その後の『ロンドン テムズ川便り』

ことの起こりはロンドン滞在記。帰国後の今は音楽、美術、映画、本などなどについての個人的覚書。SINCE 2008

うん十年振りに「プロ倫」を読んでみた:マックス・ウェーバー(訳 中山 元)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(日経BP,2010)/原著は1920年

2024-03-20 07:30:41 | 

まさかこの歳になって、「プロ倫」を再読するとは思ってもみなかったが、昨秋から参加していた勉強会の最終回の課題図書であったので、読まざるを得ず。大学2年の一般教養「社会思想」の授業で読まされて以来である。当時読んだ岩波文庫版(梶山力、大塚久雄 訳)よりも読みやすいとの評判を聞き、中山元の訳を読んだ(確かに読みやすかった)。

初読から数十年経っているので、記憶も経験も積み重なっていることもあるが、一体、学生の時は何を読み取っていたのだろうか。恥ずかしいほど、何も残っていなかったことが判明。仮説に対する検証方法や分析の内容など、改めて読んで、気づかされたことが多々あった。

内容について詳細は省くが、ベンジャミン・フランクリンが書き残した、時は金なり/信用は金なり/金が金を生む/よい会計係は他人の財布の落ち主/勤勉と節約/几帳面さと正直といった資本主義を発達させた精神の本質(エートス)は、プロテスタンティズム(特にカルヴァン派)の予定説から導かれる天職の思想や禁欲主義をバックボーンにしていることを検証している。

「世俗的な職業に従事しながらその義務を果たすことが、道徳的な実践活動そのものとして、最高のものと高く評価されたことは新しいこと。これにより世俗的な日常の労働に宗教的な意義があると考えられるようになり、その必然的な結果として、このような意味での天職の観念が始めて繰り出された。・・そして神に喜ばれる唯一の方法は、各人の生活における姿勢から生まれた背欲的な義務を遂行することにあると考える。こうした義務の遂行が、その人の「召命」であるとみなすようになった」(p142⁻143)

「プロテスタンティズムの世俗内的な禁欲は、自分が所有するものをこだわらずに享受することに全力を挙げて反対し、消費を、とくに贅沢な消費を抑圧した。この禁欲はその反面で、財産を獲得することに対する伝統主義的な倫理的な制約を、解き放つ心理的な効果を発揮したのである。利益の追求が、直接に神が望まれるものとみなしたために、利益の追求を禁じていた〈枷〉が破壊されたのである。」(p.462)

2つの点で興味をひかれた。

1つは日本人の資本主義の精神はどこからきているのかという点だ。現代日本において、中近世のプロテスタントのように召命として労働に励む人は殆どいないと思うが、日本人の労働観や勤勉性はどこから来ているのだろうか。金儲け・利益についての考えの由来はどこにあるのか。そんな疑問が頭をよぎった。近江商人の三方良しとか、「もったいない」という考え、石田梅岩の石田心学における「正直」「勤勉」「倹約」といった倫理。これらはプロテスタンティズムの精神にも共通するところがある。日本人らしい、なんでも統合させてしまう特質から「武士道/商人道」「仏教/神道」などなどのミックスによるものなのだろうか。

2つめは、マックス・ウェーバーの先見性。今回、特に、目を開かれたのは、マックス・ウェーバーが、資本主義の将来を鋭く見据えていたということだ。資本主義においてその精神性が薄れ消滅しつつある20世紀初頭の状況を見て、『プロ倫』の最後ではこう述べる(めちゃ長い引用だがとっても大事)。

「現在では、禁欲の精神は、この鋼鉄の「檻」から抜け出してしまった。勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の後をついたのは、晴れやかな啓蒙だったが、啓蒙のバラ色の雰囲気すら、現在では薄れてしまったようである。そして、「職業の義務」と言う思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、私たちの生活のあちこちをさまよっている。
(中略)「職業の遂行」が、もはや文化の最高の精神的な価値と結びつけて考えることができなくなっても、(中略)今日では誰もその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。(中略)営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときには、スポーツの性格を帯びていることも稀では無いのである。
将来、この鋼鉄の檻に住むのは、誰なのかを知る人はいない。そして、この巨大な発展が終わるときには、全く新しい預言者たちが登場するのか、それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのかを知る人もいない。あるいは、そのどちらでもなく、不自然極まりない尊大さで飾った機械化された化石のようなものになってしまうのであろうか。最後の場合であれば、この文化の発展における「末人」たちにとっては、次の言葉が真理となるだろう。『精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無に等しい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。』」(pp493⁻494)

噛みしめたい一文だ。まさに、今の世の中、精神のない専門家、魂のない享楽的な人間に溢れているとは言えないか。そうした中で資本主義の暴走が起こっている。私自身も含めて、「職業の遂行」の意味を考えるべき時代だと強く感じた。


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