葉だったようですね。
いま「新自由主義」批判が盛んです。
「自由主義(リベラル)の自分が新自由主義(ネオりべ)を批判するのは紛らわしいなあ」とも思っています。
遡って少し読ませて頂きました。
いままで結果としてフリーターと言われる人生を歩んできました。
>フリーターや派遣社員など不安定雇用の人々は、「自由でいいですね」
読んでいてまるで自分の人生だなと思いました。正社員といわれて、4年目に清算になったりもしました。
世間では「フリーターは望んでフリーターをやっている」という認識が強いと思います。
やはり、まず、この辺りの認識から撤回したいと改めて思いました。
まとめレスで失礼します。
>通りすがり次郎さん
はじめまして。
あなたのおっしゃる>心と>物理の選択肢のお話、興味ぶかいです。
競争が激化し、勝ち組に入らねばとの主観的意識が強まれば、実際に目の前にある客観的な選択肢も目に入らなくなる。あるいは、生き残りのために選択肢が狭められるという意味にわたしはとりました。ちがうでしょうか?
>eigolawさん
はじめまして。
声援ありがとうございます。新自由主義は自由主義を食い殺す怪物です。そのことを、これからできるかぎり書いてゆきたいと思っています。
>うえしんさん
しっかりとした意見をありがとう。
わたしもフリーターとして働きはじめるまで、それから二十代初頭の1~2年は「フリーターは自由」だと思っていました。だけど、だんだん事情が違うのが分かってきたんです。自立したいのにできない。せめて数年だけでも一箇所につとめたいのに、仕事になれてきたころに契約が終わってしまう。自立したいのに、せいぜいこづかい稼ぎでしかない。もし自立しようとすれば、体をこわすような働き方(連続深夜・早朝勤務、インフルエンザでも職場に行くなど)をしてやっと自立できるかどうかという状況。世間の中傷と偏見。。。。
二十代なかばのあるとき、パソコンの専門学校に行くためにいっさいの仕事や面接をやめた時期がありました。人間らしいゆとりのできたそのときに、時給700円で年収300万円に達するために週5日だと一日何時間働けばよいかを計算したときに、約22時間と出たときには愕然としました。なるほど、自立できないわけだ、と。
そのほか、こちらのブログの記事でも書いたんですが、医務室が使えない、悪い場合には社員食堂も使えないといった職場の人権状況。
くわえて、周囲の精神論の横柄さ。一万社以上を面接にまわり、うち80社以上で働いたわたしに対して「人と会っていないからいけないんだ」と言い張る引きこもり・フリーター援助者による「偽りのリアリティ」の押し売り。
話を元に戻しましょう。アルバイトでも、正社員よりも1、2時間でも拘束が少ない。その自由を信じていたら、正社員だと思っていた人たちもアルバイトだった。あるいは、正社員にたずねると、まったく同じ時間同じ仕事をやっていた。そうしたことの連続。
女性としてわたしは、専業主婦という賃金ゼロよりも、アルバイトや派遣という半失業のほうがまだマシだと考えていました。だけど実際には、賃金・保証ともに考えれば、半失業というよりも、3/4失業、7/8失業という状態におかれた自分たちの姿。
「フリーター漂流」放映以前のメディアのなかの、絵に描いたような中産階級としての自分たちのイメージ。そして、ますますボロになっていく住宅、さびれてゆく商店街、みずほらしくなっていく服とくつ。削れないのに削ることになる食費。
結局、自由でもなんでもない。そして正社員や上の世代との差は広まるばかり。。。
冗談じゃない!
というわけで、このブログをやっているわけです。
>喜八さん
いらっしませ。たしか仏教用語でも「自由」というのは、偏狭なエゴイズムや横柄というニュアンスにより、マイナスの意味でしたっけ。その「自由」のマイナス面を強く推奨しているのがネオリベだと思います。
>ぢゃるさん
はじめまして。
>正社員といわれて、4年目に清算になったりもしました。
そうですよね。正社員も、はじめの数年でかなりの割合がリストラされますよね。いつでも切れる非正規雇用を増やすことによって、経営側は正社員の待遇をもコントロースしているのですね。
>世間では「フリーターは望んでフリーターをやってい>る」という認識が強いと思います。
>やはり、まず、この辺りの認識から撤回したいと改め>て思いました。
いい指摘だと思います。
残念ながらTVはみのがして、最近本で読んだのですが、NHKの「フリーター漂流」(本は旬報社)はその認識をぬりかえるエポック・メイキングな情報だったと思います。
このいい作品を孤立させないためにも、できるかぎり情報を発信してゆくつもりです。
よかったらぢゃるさんもご自分のブログで仕事のことをお書きになってはどうですか。思い出すのもつらいこともあるでしょうから、気が向いたらでいいですから。
>
上のわたしのレスにて、仏教が「自由」を否定しているというのは間違いです。仏教は「権力」を否定しますが、自由は肯定しています。
まぎらわしくて申し訳ありません。