ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

サルタ?

2006-04-30 03:50:11 | ドライブ関連
ガソリンがまた高騰! このあたりではハイオクが140~142円、レギュラーが132~134円だと! アンビリーバボーである。そもそもガソリンの値段ってのはヘンだ。あまりに不当なガソリン税が課されているくせに、その上消費税が加算されるのはどうにも納得がいかない。

しかも今回の値上げの時期がゴールデン・ウィークの始まりってんだから悪意を感じざるをえない。だってサンデー・ドライバーがこぞってお出かけする季節じゃないか。これじゃあ、いかにも取れる時に取ってしまおうという政府の魂胆はミエミエである。

ガソリン代の値上げは当然ワシの行動範囲にも関係してくる。今までゴキゲンで関東近県に出撃していたのが、そうそう行けなくなってくるからだ。というわけで比較的近場を走ることに。

府中市の多摩川沿いを走っていたら暗い中で目にしたのがこの看板。



「サルタ」?

まったくもって意味がわからない。いったい何なんだろう。気になったので看板のそばへ近づいてみる。すると、この黄色い看板の下に次のような文字を発見。



どうやらサルタというのは「猿田商店」という会社のことらしい。それにしても単に「サルタ」とぶっきらぼうに書かれてもなあ…。

思い出したが、なぜかこの看板のところに深夜タクシーが停車しているのを何度か目撃したことがある。そして運転手がすることといえば決まって「立ち小便」。まあ、この黄色い看板とは恐らく無関係だとは思うけどね。それとも、この黄色が尿意を催すのだろうか…。

ま、まさかねえ。
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フンメルも捨てがたい

2006-04-29 03:26:38 | CD/DVD
ある雑誌でヨーハン・ネポームク・フンメル(1778-1837)の作品について書く機会があった。そのためフンメルについて調べたり、その作品をざっと聴き直してみた。すると以前には感じなかったが、意外に心地良い作品が多いことに気づく。だからといって諸手を挙げてフンメルを称賛するつもりは毛頭ない。ある条件付きでいう意味だ。

今年はモーツァルト(1756-91)生誕250年ということで音楽メディアはそれをネタに金儲けに必死である。確かに楽譜にしろCDにしろモーツァルト関連のモノは群を抜いて売れているらしい。だからメディアがそこに飛びつくのだろう。ま、金儲けとはそういうものなのかもしれないが。

ところで、生誕とか没後●●周年という意味でいうなら、他の作曲家にも着目してしかるべき。キリ番みたいな意味でいえば、思い浮かぶだけでもシューマン(1810-56)は没後150年だし、ショスタコーヴィチ(1906-75)は生誕100年だ。シューマンもショスタコーヴィチも有名な作曲家であることに変わりはない。

にもかかわらず彼らにはほとんどといってよいほどスポットが当てられていない。少なくともモーツァルトのようには。うーん、やっぱりこれも市場原理が関係しているのかねえ。経済抜きで考えれば、平等に扱ってやればいいのにと思うんだけど。

フンメルに話を戻そう。世の中はモーツァルトばかり注目するが、誤解を恐れずに言えば音楽的な特徴はフンメルだって似たようなもの。むしろフンメルの作品にはロマンティシズムももれなく付いている。つまりフンメルの音楽はモーツァルト風な優雅さを残しつつ、ベートーヴェン(1770-1827)のロマンティシズムも感じられるというわけだ。

音楽について「一度で二度美味しい」など、どこかのCMのように言うつもりはない。でもモーツァルトの音楽を広い意味でのBGMと捉えるなら、フンメルの作品だって十分に「鑑賞」に耐えうると思うのだが…。いや、フンメル、なかなかステキだよ。

写真はご存知ブリリアント・クラシックスがリリースしたロマン派の室内楽作品を集めた6枚組の安いボックス。ここにはフンメルの作品のほか、シュポーア(1784-1859)、クロイツァー (1780-1849)、ベルヴァルド(1796-1868)、そしてシューベルト(1797-1828)とベートーヴェンの作品が収められている。なかなか楽しめますぜ、ダンナ。
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突然の闇

