フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

下請けについて考える(転載)

2004-08-29 16:44:35 | 現状
2004年08月29日 15時28分19秒 労働・失業
ゲームの中の下請け 会社の中の下請け
 近頃、ゲームの世界でも下請け労働者がいるらしい。

 自分は十代おわりのころ、親の圧力で大検予備校に行くときにゲームと泣くなくおさらばさせられた。その後、絶望と自己嫌悪が強くてほとんどゲームに触っていない。それはさておき、十数年の間にゲームもオンライン化・グローバル化がすすんだ。その流れのなかで、富めるゲーマーが貧しいゲーマーに面倒な作業を請け負ってもらっているとは!
 

http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20040826203.html

 下請けといえば、わたしは20代のほとんどを下請けの企業で働いた。中には子会社の子会社(孫会社)の子会社の子会社(ひ・ひ孫会社)ということもあった。
 たいていの場合、子会社だとまだ待遇はマシだ。まだ90年代の全般くらいまでは、バイトながら交通費が全額出されたり、お昼になると食費補助として500円玉を配ったりしていた。それでも、子会社のアルバイトは、食堂や売店や医務室が使えないというのははよくある事だった。また、一日二日で切り捨てられることも日常茶飯事だった。
 孫会社、ひ孫会社、ひ・ひ孫会社となると、どんどん待遇は悪くなる。下流のほうに来るにつれて、みなが嫌がる汚い作業、過酷な労働、疲れる仕事などが多くなってくる。
 たとえばえんえんとチラシをまとめるだけの作業。目が壊れてしまうCCDカメラの半導体の検査。一日12時間体制で入る目の疲れる半導体の検査をしている同僚は、昼休みには机につっぷして、食堂に移動することもできなかった。ほんの少しも座ってはならないアンケートを採る作業。
監視カメラを通じて働きぶりをチェックされるので辛かった。
 それらの仕事は、孫会社~ひ・ひ孫会社の名前を名乗ってはいけなかった。それで、朝11時からの仕事なのに朝の7時に集合し、えんえんと待たされることもあった。そして、調査に入る無印良品なら無印良品、松下なら松下の社員として働かされる。そのための自覚・誇り・プロ意識を持てと契約書に強引にサインさせられる。あるいはしょっちゅう上司から念を押される。「お前は存在してはならない」と言われていうようなもので、とても辛い。せいぜい、子会社と孫会社の名前を書類に書き込んだり休み時間にしゃべったりすることが許されるくらいで、ひ孫会社やひ・ひ孫会社は存在していると語ること自体が認められていないのだ。生身の人間が、透明人間であることを強いられるのはとてもつらい。
 正社員のつもりで、といっても、研修もなくちゃんと適性を見て雇われたのでもない。ただ会社に登録をして、ある日仕事があると電話が来たので指定の場所に行くと、はじめて仕事場所や内容が分かるのだ。もちろん、そのときに初めて契約書が渡される。
 アルバイトなので2ヶ月以内にたいていの場合クビになる。あまりに悲惨な作業内容と、社内の見下す視線やふるまいに耐えかねて、1日2日で自ら辞退する場合も少なくない。
 誇りを持てといっても、いつも無視されるか過小評価されて、給料も保証も正社員の何分の一という状態で、どうして誇りを持てるというのだろう?
 
 スキルアップも理科系の大学院への進学も見通しのたたないまま、疲れ果ててわたしはバイトを探すのをやめにした。30という年齢もあった。親には迷惑をかけるが仕方がない。
 そうして、なんとか別の道を探そうとしている。
 多所懸命でいいから、専門家でなくていいから生きる道を探ろうとしている。

 話をゲームの中の下請けに戻そう。
 ゲームの中でもリアル世界の力関係が持ち込まれるのは仕方がない、と思う。まったく何からも自由なファンタジー世界などこの世にありえないからだ。

それに下請けであっても仕事がないよりはマシという事情もあるだろう。下請け仕事で生活が安定するのなら、喜んで働くゲーマーもいるにちがいない。もちろん、わが身の不遇を嘆きつつ下請けゲーマーをしている人たちもいるはずだ。
 
