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関裕二氏「応神天皇の正体」(1)・・海の女神・神功皇后

2017-06-15 | アジア


古代の朝鮮と日本の関係を調べていて、関裕二氏の「応神天皇の正体」という本も読んでみました。


応神天皇と言えば、その母は、三韓征伐に向かった「神功皇后」であると言われます。

応神天皇のイメージは漠然としていますが、「三韓征伐の神功皇后」と言えば、勇ましい男装の神話的な女性の姿が思い浮かびます。

「神功皇后」は、新羅との闘いに出向いたとされ、その時懐妊中であり、生まれた子供が応神天皇と「日本書紀」に記されています。

正体という言葉はなじみませんが、古代日本と古代朝鮮の関わり、というテーマにふさわしい人物の一人かもしれません。

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         (引用ここから)

私はこれまで「応神天皇と初代神武天皇は同一人物で、ヤマトが建国された3世紀後半から4世紀にかけての人物」であり、ヤマト建国の秘密を握っているのではないか」と考えてきた。


まず、「神武天皇の東征」と「応神天皇の東征」は、同じ事件ではないかと思えるほど内容が似ている。

神武天皇は「天孫降臨→神武東征」だが、応神天皇は「応神降臨→応神東征」である。

神武天皇を後押ししているのは天照大神という〝日神″だが、応神天皇には、「アメノヒボコ」という〝日神″が背後に控えていた。

神武天皇の東征を促したのは「塩土老翁(住吉大神)」だが、応神天皇を後押ししたのも「住吉大神「塩土老翁)にそっくりな竹内宿祢(たけのうちのすくね)」であった。

           (引用ここまで)

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関氏はこのように書きながらも、「だが応神天皇の在位は4世紀末から5世紀初頭とするのが通説であり、また神武天皇は架空の人物だった可能性がある」、とも述べています。

それでもあえて、関氏は、応神天皇と神功皇后に焦点をあてて論考を進める決意を述べています。

しかし、朝鮮半島との関係においても、「神武皇后」の話は整合性に欠ける点があることを認めています。

その部分をご紹介してみます。

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          (引用ここから)

「神功皇后は実在しなかった」、というのが史学界の通説となっている。

4世紀末から5世紀にかけて、倭国が朝鮮半島にしきりに軍事介入し、新羅に攻め入っていたことは、朝鮮の正史「新羅本紀」や史跡「広開土王碑文」から確かなことだ。

したがって「日本書紀」が描く「神功皇后の新羅征伐」を、頭から否定することはできない。

しかし倭は、新羅に攻め入るだけではなく、高句麗とも戦闘を繰り広げていたのだ。

倭の侵入に耐えきれなくなった新羅は、高句麗に救援を求めているのだ。

そして倭軍はかなり北上していたことがわかっている。

さらに、「新羅征伐説話」に「任那」のことがまったく記されていないことも問題であり、それはこの物語が「任那」滅亡後に考えだされたからではないか?、という説もある。

また、「神功皇后」が新羅に攻め寄せると、新羅は闘わずに降伏するが、それは時代が下って書かれた「日本書紀・推古31年(623年)」の記事とそっくりである。

「新羅国の王が、倭の軍勢が大挙して押しかけると知り、怖気づき、服従した」という記事である。


では、通説の言うとおり、「神功皇后」は実在しなかったのだろうか?

「日本書紀」の記事を追ってみよう。

仲哀天皇2年、九州の熊襲が背いたので、仲哀天皇と「神功皇后」の夫婦は、別々の場所から穴門(山口県)に向かい、その後、筑紫に入った。

熊襲を討つための「軍議」を開いた。

すると「神功皇后」に、神が託宣を下した。


「天皇はなぜ、熊襲が服従しないことを憂えるのか?

ここは不毛の地で、むなしい国だ。

それよりも、海の向こうに宝の国がある。

まばゆいばかりの金銀財宝がある。

これを新羅国という。

もし私を祀るなら、闘わずしてその国を服従させることができるであろう。

また、熊襲も倒せるであろう。」


しかし仲哀天皇は神の言葉を信じなかった。

そしてそのために、神の怒りをかって急死してしまう。

託宣の神は「今、皇后は懐妊している。その子(応神天皇)があの国を得ることになるだろう」と告げたのだった。


ここから、関連の記述は「日本書紀・神功皇后紀」に入る。

「神功皇后」は、神の名を問いただした。

そして神々をまつり、土着民の熊襲・土蜘蛛を討つと、対馬から新羅に向けて出航した。

この時、〝風の神″は風を起こし、〝海の神″は波を揚げ、あっという間に新羅に着いてしまった。

「この様子を見た新羅の王は、なすすべを知らなかった」、と記される。


そうしている間に倭の軍勢が満ち満ちたので、新羅王は恐れおののき、言った。

「私は聞いている。東の方向に日本という神の国があることを。また聖王がいらっしゃいます。それを天皇と申し上げます。おそらくその国の神の遣わした兵たちに違いない。どうして勝つことが出来よう」。