2006-04-28 03:10:21 | 脳みその日常
予期せぬことが突然起こると、やはり人は驚く。いやはや今回は全く不意を突かれた。

それは昨夜の深夜11時過ぎのこと。メールをチェックしていたら突如停電。言うまでもなくパソコンは停止するし、家中の電気製品もすべて停止。一瞬ですよ、一瞬。原稿を書いている最中じゃなかったのがせめてもの幸い。

それにしても灯りに慣らされた目が突然闇に放り込まれると本当に真っ暗になる。闇って、こんなに黒かったか?と思うほどだ。でもなぜ停電になったんだろう。

理由はすぐに判明。なんと、家から歩いて3分ほどのところにある製粉工場で火災が発生していたのだ。どうやらその関係で近隣の電線がショートしたらしい。今回の闇が特に黒く感じたのはこのへん一体がすべて停電したからなのだろう。

あって当たり前と思っている電気が使えないというのはこんなに不便なことはない。某電力会社が「オール電化」などと抜かしているが、予備電源が作動しなかったら大変な事態になることは間違いない。だって水道を除くライフラインは完全にストップするわけだからね。そう考えると「オール電化っていいわよね」なんて浮かれていられない。そのあたりのことについて某電力会社はどのような対策を考えているのだろうか。

いずれにしても部屋の中は真っ暗なままなので何もすることができない。仕方ないのでクルマへ避難する。前述のように近隣も停電しているので外も真っ暗。明るいのは消防車とパトカーの赤色灯と燃え盛る現場のみ。うーむ、闇の力は恐ろしい。

理由もなくクルマに乗ったので行くあてもない。そこでクルマで行けるところまで行って「やじうま」になろうと決意する。しかし案の定、火事現場付近は通行止め。仕方ないので停車できる場所から現場周辺を撮影したのがこの写真。

なんだよ、ちっとも火災現場が写ってないじゃないか!というなかれ。確かに臨場感もへったくれもない。しかし数分後に同じところから撮ったのが右の写真。上の写真と見比べると明らかなように、かなりの煙が近隣に広がっているのがわかる。もやのように見えるが、実際には焦げたような臭いが鼻を刺激していた。

思うのは、これが大規模な災害だったらということ。今回はたまたまちょっとした火災だったからよかったものの、大地を揺るがすような地震だったらこんな悠長なことは言っていられない。闇が続くことからくる不安。それは街灯のない山奥で味わう漆黒とは似ているようで全く違う。

暗闇なんてちっとも怖いと思わなかったが、生活する上での闇は恐ろしいなと今回初めて感じた。阪神淡路大震災を経験していないワシを含む東京の人々はもっと危機意識を持つべきではないだろうか。遅かれ早かれ東京にもデカイ地震が来るだろうから。もちろん災害なんて来ないに越したことはないけれどね。
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没ネタ

2006-04-26 15:35:35 | 脳みその日常
ブログに載せようと撮ったが、チャンスを逸したものを公開。なぜボツにしたものをわざわざ載せるのかって? 決まってるじゃないですか、つなぎですよ、つなぎ。ええ、ええ。

これは相鉄線沿線にある「緑園都市」という駅の近くで撮影したもの。なんと、すぐ脇はフェリス女学院大学なのだった。なぜこのへんに行ったのかというと、たまたま合宿の帰りに通った時、まさに名の通り緑が美しかったから。もっとも、仮に新緑であったとしても夜中に行ったら大して感動できないとは思うけどね。でも、オシャレな町並みではある。もう少し暖かくなったら、何とか時間を作って昼間に行ってみようかな。

これは中央線の武蔵小金井にある電車の寝床。撮影したのは深夜午前1時半頃。まだ電車には灯りがついている。最後の点検をしているところなのだろうか。毎日、お疲れさんです。
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そろそろグレード別に…

2006-04-25 18:32:33 | 脳みその日常
今日は講座の日。明け方までに原稿をひとつ仕上げてから、講座の準備にかかる。

何度も書いたことだが当講座はショート・ショートみたいなもので、毎回一話完結形式というスタイルをとっている。だから入会金もないし、一回分の「破格の」受講料さえ払えば誰でも受講することができる。つまり誰でも自由に出入りできるシステムになっているのだ。当然のことだが大学生以下は無料。