 それでももし平等を志すならば、なるだけ分業をしないほうがいいのではないだろうか?
 みなが中産階級以上の暮らしや職業につけるパイは限られている。みなが嫌がる下層階級の仕事を一方的におしつけられる人たちがいるかぎり、「あなたは、あるいはあなたの子は将来いい学校に通って出世する可能性がありますよ」と統計的には正しい事実を語ったとしても、まるでロボットのような悲惨な仕事、世の中から仕事だとは認められない仕事をする人たちは、後をたたない。
 もちろん、そういった人たちの給料や保証をよくすること、プラスのイメージを作るためのマスコミ報道や映画の製作といったことは必要だ。例えば、ケン・ローチ監督の「ローズ&ブレッド」はロサンゼルスのヒスパニック系労働者に焦点を当てたいい映画だった。フリーターは気楽な職ではないと竹信三恵子や斉藤貴男といったジャーナリストは告発してきた。
 ただし、下請けというものを廃止するか否かを考えなおさないかぎり、ある一定の人間が貧乏クジを引く構図に変わりはない。
 今いっせいに下請けを廃止はできない。オンラインにおいてもオフラインにおいても、それは難しい。闇にもぐられると、原発の下請け労働以上に実態把握が困難になるだろう。
 それでも、真剣にみなで考える問題だと思うのだが、どうだろうか?

(オルタナティブ大学 on blogより転載。)
 
 


 
 
 
 
 
 


わたしがフリーターになったわけ

2004-08-20 04:19:34 | 動機
それは、奪われた実存を取り戻す試みだった。

もし、もう少し自分でかせげていれば、多分今頃は動物学者かコンピューター・プログラマーになっていただろう。

わたしの家と地域はとても女性差別的なところだ。また子どもの権利のつぶされる子ども差別のひどいところでもある。
いや、日本国憲法に記された移動の自由や幸福追求の権利さえも憎み破壊しようとする衝動の持ち主の溜まり場だ。

そこで、登校拒否という選択をした自分がいた。あちこちの自分の選んだフリースクールを回って友達をたくさん作ったり学んだりする選択はつぶされた。フリースクールは選択を軸としている。それで、身近な選択であれば何でも取るのでは選択らしい選択とはいえない。フリースクールならどこでもいいわけではないのだ。
にもかかわらず、近代家族の中の霞ヶ関ともいうべき、親による許認可システムがジャマをした。官僚としての親は、わたしの自己決定権と幸福追求権と移動の自由を妨げた。

わたしは自分を知る必要のある時期にそれを禁じられ、せまい家の中に軟禁されたも同然だった。親は悪霊のごとくわたしにとりついた。田舎の優等生ゆえのエリート意識を持つ母は、東京のよい学校に通ったがゆえに彼女自身には特権的に許されたことのことごとくをわたしに禁じた。例えば海外旅行。車の免許をとること。夜の外出権。性に関する情報にアクセスする権利。
そのほか、護身術のための武道を学ぶ権利も蹂躙した。異

彼女の自意識過剰と反比例する形でわたしは自意識過小におちいった。自分が自分だと認識できないのだ。アイデンテイテイ・クライシスに陥り、悩むわたしを家族は「暗い」と称していじめるゲームにふけった。そうしなけば、家族の一体感が確保できないからだ。学校で身に着ける仲間意識ほど質の悪いものはない。
親の指定した地域のフリースクールに行っても、それは自分が選んだのではない以上、当然、自分の選択にも実存にもならなかった。ただ、自分が自分でないような空虚な辛さを増すばかりだった。

そんななか、大検をとったあと自分が昔何をしようとしていたかも抑圧の淵のなかに閉じ込めた自分を見失ったわたしがいた。彼女は、フリーターを選んだ。
アルバイトでお金を稼いで貯金したかった。そうして自分でためたお金でまずは自分が選んだフリースクールやコミュニテイに人より数年遅れてでも行きたいと願った。そのあと、大学院に行って動物学を学び、知的に一人前になりたかった。あるいは子どもの権利を擁護する弁護士にあこがれた時期もあった。
それらの権利を家族はことごとくバカにし侮辱し、親は予算を配給しないことと姑息な情報操作によってわたしの選択した道を塞いだ。
子どもへの差別を親たちは楽しんでいたのだ。だからやめられなかったのだ。

 実際にやってみたフリーターの仕事は、どれも疲れるものだった。あるフリーターから正社員になった女性は、「アルバイト時代のほうが労働時間が長かった」「不安定でストレスがたまった」「フリーターって疲れますよね」と語った。
 それにフリーターの仕事は軽蔑されるものだった。社会からノイズ扱いされるのは本当に辛い経験だった。
 失業でないとしても半分失業しているも同然だった。極端に不安定な身分は、正社員の二倍も三倍も不自由なものだった。

