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歌舞伎町がもし100人の村だったら、北芝健

2006年10月31日 | BOOK(本棚・左)

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歌舞伎町がもし100人の村だったら、北芝健 

KKロングセラーズ

2002年7月1日、初版発行

定価(本体905円+税)

     

〇1年に1回くらい、東京に行くが、歌舞伎町には、1度も行っていない。

〇新宿に行っても、タワーレコード新宿店(東京都新宿区新宿3-37-1、フラッグス7~10F、03-5360-7811)に行く程度。

〇美々卯新宿店(隣接の飲食店ビル、東京都新宿区新宿3-37-12 新宿NOWAビル6F)でうどんすき(3700円)を食べて、散策は終了。歌舞伎町に行く勇気がない。

 

 

 

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〇歌舞伎町(かぶきちょう)は、東京都新宿区にある町名。飲食店・遊技施設・映画館が集中する歓楽街。


〇歌舞伎町は、明治通り(東)、靖国通り(南)、JR中央線(西)、職安通り(北)に囲まれた範囲(ただし花園神社の敷地とその南北の一画は除く)に位置する町である。鉄道の場合、新宿駅東口、あるいは西武新宿駅が最寄り。都営地下鉄大江戸線なら新宿西口駅か東新宿駅が近い。新宿駅東口から北に向かって行くと、ドン・キホーテ本店前の大きな通り(靖国通り)にぶつかる。これを越えると、歌舞伎町である。歌舞伎町一番街(劇場通り)、さくら通り、西武新宿通り、東通り、区役所通りなどがある。西武新宿駅で降りれば目の前が歌舞伎町になる。

町の中には、新宿コマ劇場や映画館、漫画喫茶、居酒屋、キャバクラ、風俗店やホストクラブ、ラブホテル、パチンコ店も立ち並んでおり、「眠らない街」とも言われ、深夜になってもネオンで明るく人通りも多い。ドン・キホーテ前、セントラルロードに多いスカウトやホストによるキャッチ、怪しげな客引きやポン引きなど、合法、非合法取り混ぜて歌舞伎町独特の雰囲気がある。


  

〇歌舞伎町には一丁目と二丁目があり、概ね花道通りを境にした南と西武新宿駅周辺の一画が歌舞伎町一丁目、北が歌舞伎町二丁目である。

  

〇歌舞伎町一丁目~西寄りにコマ劇場、ミラノ座などの映画館が並ぶ一角がある。東の方へ向かうと新宿区役所があり、区役所通りを渡ると新宿ゴールデン街がある。裏通りには飲食店や性風俗店、アダルトショップなどが密集している。西武新宿駅ビルの複合ショッピング店舗のほか、近年、大手ディスカウントチェーンが進出したが、靖国通りを隔てた新宿三丁目に比べ物販店は少ない。

  

〇歌舞伎町二丁目~西寄りに都立大久保病院・ハイジア、東側にはラブホテル街が広がり、区役所通り付近はクラブ、ホストクラブなどが多数あるが、一丁目と違い表立って性風俗店は見当たらず、町の北と東に面した大通り沿いはオフィスビルやマンションが建ち並び、繁華街・歓楽地の様相は全く感じさせない。北側の職安通り沿いには通りの名前になったハローワーク新宿の歌舞伎町庁舎(主に雇用者側の求人などの受付窓口で、雇用保険の失業給付や求職相談は西新宿庁舎で行う)があるほか、大久保のコリアタウンに接していることもあり、韓国料理店や食品スーパーなどがある。

  

〇歴史~歌舞伎町は、第二次大戦後の戦災復興の時期に誕生した。角筈(つのはず)一丁目の北東部とその周辺、百人町一丁目・西大久保一丁目(東大久保三丁目)・三光町の境界付近を区画整備し、1948年4月1日に歌舞伎町(現在のように丁目のついた町名ではない)として起立。当時の歌舞伎町の範囲は、おおむね現在の歌舞伎町一丁目(西側の鉄道敷設部分とその沿線、および区役所通りより東をそれぞれ除く)に相当する。1978年の住居表示実施に伴い町名町域が変更され、歌舞伎町の全域(および百人町一丁目・三光町・角筈一丁目の各一部)が歌舞伎町一丁目に、西大久保一丁目のほぼ全域(および東大久保一丁目のごく一部)が歌舞伎町二丁目となり、現在に至っている。

大部分は新宿区発足前には旧淀橋区に属した地域(三光町は旧四谷区、角筈一丁目の一部も淀橋区発足までは旧四谷区)である。元々は「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯で、明治以降は鴨場となっていた。1893年淀橋浄水場建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられ、造成される。1920年には東京府立第五女学校(現在の東京都立富士高等学校)がこの地に開校。学校を取り巻く周囲は静かな住宅街として開発されていった。
1945年の東京大空襲で一面焼け野原となったが、第二次大戦後、「現在の歌舞伎町一番街付近に歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられ、この都市計画から、新しい町は「歌舞伎町」と名付けられた。結局、財政の面などからこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまったものの、歌舞伎町は東京でいち早く戦災復興を成し遂げ、「全首都復興の月桂冠」と讃えられた。 その主役となったのは在日華僑たちであり、博覧会会場として利用されなかった空き地を資金を出し合って買い、現在の隆盛の一翼を担ったのは有名である。その一人にヒューマックスの創始者である林以文(故人)がいる。キャバレーの経営者にすぎなかった彼の成功物語は神話となっている。