この料金システムだと気楽に出入りできるというメリットがある。テーマを見て面白そうなら来ればいいし、興味のないテーマであれば来なけりゃいいのだから。しかし本日、ある受講者からひとつの提案があった。体系的に音楽を学びたいのですが…と。

うーん、確かにそう思うだろうな。何せワシの講座はバロックから現代まで時代に関係なくあっちこっちに話題が飛ぶからねえ。たとえば前回古典派を扱ったかと思えば、今回は現代とかね。それも通り一遍の切り口でなく音楽に関係ないことも多かったり…。

一回一回は面白いのかもしれないが、歴史的な流れとして体系的に学びたい人にはツライかもしれない。特に本当の初心者にはね。だって、譬えるなら近くにある点と点が連続していけば線になる日はすぐなのに、今日はこっちの点、明日はあっちの点というような点の付け方をすれば、線になる日はなかなかこないのだから。ご提案されるのはごもっともなのだ。もしワシが逆の立場ならやはりそう思うだろうし。

ただねえ、体系的に話をするにはシリーズ化するしか方法はない。だがそうなると毎回受講しなければならないことになる。確かにシリーズ化すれば内容は頭にスッと入るが、受講できない日があるとそこだけ「歯抜け」になって、休講した人の頭のなかでは結局シリーズ化されないことになる。せっかくまとめて料金を払っても個人的な事情であれ受講できなければそれまでなのだ。まあ、そこまで受講者のことを考える必要もないといえばそれまだなのだが。

理想を言えばグレード別にクラス分けをすること。クラスごとに異なる講義をすればそれぞれの受講者も納得できるだろうし、コチラもラク。しかし現実に実行するのは難しい。事務局があるとはいえ、ウチの講座はあくまで有志の個人の集まりだから。

現状で、あらゆるレベルの受講者に満足してもらえるシステムってのはないもんかねえ。最大多数の最大幸福…ぬぁんてそんな高尚な話じゃなくてさ。

はぁ…。
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ポッポと遊ぶ

2006-04-24 14:42:06 | 脳みその日常
今日は良い天気。部屋の中で原稿についてあーだこーだ考えていたが、気分転換にドライブじゃなくて散歩に出掛ける。ウチの近所にちょっとした公園があるのだ。

さすがに夜中にここに来ることはない。ただでさえ最近このあたりでは不審者が出るという話なので濡れ衣を着せられたらタマランからだ。もっとも夜中にドライブに出掛けるというのがそもそも常識的には怪しいのだが。

この公園にはあちこちにベンチがある。眩しい陽射しに目を細めつつ考えごとをするのは何とも気分が良い。

ふと気づけば足元でハトが遊んでいた。まったく警戒心がないらしい。むこうはきっとエサをくれるものと思って近づいてきたのだろう。残念!こちらはパン粉のパの字すら持っていない。

そのうち、奴さんたちは「ケッ、こいつエサもくれねーよ」と思ったのかどうかは知らないが、次第にワシから遠のいていった。本当ならハトが接近した瞬間を撮影すればよかったのだが、まさかこんなところに奴らがいるとは思わなかった。ましてや近づいてきたのも気づかなかったので「夢のツーショット」も逃してしまった(笑)

ま、たまにはホノボノするのも良い。
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なぜマーラーなんだ?

2006-04-22 17:31:00 | 音楽あれこれ
「オペラ・プロジェクト」というシリーズを行なっている事務局から案内が来た。それによると本年7月下旬に全国4カ所で催しを行なうという。しかし疑問なのは演目がオペラでなくマーラーの《復活》ということ。

《復活》には確かに2人のソリストと合唱が登場するが、カテゴリーは言うまでもなく交響曲。オペラじゃない。なのにその作品を「オペラ・プロジェクト」のシリーズに入れる理由は何なのだろうか。同梱された概要にその説明はない。ますますもって不可解である。

個人的に予想するなら、たぶん今回の《復活》は「まだ」うまく行くと思う。「まだ」という但し書きを付けるのは次のような理由による。これまで数回この団体のオペラを観てきたが、いずれも主役はオケだった。本来メインであるはずの歌手たちはいわば「添え物」で、どんなに歌い手たちが頑張っても主役になれないという本末転倒な解釈。