こうして新羅王は降伏し、以後、貢を奉る約束をしたのである。

「神功皇后」は九州・筑紫に凱旋し、応神天皇を産み落とした。



応神天皇の母、「神功皇后」は、「ヤマト建国」前後の女傑だった可能性が高い。

「日本書紀」は「神功皇后」の記述と同時代に、4世紀後半の百済王の記事を載せている。

そしてまた、「魏志倭人伝」の邪馬台国にまつわる記事を、並行して載せている。

「日本書紀」の記述は混乱しているが、「神功皇后」と邪馬台国は、つながりがあると思われる。

「神功皇后」を邪馬台国の女王とみなしたほうが、多くの謎が解けてくる。



地方の神にすぎなかった宇佐神宮の「八幡伸」が、日本を代表する神に変身したのは8世紀である。

「八幡伸」とは、応神天皇のことである。

「日本書紀「や「古事記」は、宇佐神宮に関して、一言も触れていない。


「日本書紀」成立が西暦720年であり、それからまもない頃に、急速に「八幡神」が脚光を浴び始めた。

聖武天皇が大仏殿建立を発願し、宇佐神宮が関わりを持ってくるのだ。

「天平元年(749年)、八幡大神が託宣をして平城京に向かった」と「続日本紀」は記録する。

当代天皇の詔の内容は、「大仏を造ろうと思っていたが、なかなか夢はかなわず、八幡大神の神託を得て、元気をもらった」というものである。


「豊前国風土記」には、次のようにある。

「昔新羅の国の神が渡って来て、この河原に住んだ。そこで名付けて「鹿春(かはら)の神」という」。


事実、香春岳は、古代を代表する銅鉱山の一つであった。

この一帯に渡ってきた渡来人たちが、銅を採り、精錬していた。

香春神社の祭神も新羅系であろう。

また、大仏を鋳造する銅も、技術者も、香春岳周辺からヤマトに送られていたのであろう。


東大寺建立は「河内の知識寺」と「豊前の八幡伸」が関与する形で始まった。

宇佐八幡が東大寺建立を主導したことで、天神地祇が仏教擁護を打ち出し、日本の神々を編成し直すこととなった。

「宇佐八幡」も「知識寺」も共に、渡来系氏族が関わりを持っていた。

大陸の文物を取り入れるのに、彼らの役割は大きかった。


聖武天皇は東大寺を国の中心に据え、日本各地に国分寺と国分尼寺の建立を命じた。


聖武天皇が寺仏の建立を急がせたのはなぜだろう?

天皇家の正当性は、神話と神道によって証明されているのに、である。


「日本書紀」編纂は西暦720年。

この書の中で、天皇家は天照大神から続く尊い一族と記録された。

なのになぜ聖武天皇は、深く仏教に傾斜していったのだろうか?



「神功皇后」の拠点は、穴門の「豊浦宮」で、「トヨの港の宮」の意味だが、「神功皇后」はなぜか、海の女神「トヨ(豊)と多くの接点を持っていた。

「神功皇后」は6世紀~7世紀にかけて登場した女帝たちをモデルに創作されたにすぎないと、通説は高を括る。

しかし現実は逆だったのではあるまいか?

「神功皇后」が「トヨ」だったのではないだろうか?


通説は「もともと宇佐と応神天皇はまったく関係がない」と言い、「宇佐の土着の八幡信仰に応神天皇が乗ったのだ」と説明する。

しかし、「宇佐」も「豊国」であり、「トヨの国」だ。

それはなぜかと言えば、「神功皇后」が邪馬台国の女王・「トヨ」だったからであろう。

「魏志倭人伝」に登場する「卑弥呼の宗女(一族の女)・台与・トヨ)である。


「日本書紀」は「神功皇后」をめぐる記事の中に「魏志倭人伝」の記事を挿入する。

したがって、「日本書紀」の編者は、「神功皇后は邪馬台国の女王だったと想定していた」ことになる。

そして「神功皇后」が「台与・トヨ」だからこそ、神功皇后の宮は「豊浦宮」で、九州の北東部が「トヨの国(豊国)と呼ばれたのではあるまいか?

「豊前国風土記」逸文には、「昔、天孫がここから出立し、日向の旧都に天降った」と言い、「天照大神の神京だった」と言う。

つまり「豊国」は、神話に言うところの「高天原」で、「ここから天孫は天降っていった」ということになる。


もちろん鵜呑みにはできない。

しかしこの地に「トヨ」の地名・豊国が残っているのだから、無視することもできない。

「邪馬台国」にまつわる痕跡がある可能性は高い。


「魏志倭人伝」によれば、「「邪馬台国の台与(トヨ)」が魏に「ヒスイの勾玉」を贈って来た」、とある。


そもそも、ヒスイとはどのような宝石なのだろう?
なぜ古代人は、ヒスイを珍重したのだろう?

ヒスイは、海神がもたらす神宝と信じられていた。


「日本書紀」には、「穴門の豊浦宮(山口県下関)に滞在していた「神功皇后」が海中で如意玉を得た」と記されている。

仏教にいう「如意宝珠」であり、何でも思い通りに事が運ぶ不思議な珠である。

「神功皇后」の「新羅征服」に際し、大浪で新羅が水浸しになったというが、これこそ、如意玉の効用であろう。

「トヨ」の名を冠する女神が、ヒスイと強く結びつく例は、天の羽衣伝承も同様だ。

眞名井で沐浴していた天女・豊受大神が、羽衣を奪われ、地上界に留まらざるを得なくなった、という話だ。

眞名井は「マヌナイ」で、「ヌ」は、珠のことで、水、井、池と珠、がセットになっている。

豊受大神は伊勢下宮に祀られる神としても知られるが、日本海から現れた海の女神であり、神功皇后とも接点をもつ。

           (引用ここまで)


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いろいろなことに思いをはせたのですが、ここに出てくる「香春岳」という山にちょっと気持ちがひかれて、調べてみたら、「田川郡(たがわ)香春(かわら)」で、五木寛之の「青春の門」に出てくる場所なのだということがわかりました。

山崎ハコさんが「うちは田川に帰るけん。。」と切なく歌う声を思いだしました。

映画も本も読んでいないのですが、筑豊の町だということだけは記憶にあります。

神功皇后は遠い存在ですが、著者・関氏の語るヒスイや、皇后と仲哀天皇の生々しいエピソードなどを読むと、神話的というよりは、生きた人間のように感じられてきました。



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