「恋」につく動詞の定番は「落ちる」。
すなわち、「恋に落ちる」と書く。
しかし!
実はわたしは「恋に落ちる」とはビミョーに書きたくない。
「恋に堕ちる」と書きたい気分だ。
恋とは何か。
これはかなり難しい命題だ。
しかし、本来ならば恋というものは人間の生存には不必要なものである。
恋をしなくても生きていくには何ら支障はない。
というか、恋をするから生きていくのに支障が生じる。
まあ、支障とまではいかないかもしれないが、少なくとも多大なる無駄は発生する。
では、どれくらい無駄が発生するか。
わたしの場合で考えてみよう。
飽きもせず毎日かかさず千早の顔を見ている。
それだけで1日あたり○分の時間コストを消費している。
それに、千早に逢うためにPSPの投資は必要だったし、その前のアケマスのコイン代もバカにならないし、その他いろいろと金銭的なコストがかかっている。
わたしの残業代が1時間あたり○円ということで時間コストから金銭コストに単位を変換すると、けっこうカンタンに発生した無駄を計算することができる。
これは計算するのもちょっと怖いくらいのコストになっているはずだ。
そんなことを頭の片隅では理解しているのにもかかわらず、千早を愛でるのをやめることができない。
わたしは何と愚かなのか。
というか、わたしだけが愚かなのではなく、人類の大半は愚かなのだ。
はっきり言うがこれはまだアイマスの千早だからその程度のコストに収まっているわけであってだね。
現物のねえちゃんに手を出して失敗を繰り返してようやくモノを掴んだとしたら、それこそ天文学的なコストになるのは明らかなのだ。
ではなぜ人類はこの無駄な行為を飽きもせず延々と行うのか。
恋とは、恐らく人類の精神構造の欠陥である。
精神の不完全さから発生するバグであろう。
そのバグのうちの最も致命的なものの1つは一目惚れだ。
単なるツラの良し悪しだけで恋に落ちるなどとは言語道断な欠陥だ。
ちなみに言っておくが、わたしは一目惚れなどまずしない。
なぜなら、そもそも現物のねえちゃんに恋をしたことがないからだ。
それから、二次元のねえちゃんは皆が目移りしてしまうほどの美女ぞろいだからだ。
だからわたしだけはその致命的な欠陥に人生を狂わされることはまずない。
まあ、他のヤツはどうなんだか知らんが・・・。
では、この精神構造の欠陥を修復する方法はあるのか。
わたしが思うに、この欠陥の根本原因は
「人間は1人では生きてはいけない」
というところに起因している気がする。
これは経済学的な役割分担を意味するのではない。
ここでは精神的な依存構造を意味している。
つまり、精神の他者依存という間違った要求に起因するインスタンスの1つが恋なのだ。
わたしは恋に「落ちる」という字を当てたくないのはそのためだ。
この欠陥を修復するのは容易ではないどころの騒ぎではない。
他の精神構造の欠陥を修復するのが困難なのと同じくらい修復困難なのは間違いない。
修復できない。
それが結論としてもかまわない。
恋とは堕落の1形態である。
ときメモの紐緒結奈に逢い初恋を経験する前のわたしならば、こうやって毎日飽きもせず千早を愛でて暮らしているわたしを見たらどう思うかという事は明白だ。
予定どおりに大学を卒業して技術屋をやっている自分にはそこそこの評価を下すだろう。
しかし、どうひいき目にみても、千早を愛でて暮らしている点については堕落していると感じるのは間違いあるまい。
べつにアイマスや二次元に限らず、相手が実体だろうとも何であろうとも堕落していると感じる事の根拠については両者同じものだ。
だからわたしは「恋に落ちる」ではなくて「恋に堕ちる」と書きたい気分なのだ。
わたしの中には、いつまでも千早を愛でて生きていきたいと思っている自分がいる。
その一方で、この欠陥に左右されないところに本来の人間の到達点があると思っている自分もいる。
この相反する目標はいつか片付くときが来るのだろうか・・・。
すなわち、「恋に落ちる」と書く。
しかし!