歌手が「添え物」だなあと思うのは、彼らが歌っている時にもオケが大して音量を下げず彼らを引き立てようとしないことにある。序曲や間奏曲などでオケが大音量を出すのは良い。しかし歌手の声量なんてどう頑張ってもオケに勝てるワケがない。だから歌が始まったらオケの音量は当然下げる必要がある。そうでないと歌手の声はオケの音にかき消されてしまうからだ。こんなことはオペラ指揮者ならば常識中の常識のハズ。

でも、結局オケがメインになってしまう。やっぱり自分が目立ちたいのかなあ。その意味から今回の《復活》は「まだ」期待できると思ったわけだ。それにしても、やっぱりこの作品を「オペラ・プロジェクト」の中に組み込むのは無理があるんじゃないのかねえ。

あ、ファンのみなさん、これは別に誹謗でも中傷でもないからね。ワシが感じたままを書いただけなので、おかしなコメントは寄せないよーに(笑)
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行けない道

2006-04-21 05:24:15 | ドライブ関連
昨日は大学の新歓コンパ。しかしワシが参加するのは事情により二次会からと決まっている。ところが今回二次会はないと幹事から連絡が入る。そうかワシの人気も凋落したものだな。まあいいさ、飲み代のぶんをドライブに回してしまおう。

そんなわけで久しぶりのドライブに出掛ける。今回は埼玉の飯能の山奥と小川町あたりを探検。まず向かったのは飯能。R299と並行に走るような道路があり、地図上ではR140の浦山ダムの脇に出るような感じになっている。一体どんな道なのだろう。かねてより気にはなっていた。

山の中の細道だから当然暗く狭い。でもそんなのは慣れっこになっているのでビビッたりすることはない。探検家は勇敢なのだ(笑)

地名では白岩というところに来た時、何やらモノモノしい音が聞こえてきた。音のするほうへ進んでみると、人っ子ひとりいないハズの山奥にナント工場があるではないか!しかも深夜なのに機械音がグイングイン唸っている。見た感じはセメント工場だが実は石灰石の採掘所らしい。

帰宅してから調べてみたら「JFE ミネラル 武蔵野鉱産所」という企業のようだ。唸る機械の音に混じって、時折プシューというブローオフ・バルブのような音が断続的に鳴る。何となく機械が生きているようにも感じて、ちょいと不気味。

不可解なのはナビゲーションではその先にも道があり、鳥首峠を経て浦山ダムに通じている。ナビは「ほら、行けるよ」と誘っているが、それ以上クルマは進めない。どうやらハイカーのための小道らしい。仕方なく引き返し、途中クルマが入れそうな道に行こうとしたら「落石注意」の看板が行く手をさえぎった。うーん、確かにこれはちょっとヤバイかも。泣く泣くR299に抜ける道へ。

出た場所は正丸トンネルの秩父側の入り口付近。そして秩父方面に向かう。そこからR140にぶつかったところを右折してそのまま花園インターで帰ろうと考えたが、ちょいと物足りない。そこでR140にぶつかる手前を右折して定峰峠から嵐山方面に行くことにした。

タイトなカーブを楽しみながら定峰峠にさしかかったところで林道があるのを発見。林道といっても、ちゃんと舗装されているので行けそうだ。ならば行ってしまえ。それにしてもこんな時間に真っ暗な定峰峠のベンチでカップ酒を酌み交わす2人組の怪しいオヤジは何なんだ? さすがにこれには度肝を抜かれた。

この林道は十分走行可能だ。しばらく行くと分かれ道が出現。そう、ここは白石峠なのだ。なんだよ、ここでも「落石」の文字が…。まあいいや、クルマが通れるのならゴーゴーである♪

そんなこんなで小川町の駅前に到着し、あとはR254を使って帰宅。今回の走行距離は180km。
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性善説…かなあ

2006-04-20 10:23:34 | 脳みその日常
「おかあさ~ん、は~や~くぅ~」(大声で)
「は~い、は~い、ちょっと待ってねぇ~」(遠くで母親の声)
「んもぉ~」(がっかりする子供)