1952年には西武新宿駅が開業。西武新宿線は新宿駅東口に乗り入れる計画であり、当初は仮駅であった。1977年には現在の西武新宿駅駅ビルが完成し、新宿プリンスホテルと西武新宿ペペが営業を開始した。バブル期に新宿駅東口乗り入れ計画が再び浮上したものの、歌舞伎町商店街振興組合や新宿サブナード(新宿地下駐車場株式会社)等が反対。バブル崩壊の影響もあり結局実現しなかった。現在一日約19万7,000人の乗降客があるターミナル駅として機能している。

現在では様相はさらに変容し、3,000軒を数えるバー、キャバレー、ラブホテルなどが密集し、「欲望の迷宮都市」「外国人労働者の新租界」等とも評されている。歌舞伎町は世界でも有数の夜の盛り場に数えられていて、近年では、中国や韓国からの観光ツアー客も多く、昼間はよくツアーコンダクターが導く姿が見かけられる。西新宿のオフィス街や出張サラリーマンの息抜き、学生コンパなどの格好の場となっている。

  

〇治安~2000年代に入ってからは安全条例の制定や、パトロールの強化など、取締まりも厳しくされ、2002年2月には50台の防犯カメラが設置されて話題を呼んだ。実際犯罪がかなり減少し、効果が見られたとされている。同様の理由から大阪市中央区のアメリカ村では77台もの監視カメラが設置され、同じく成果をあげている。

2001年9月1日に起こった歌舞伎町ビル火災は、死者44人を出し、防災や人権などの問題とともに、マスコミや世論を大変にぎわせた。

歌舞伎町の中には、歌舞伎町を縄張りに収める指定暴力団住吉会住吉一家向後睦会およびその他の組織も含め約120箇所の暴力団事務所拠点があり、1000人の構成員が居るといわれている(※120箇所~以降の根拠は2004年1月19日竹花東京都副知事発言・歌舞伎町住民との懇談会)。

歌舞伎町における不法滞在外国人の組織犯罪も多かったが、これは2003年に入国管理局の出張所を歌舞伎町に置くことにより不法滞在者の摘発が進み、大幅に減少した(それ以前、2002年の入管特別集中摘発資料によれば、不法滞在摘発者は主に韓国・中国・タイ・ロシアが75.6%を占め、13か国に上った)。

2004年暮れに東京都知事・石原慎太郎の招聘で就任した警察庁出身の副知事・竹花豊の主導により「歌舞伎町浄化作戦」と称される大規模な店舗の摘発が行われた。この際に非合法な風俗店・アダルトショップなどで閉店を余儀なくされた店が多く、2005年に竹花が出向解除により警察庁へ復帰して以降も、警察の威信をかけた重点摘発が続けられている。また水面下では以前から討議されていたものの、2004年後半には大規模再開発と暴力団追放等を目的とした「歌舞伎町ルネッサンス」計画の第一回会議が公開の場で開かれる。2005年4月には都条例の改正(通称・客引き禁止条例)が施行された。まだ「歌舞伎町ルネッサンス」計画は序章ではあるが、先日開始を宣言するイベントも行われ、街は大きく変わろうとしている。(Wikipedia参照)

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マキアヴェッリ語録、塩野七生

2006年10月27日 | BOOK(本棚・左)

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マキアヴェッリ語録、塩野七生

新潮社

1988年8月25日、3刷

定価1300円 

第1部 君主篇

第2部 国家篇

第3部 人間篇

〇結果さえよければ、手段は常に正当化される。

〇国家が秩序を保ち、国民一人一人が自由を享受するには、清貧が最も有効だ。

〇人を率いていくほどの者ならば、常に考慮しておくべきことの一つは、人の恨みは悪行からだけではなく善行からも生まれるということである。

〇人は、大局の判断を迫られた場合は誤りを犯しやすいが、個々のこととなると、意外と正確な判断をくだすものである。

〇忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども溶解できるなどと、思ってはならない。

〇報酬や援助を与えれば、敵対関係すらも好転させうると、思ってはいけない。     

〇謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯すはめにおちいる。

〇中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝利者であり続けるであろう。反対に、圧勝することしか考えない者は、しばしば、陥し穴にはまってしまうことになる。

〇やった後で後悔するほうが、やらないことで後悔するよりもずっとましだ。

〇天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。

〇人間の為すあらゆることは、はじめから完全無欠ということはありえない。

〇人間の行う行為を見れば、いかに完璧を期そうとも、必ずなにか不都合なことを引きずっているものである。なぜなら長所は必ず、短所をともわないではすまないからだ。それゆえに、どうすれば短所をコントロールするかが、成功不成功の鍵となってくる。

〇われわれが常に心しておかねばならないことは、どうすればより実害が少なくてすむか、ということである。

〇好機というものは、すぐさま捕まえないと、逃げ去ってしまうものである。

〇自らの安全を自らの力によって守る意志をもたない場合、いかなる国家といえども、独立と平和を期待することはできない。なぜなら、自ら守るという力量によらずに、運にのみ頼るということになるからである。

〇人は自分のもちものが奪われたときよりも、父親が死んだことのほうを、早く忘れるものである。

〇君主にとって、厳重の上にも厳重に警戒しなければならないことは、軽蔑されたり見くびられたりすることである。