そうして、会社に相手にされる時期を終えようとする年齢に、わたしは書きはじめた。フリーターの本当の姿を世の人に知ってもらうために。自らの権利と尊厳のために。TVに出ている精神科医に「去勢」などされないために。




フリーターという職

2004-08-19 00:20:42 | 現状
 フリーターをしていると、自分が人だか機械だか分からなくなる。牛乳の品出し、荷物運び、パンフレット封入、郵便物の宛名シールばり、チラシまたはチケットを束ねてセットにする作業、焼肉の鉄板洗い……どれも優れた産業用ロボットがあれば間に合う仕事ばかりだ(1)。
 壊れれば、修理も許されずに捨てられるーーつまり、いともたやすくクビにされる。医務室が使えないことも珍しくない。著書自身、ある銀行の下請け会社でアルバイトをしたとき。激しい腹痛を起こした。上司から、持ち場を離れてベットに寝ることは許された。しかし、産業医や産業ナースと話すことはできなかった。(話せば話すで「医療の害毒」が降り注いだかもしれないが、やはり儀礼として医者の話を聞ききたかった。)
 当然、人から尊敬されることなどない。会社の中には正社員>契約社員>派遣>パート・アルバイトという階層がキッチリと組まれている。戦前の大企業における社員>準社員>工員・組夫(2)という経営身分制は形を変えて復活している。

(1)産業用ロボットは、「主に工場内で用いられ、部品や製品の自動搬送、溶接、組み立て、塗装、検査などを行う。」(白井良明・/浅田稔 大阪大学新世紀セミナー「身近になるロボット」大阪大学出版会2001 3P
(2)野村正○(○はウ冠の下に貫)「終身雇用」岩波同時代ライブラリー1994 PP88ー90


トラックバック用URL→http://d.hatena.ne.jp/e-takeuchi/20060201/p1



フリーターって新しい職?

2004-08-14 17:46:59 | 歴史
 
 いいえ、違います。何でも新しくなければならない、という強迫観念に満ちたネオコンの潮流が、古いものをも「新しい」としているいい例です。
 フリーターには歴史・伝統の中に先人がいます。
ひとつは古代ギリシャのデーミオエルゴーイ。国民のために働く者たちという意味です。
使者、巫女、職人、医師などがそうです。彼(女)らは、ホメロスの時代までは尊敬され、社会的な地位も高かったのです。(杉浦芳美「よい仕事の思想ーー新しい仕事倫理のためにーー」中公新書1997)
 日本でも渡りの奉公人がいました。江戸時代になって、譜代の大名が重宝されるようになるまでは、主君と短期雇用契約を結び、各国を渡り歩いていたのです。(桜井進「江戸のノイズ」NHKブックス2000)
 そのほか渡りの職人や芸人たちもいました。彼(女)らはかつて「道々の輩」とも呼ばれていました。。「人生は琴の弦のように」http://www.asahi-net.or.jp/~JK9T-OOYM/review1/jinseiko.htmとか「西便制~風の丘を越えて~」http://www.uplink.co.jp/dvd/uld/uld046.htmlといったアジア映画には、かつての渡りの芸人とムラ共同体のありようが描かれています。また、「長崎ぶらぶら節」では、近世より定住を強いられた娼妓・芸人が、再び古曲を求めて各地をたずね歩く「先祖がえり」が描かれており、興味深いことです。
なお、チャン・イー・モー監督「初恋の来た道」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005M942/qid=1098364739/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-9368926-0698610 には、山村に瀬戸物を修理する職人が徒歩にて訪れ、壊れた瀬戸物を修繕するシ-ンが描かれています。
 
 生態人類学者の須田一弘は、半島マレーシアの東海岸にある半農半漁の小さな村ゴンバライの若者たちについて、日本の高度成長期との違いを指摘している。(以下の「」内は要約)
 「若者たちは半年~一年の期間契約の、不安定な雇用だ。しかし、契約期間満了を待たずに転職するものが多い。その理由は給料や親方への不満のほかに、礼拝の時間が確保できないということもある。次の職が決まるまではカンポン(村)に帰って、漁業や畑仕事など親の仕事を手伝ってすごす。若者たちは、転職を繰り返すように見えて、実はしっかり故郷とつながっている。」(エコソフィア編集委員会編 民族自然誌研究会発行 エコソフィア第5号 昭和堂 2000.5:61)