家の前は幼稚園の通園路。毎朝決まった時間に上のような会話が聞こえてくる。なんとも微笑ましいやりとりだ。

こんな卑近な例を前提にして語るのは無謀かとも思うが、子供のこうした無邪気な発言を聞いていると人間はそもそも性善説に基づいているのではないかと思えてくる。

幼稚園児の脳みそのレベルなんて動物よりちょっと賢い程度。まだ知的レベル云々の段階ではない。もう少し大きくなると知恵がついてくる。すると良い意味でも悪い意味でも賢くなる。

つまりこの段階では知性が邪魔をして人間本来の純粋さが失われていることを意味する。小賢しい子供になると、すでに「計算すること」を身につけていたりするからタチが悪い。後天的な「悪」を得てしまった結果がそのような形で出るのだろう。

自らの記憶と年長者の話を総合すると、大人たちにとってワシは扱いにくい子供だったようだ。幼少の頃よりヘンに小賢しかったため、いわゆる子供らしいところはなかったそうである。また妙な羞恥心があったのか、上の会話のように大声で肉親を呼ぶなんてことは絶対にしなかったし、できなかった。

もっとも、理詰めで話をされればちゃんと理解したので、その意味では扱いやすい子供だったのかもしれない。でも、そんな小賢しい子供は個人的には好きではない。かつての自分をそこに見るからだろう。だからなのか無邪気にキャーキャー叫ぶ子供は嫌いではない。なんかね、それが本来の子供の姿だと思うから。あくまで個人的な意見だけど。
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柳の下を探す音楽産業

2006-04-19 13:18:54 | 音楽あれこれ
つい先日、とある会社にひとつの企画をもちかけた時の話。ワシが提案したのは従来にない切り口の企画だった。もちろんこの時提示したのは具体的なリサーチを経たデータに基づくものではないし、諸経費などを算出したものでもない。いうなれば新商品に関するひとつのアイディアを提案した程度の話である。

担当者は最初「なるほど、それは面白いかもしれませんね」と目を光らせた。そこで、こちらはその企画の構想をある程度説明する。担当者は「うんうん、面白い」と相づちを打つ。これはイケるかなと、さらに話を進めようとした時、担当者の一言でこちらはすっかり萎えてしまった。

「ただ、前例がないですからねえ」

彼の説明によれば、事情はこうだ。すでに企画モノでヒットしているのと同様な商品ならまだしも、どこもやったことがない企画の商品というのはなかなか企画として実現しにくいのだとか。いうなれば企画を実現するにカケをしたくないというのである。

なるほど、そりゃそうかもしれんな。鼻息荒く商品を作ったところで、万一それが当たらなかった場合、企業にとっては相当な損失になるわけだし。理屈はわかるし、担当者の立場も理解できる。

しかし、こうした保守的な考え方こそが音楽業界の低迷する一因でもあるのだ。それを当事者たちが全く気づいていないのは驚くべきことであり、だからダメなんだよ。確かに未知なるものへチャレンジするには当然リスクはつきもの。でもそれはギャンブルと同じで、その商品が当たった際のリターンは想像以上に大きい。

「でも博打はしたくない」と彼らは言うだろう。違うって。仮にリスクが想定されるにしても、効果的な宣伝を打つとかパッケージのデザインを吟味するなど、あらゆる工夫すれば企画そのものが斬新なだけに当たるんだっての!なんでこんな簡単なことがわからないかねえ。

音楽産業ってのはさ、そもそも夢を得る商売。ありきたりなモノで儲けようとしたって、消費者にとっては目新しく感じられないんだから食いつくわけがない。だから商品は売れなくなり、結果リリース数も減り、負のスパイラルへ追い込まれるのだ。

企業努力ってのはさ、ただリストラして人員削減すれば済む問題ではないのだ。今までにない発想で斬新な商品を提供すること。これを最優先に考えれば能力ある人間をリストラする必要はなくなるはずなんだけどね。経営者にとってのイエスマンばかり会社に残してもロクなことにはならない。
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便宜的な分類作業

2006-04-18 18:20:46 | 脳みその日常
このブログのアクセス・ログを見ると、たまに異常な数値を示していることがある。おそらく初めてここを訪れた方がこれまでの文章を片っ端から読むせいなのだろう。有り難い気もする反面、こんな便所の落書きなんて読んでも時間の無駄なのにと気の毒に思ったり…。