実はわたしは「恋に落ちる」とはビミョーに書きたくない。
「恋に堕ちる」と書きたい気分だ。
恋とは何か。
これはかなり難しい命題だ。
しかし、本来ならば恋というものは人間の生存には不必要なものである。
恋をしなくても生きていくには何ら支障はない。
というか、恋をするから生きていくのに支障が生じる。
まあ、支障とまではいかないかもしれないが、少なくとも多大なる無駄は発生する。
では、どれくらい無駄が発生するか。
わたしの場合で考えてみよう。
飽きもせず毎日かかさず千早の顔を見ている。
それだけで1日あたり○分の時間コストを消費している。
それに、千早に逢うためにPSPの投資は必要だったし、その前のアケマスのコイン代もバカにならないし、その他いろいろと金銭的なコストがかかっている。
わたしの残業代が1時間あたり○円ということで時間コストから金銭コストに単位を変換すると、けっこうカンタンに発生した無駄を計算することができる。
これは計算するのもちょっと怖いくらいのコストになっているはずだ。
そんなことを頭の片隅では理解しているのにもかかわらず、千早を愛でるのをやめることができない。
わたしは何と愚かなのか。
というか、わたしだけが愚かなのではなく、人類の大半は愚かなのだ。
はっきり言うがこれはまだアイマスの千早だからその程度のコストに収まっているわけであってだね。
現物のねえちゃんに手を出して失敗を繰り返してようやくモノを掴んだとしたら、それこそ天文学的なコストになるのは明らかなのだ。
ではなぜ人類はこの無駄な行為を飽きもせず延々と行うのか。
恋とは、恐らく人類の精神構造の欠陥である。
精神の不完全さから発生するバグであろう。
そのバグのうちの最も致命的なものの1つは一目惚れだ。
単なるツラの良し悪しだけで恋に落ちるなどとは言語道断な欠陥だ。
ちなみに言っておくが、わたしは一目惚れなどまずしない。
なぜなら、そもそも現物のねえちゃんに恋をしたことがないからだ。
それから、二次元のねえちゃんは皆が目移りしてしまうほどの美女ぞろいだからだ。
だからわたしだけはその致命的な欠陥に人生を狂わされることはまずない。
まあ、他のヤツはどうなんだか知らんが・・・。
では、この精神構造の欠陥を修復する方法はあるのか。
わたしが思うに、この欠陥の根本原因は
「人間は1人では生きてはいけない」
というところに起因している気がする。
これは経済学的な役割分担を意味するのではない。
ここでは精神的な依存構造を意味している。
つまり、精神の他者依存という間違った要求に起因するインスタンスの1つが恋なのだ。
わたしは恋に「落ちる」という字を当てたくないのはそのためだ。
この欠陥を修復するのは容易ではないどころの騒ぎではない。
他の精神構造の欠陥を修復するのが困難なのと同じくらい修復困難なのは間違いない。
修復できない。
それが結論としてもかまわない。
恋とは堕落の1形態である。
ときメモの紐緒結奈に逢い初恋を経験する前のわたしならば、こうやって毎日飽きもせず千早を愛でて暮らしているわたしを見たらどう思うかという事は明白だ。
予定どおりに大学を卒業して技術屋をやっている自分にはそこそこの評価を下すだろう。
しかし、どうひいき目にみても、千早を愛でて暮らしている点については堕落していると感じるのは間違いあるまい。
べつにアイマスや二次元に限らず、相手が実体だろうとも何であろうとも堕落していると感じる事の根拠については両者同じものだ。
だからわたしは「恋に落ちる」ではなくて「恋に堕ちる」と書きたい気分なのだ。
わたしの中には、いつまでも千早を愛でて生きていきたいと思っている自分がいる。
その一方で、この欠陥に左右されないところに本来の人間の到達点があると思っている自分もいる。
この相反する目標はいつか片付くときが来るのだろうか・・・。