 
 人類生態学者の安高 雄二は、パプア・ニューギニアのアドラルティ諸島の半農半漁の村人について以下のような報告をしている。
「漁労民と比較すると、用いる漁法の種類や魚に関する知識などは豊富でないかもしれない。(中略)しかし、焼畑農耕というおもな正業があるからじし、既存の、そして周りの漁労形態や文化によって規制されず、楽しみや遊びの延長線上にある生業活動として漁労をとらえ、比較的自由な発想のもとに漁を行っていると感じられる。」(エコソフィア編集委員会 エコソフィア第6号 昭和堂 2000.11:58-59Pより要約)
 
 近年まで、技術を持って複数の会社や工場を渡る職人もいました。東京なら大田区、大阪では東大阪にたくさんいます。(小関智弘「仕事が人をつくる」岩波新書2001)
 
 マクドナルド解体で有名な農民にして反グローバル活動家ジョゼ・ボヴェは、次のようなことを言っています。(「地球は売り物じゃない! --ジャンク・フードと闘う農民たちーー」紀伊国屋書店2001 159P)

 「フランスでは高度成長期までは、専業農家は少なかった。農民は休耕期には、サラリーマンとか気のおもちゃづくりとかをして生活をしていた。(趣旨を著者が要約)」
 
 琵琶湖の猟師の戸田直弘は、「昔は琵琶湖では反農半漁で暮らす家庭が多かったんです。」と語る。(「わたし琵琶湖の漁師です」光文社新書2002 92P)

民俗学者の宮本常一は、古典「忘れられた日本人」のなかで、あちこちを渡る職業の聞き語りを描いた。「土佐源氏」ではムラ共同体の人並みから外れたがえゆえに、牛を売買する仕事で各地を渡ることになった男性のナラティブが収められている。また「世間師」においては、日本各地と朝鮮半島の釜山で仕事をした大工の語りが書かれている。(宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫1984-1997 PP131-158、PP214-273)

民芸運動で有名な柳 宗悦は、「手仕事の日本」(岩波文庫1985,2002:30-31)のなかで、商売人よりも半農半工の職人が作った昔ながらの手作りの品のなかに美しいよい品が多いと指摘している。

歴史研究者の網野善彦は、日本の中世に各地を遍歴した人々のことを一般向け啓蒙書で繰り返しとりあげている。(例えば網野善彦「日本中世の百姓と遍歴民」平凡社ライブラリー2003 PP258-292)

「増補 アリラン峠の旅人たちーー聞き書き 朝鮮民衆の世界」によれば、旅の商人、男寺党(ナムサダン)、鍛冶屋が一家で市から市へ渡ることなどが記されている。(安宇植編訳「アリラン峠の旅人たち」平凡社ライブラリー1章、4章、12章 1994)

ほかにもアメリカにも巡回職人というのがいたり、ヨーロッパにも遍歴職人がいたりするのですが、例示しているとキリがないので割愛します。

つまり、一人一業制度というのはごく近年のものだ、ということです。
そもそも、終身雇用といえども全雇用者の約1/3にすぎない大卒の健常な日本人男性でホワイトカラーにしか関係なかったのです。結婚しただけでリストラされた女性たち、その後の就業がパートという半失業/部分就業でしかなかった隠れた失業者たちのことを見逃さないでください。「出向」のために子会社にとばされた人のことも思い出してください。80年代に造船業の不況のために人員整理が行われたことは記憶にありませんか?
終身雇用幻想など思い半ばにすぎるでしょう。

 タイ映画の「忘れな草」では、各地をわたる商人が、素朴な村娘を誘惑し、妊娠がわかると逃げる役として出てきます。
 11月にNHKの芸能花舞台という番組で紹介された、竹屋夢二にモチーフをとった舞踊では、渡り奉公人の女が勤め先の若旦那と「一夜の逢瀬でひきさかれ」たとナレーションが入ります。
 
 保田 與重郎はこう記述しています。「芸能の詩人と共にすでに芸術家になっていた社寺の神官の旅行など、今では文芸史上の事実としても考える必要があろう。(中略)芸能家たちの旅行は、充分に詩人の志を伝えて国家意識の育成にはるかに民衆的な役割を果たしていたのである。(『近代の超克』新学社2002 10P)」

いったいいつから、渡りの人びとの地位が低下したのでしょう? それはどうして起こったのでしょう?

<2005.>
 

(NOW BUILDING)