訪問される方の関心が何なのか、こちらではわからない。ネットで調べてみると相変わらずクラシック音楽関係のブログにリンクされているようなので、そこからやってこられる方もいるだろう。しかし当ブログは必ずしも音楽のことだけを書いているわけじゃない。となると、たとえば音楽の記事が読みたくて訪れた方は目を皿のようにしてお目当ての記事を探すハメになる。それではあまりにかわいそうだ。やはり読者の便宜を図らなければなるまい。というわけで、睡眠時間を削ってこれまで書いた記事の分類作業をすることにした。

それにしても、よくもまあ700件以上も飽きもせずブログを書いているものだなと自分のことながら感心する。いやいや、感心している場合じゃない。とっとと作業に取りかからねば…。

大まかな分類は終わった。もちろんすべての文章に目を通したわけじゃないので、きちんと分類されていない記事もあるかもしれない。ま、そのへんは追々修正していくことにする。じゃ、おやすみなさい…って、もう夕方じゃねーか。
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トッホの交響曲全集

2006-04-17 07:05:44 | CD/DVD
最近はもう午前4時半すぎになると空はうっすら明るい。考えてみればあと2ヶ月ほどで夏至だもんねえ。時間の経つのは本当に早いなあと思うこの頃。

さて、エルンスト・トッホ(1887-1964)の交響曲全集を見つけたので購入。トッホはオーストリアに生まれたが、ユダヤ系だったため1935年にアメリカへ亡命した。作曲活動はもちろんウィーン時代から行なっていたが、最初の交響曲を書き上げたのは1950年。つまり63歳の時の作品というわけだ。以後1964年に亡くなるまで全部で7つの交響曲を完成させている。今の感覚でいえば定年を迎えてから次々と大作にチャレンジしたことになる。そう、まさに怒濤の快進撃だ。

作曲するにはもって生まれた才能のほかに、相当の気力と体力を必要とする。最後の3つの交響曲なんて、もう半分カンオケに足が入っちゃってる時に作曲したんだから驚かざるを得ない。《第5番》と《第6番》が1963年、そして《第7番》が死の年に書かれたんだからねえ。それだけからしても常人では考えられないパワーがこの人にはあったのかとも思う。

トッホの作風は《第1番》から《第7番》までさほど変化があるわけじゃない。晩年のたった14年ほどの間に劇的な変化を求めるほうが無理というもの。まあ、モロ前衛という感じではない。比較的聴きやすい作品といえるだろう。逆に言うならこれといった特徴がないのだが…。

今回入手した3枚組のセットはかつて単発で発売されたものをまとめたもの。録音年は1995年から2002年の間である。おそらく単発ものの解説をそのまま流用したのだろうが、同梱のブックレットも3冊ある。このうち、《第1&4番》と《第2&3番》の解説を担当しているコンスタンツェ・シュトラッツは読み応えのある文章で感心するが、残りの《第5~7番》の解説を書いているローレンス・ヴェシュラーのはいただけない。少なくとも作品についてほとんど触れていないからである。まあ、どこにでもクソなライターはいるので今さら驚かされないけれど。

興味のある方は聴いてみてはいかがだろうか。
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ふと脳みそに浮かんだこと3つ

2006-04-16 07:22:11 | 脳みその日常
【地方へ取材に行きたいなあ】 

ライターをしているといってもワシはジャーナリストじゃない。だからあちこちに行って取材することはない。原稿依頼の性質上、仕事は家の中でできてしまうから。でも、たまには地方の音楽イベントなどを取材したいなと思う。

出張の仕事は取材することも楽しいけれど、一番の楽しみはその場所で飲み食いすることだ。朴訥な人々との触れ合いと旨い酒や肴を堪能すること。何とも言えない充実した気分にさせてくれるから出張仕事は好きだ。たまにはそんな仕事がしてみたい。

【中距離ドライブ計画中】

そんな願望があるからか、近々時間をかけてドライブすることを考えている。ただしこの計画はひたすら走るというもの。ルートの候補はいろいろある。理想は九州までの往復なのだが時間と費用の面でちょっと無理。若い頃のようにヒマであれば、たった一杯のラーメンを食うために博多まで行くのだが、さすがにもうそこまでの元気はない。なので日帰りで実行可能な距離としては700~800kmぐらいと睨んでいる。

さあて、いつ出掛けようか…。同乗を希望する方、います? たぶん余裕で10時間ぐらいは座りっぱなしになると思いますが。アハハ。

【で、でましたよ…】

先日、深夜にドライブしていたら久々に見てしまった。何がって、アレですよ、アレ。場所は都内の某高級住宅地。信号のあるT字路で停車していたら目の前で何か動くものが…。最初はあまり気にしていなかったのだが、その動きが尋常じゃないので面倒くさいとは思いつつも動くものに焦点を合わせる。面倒くさいというのはすでに正体がわかっていたから。

すると、物凄い数の人が目の前の家の玄関に次々と入って行くのだ! こちら側の信号が青に変わったけれど、後続車がいなかったのでしばらく見続けていた。その人数を正確に数えたわけじゃないが、ゆうに100人は超えていたと思う。もちろん時間が時間なだけに玄関のドアは開いていない。ピッタリと閉まっている。一体この家には何があったんだろうか。取材してみたいという衝動に駆られたが、何せジャンルが違うからねえ…。
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在家坊主の話

2006-04-15 11:47:00 | 脳みその日常
近所に個人経営の文房具店がある。大きな声では言えないが、ここでワシは学生時代に大学の図書館から借りた楽譜をコピーしまくった。何せ当時はコピー1枚10円の時代に、この店では8円でできたからである。もちろんこの時の山のようなコピー譜が現在どれだけ仕事に生かされているかは言うまでもない。

当時店は老夫婦が経営していた。おばあさんは温和で優しかったが7年前に病気で他界。その後、おじいさんがひとりで店を切り盛りしていた。今年88歳になるこの人、戦時中は満州に配属され、筆舌に尽しがたいほど苦しい目に遭ったという。戦後は民間のバス会社に就職し、定年まで勤務。

ワシは老夫婦とはなぜかウマが合い、コピーに行くたびに彼らの話を聞いた。特におじいさんとはクルマや道路の話で花が咲き、汗まみれでコピーしたあと汗が完全に引くまで長話をした。現在その店は次男が受け継ぎ、父親は時々店に出る程度になった。ちなみに現在この店はA3までのモノクロ・サイズのコピーなら、ナント、1枚7円に値下げされている。カラー・コピーだって1枚30円!

さて、その次男ともワシは話をする。ところが最近まで彼が店を受け継ぐ前のことは全く知らなかった。たまたま昨日店に行き、話をしていたら以前の仕事の話になる。聞いて驚いた。彼の前職は坊さんだったのだ。それも真言宗の総本山である高野山で修行したという。

こう書くと、さぞかし禁欲的で厳格な生活をしていたんだなと思うかもしれない。確かに彼は高野山の金剛峰寺に「住み込み」のような形で修行していた。しかし驚くなかれ、宿泊施設の中にはカウンター形式の「Bar」があるそうな。何だよそれ、俗っぽいよなあ。これじゃあ、高野山を興した空海も彼岸から嘆いていることだろう。いや、カウンターの向こうでツマミを用意しながら、

「これでも食うかい?」

なんてオヤジ・ギャグはさすがに言わんだろうけど。

坊さんの業界はまるで開業医と勤務医のようなもの。つまり実家が寺だったり、檀家数が200以上の寺を任される住職ならば生活はウハウハなのだとか。しかし特定の寺の住職でない、いわゆる「フリー」の坊さんは生活するのも苦しいらしい。なるほど、どの世界もフリーでやっていくのは大変なのか。わかるなあ、その気持ち。

苦労した人の話は聞いていて驚くことばかりだ。次男はフリーで活動していたため、あちらこちらから「お呼び」がかかり、様々な業種の人と知り合いになるのだという。知り合う人がすべてカタギならワシも驚かない。

しかしフリーの坊さんということで、カタギでない人々からお誘いを受けることも多いのだとか。つまりカタギでない人たちの葬儀はなかなかマトモな僧侶は受けてくれない。そうなるとフリーの坊さんが呼ばれることになる。こうしてカタギでない人々と顔見知りになるというわけだ。だから彼は今でも自ら進んで歌舞伎町などには行かないそうだ。そういえば、亡くなったポール牧とも彼は歌舞伎町でよく飲んだらしい。その時に「指パッチン」をしてくれたかは不明だが。

最後にどうでも良いネタを2つほど。

近年ではあまり行なわれていないが、カタギでない人たちは何かあればよく小指をつめた。実はこの「儀式」は仏教に由来するそうだ。昔の僧侶は何かの不義を犯した時、その戒めのために小指を歯で噛み切ったのだそうである。これが本当であれば、「なんだ、指詰めはマネじゃん」ということになる。この世界も仏教の影響を受けているというわけか。

もうひとつ。坊さん、特にフリーの人が必ずといってよいほど取得している資格。それは宅地建物取引主任者の資格である。不動産業を営みながらフリーで活動する坊さんが多いのはそういう理由だ。なぜ不動産業なのか。それは土地を売却したり地上げする際に彼らは伝家の宝刀である「宗教法人」の特権を生かすのである。つまり商売する土地をいったん宗教法人所有とするのだ。そうすれば税金はかからず土地を売却することが可能というわけ。

これが現実なのか…。うーん、なんだかなあ。
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安全運動による別の側面

2006-04-14 05:04:58 | 脳みその日常
郵便物を出しに行こうと出掛けたら、うっかり100kmほどドライブ。ま、いつものことだ。気分転換だと思えば何でもない。

それにしても、このところ危険な運転をするドライバーによく出くわす。先ほども片側2車線の幹線道路で危うく側面衝突されるところだった。一定の速度で流していたら、後方から白いワゴン車がやたらと車線変更を繰り返しながら進んできた。

なぜそれほど急がなければならないのか。理由は知らない。また、こういうバカに限ってウインカーを出さず、いきなり車線変更するからタチが悪い。嫌な予感はしたが、とりあえずさっさと行ってくれればいいと思っていた。すると、コイツ、並行して走っていたワシのほんの少し前に出た瞬間、車線変更してきやがった。もちろん接触を回避したのちホーンを長押ししてやったけどね。

深夜に走るドライバーすべてがこんな荒っぽい運転をしているわけじゃない。安全走行する奴のほうがはるかに多いはずだ。とはいうものの何かみなイラついて運転しているような感じがする。

考えているうちにハタと思い当たった。そうか、今は春の全国交通安全運動の真っ最中なんだよな。他の地域は知らないが、少なくとも都内の幹線道路では昼夜を問わずパトカーや白バイがウロウロしている。まるで厳戒令でも発令されたかのよう。なので、どのドライバーも不本意ながら大人しく走らざるを得ない。

普段なら70~80km/hほどで走る道でも、前方にパトカーが40km/hぐらいでノソノソ走っていたらもう気分はブルー。「カンケーネーヨ」とパトカーをブッちぎるわけにもいかない。誰だって速度違反の切符なんてもらいたくないんだし。どのドライバーもそう思うから道路はいつの間にかパトカーを先頭にノロノロ運転になる。するとイラつく奴が出てくるのもの当然。

交通安全運動自体は悪いとは思わない。それによって悪質なドライバーが多数検挙されるのなら。しかしその一方でフツーに走っているドライバーにまで心理的な影響があるのもまた事実なのだ。

通常、制限速度を多少超えたスピードで流れる道でも、フツーに運転していればよほどのことでない限り事故なんて起きない。ドライバーたちはそうしたスピードで流れるのがフツーと思っているから。ところが安全運動期間中になるとドライバーたちは、突然速度厳守という「慣れないリズム」を強いられることになる。先ほど「イラついて運転しているような感じがする」と書いたのは、たぶんそれなのだろう。

法定速度は確かに守らなければならない。しかし速度を遵守するあまり、ドライバーにストレスが溜まり、それが原因で重大事故が発生することだってあるのだ。速度、速度とバカのひとつ覚えのように規制することだけが安全に繋がるわけではない。具体的な代案は思いつかない。でも、なんていうのかな、法規一点張りでないもっと柔軟なやり方があるような気がする。
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