海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

沖縄戦「集団自決」訴訟という虚構 1

2009-03-27 23:55:02 | 「集団自決」(強制集団死)
 3月26日は64年前に米軍が慶留間島、座間味島に上陸し、住民の「集団自決」(強制集団死)が起こった日である。27日付沖縄タイムス朝刊には、今年も座間味島で慰霊祭が行われたことが報じられていた。そして、27日は渡嘉敷島に米軍が上陸し、翌28日に「集団自決」が起こっている。28日には渡嘉敷島でも慰霊祭が行われる。
 28日はまた、大江・岩波沖縄戦裁判の一審判決が出て1年でもある。去年のこの日は大阪地裁の傍聴席にいて、緊張ではりつめた雰囲気の中、深見裁判長の判決を聞いた。07年9月29日の沖縄県民大会以来、同裁判への関心が県内だけでなく全国的に高まり、大江・岩波側勝訴の報に座間味島、渡嘉敷島をはじめ沖縄中で喜びの声が上がったのを思い出す。
 ところで、裁判から1年を意識してだろう、秦郁彦『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』という本が書店に出ている。読んでみると、同裁判の控訴審判決で「虚言」と断じられた「宮平秀幸陳述書」が収録されている。藤岡信勝氏による「宮平秀幸証言の画期的意義」という解説も載っているが、恥も外聞もないとはこのことだろう。
 ただ、注意しなければならないのは、嘘も100回つけば真実になる、と言われるように、それがくり返し大量に出回ることによって、宮平証言がしだいに定着化されていくことだ。
 宮平秀幸証言やそれを宣伝する藤岡信勝氏のデタラメさについては、このブログでも何度も書いてきた。以下に『世界』09年2月号に発表した〈沖縄戦「集団自決」訴訟という虚構〉を載せて、宮平証言が宮平氏と藤岡氏の合作による「虚言」でしかないことを改めて確認しておきたい。本文が彼らへの批判の一助となれば、と思う。
 
 沖縄戦「集団自決」訴訟という虚構

 大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審において大きな話題となったのが、控訴人側が出した宮平秀幸新証言であった。結論から言うなら、この〈秀幸新証言〉は判決において〈虚言〉と断じられた。このような〈虚言〉を大々的に取り上げ、宣伝してきた控訴人側の弁護団、藤岡信勝氏や秦郁彦氏をはじめとした支援者、『正論』『WiLL』『諸君』『世界日報』『産経新聞』などのメディアは、自らの不明を恥じて反省すべきであろう。そうでなければ、沈黙して逃げずに、〈虚言〉ではないと具体的に反論すべきであろう。
 もっとも、反論したくてもできないであろうが。それほど〈秀幸新証言〉は矛盾と混乱に満ちたものなのである。にもかかわらず、控訴審で逆転判決を可能とする新証言であるかのように持ちだしてきた控訴人側弁護団や藤岡氏らは、〈虚言〉であるが故の矛盾と混乱に対し強引な辻褄を合わせを試み、嘘に嘘を重ねた揚げ句、破綻をきたしたのであった。
 〈虚言〉までも一つの手段として使い、沖縄戦の史実を歪曲しようとする控訴人側の追求は、〈秀幸新証言〉にとどまるものではない。梅澤元隊長や故赤松元隊長の証言・手記、知念朝睦証言、皆本義博証言、照屋昇雄証言など、控訴人側が出してきた証言や手記の多くが似たようなものであり、〈虚言〉とまでは断じられなくても、その真実性や信用性が疑われ、判決では否定的評価を下されたのである。ここでその全てについて触れることはできないが、〈秀幸新証言〉の検証を通して、控訴人側の〈虚言〉と虚構の問題を考えてみたい。

[ 〃偶然〃の出会い ]

 二〇〇八年一月二六日、座間味島をツアー旅行中であった藤岡信勝氏や秦郁彦氏ら一行が「昭和白鯱隊之碑」を訪れたところ、そこで同島在住の宮平秀幸氏に出会ったという。この〃偶然〃の出会いは、藤岡氏らにとって大きな意味を持っていた。大江・岩波沖縄戦裁判で原告の梅澤裕氏が「陳述書」や本人尋問で供述したことを、間近で目撃したという人物が座間味島から現れたからである。ちなみに、梅澤氏は以下のように記した「陳述書」を裁判所に提出していた。
 〈問題の日はその3月25日です。夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。「いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。」「老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。」「就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。」〉
 〈私は5人に毅然として答えました。「決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。」と。また、「弾薬、爆薬は渡せない。」と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰っていきました〉。
 この「梅澤陳述書」に対して、座間味村の幹部らと同行していた宮城初枝氏は、異なった事実を証言している。初枝氏の手記「血ぬられた座間味島」によれば、座間味村の助役・兵事主任・防衛隊長を兼任していた宮里盛秀氏が〈「もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」〉と申し出たのに対し、〈隊長は沈痛な面持ちで「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と、私たちの申し出を断ったのです〉という(引用は宮城晴美著『母が遺したもの』新・旧版三九頁より)。
 初枝氏の手記では、梅澤隊長は「弾薬をください」という助役の申し出を断ってはいるが、「玉砕」を止めてはいない。ましてや「自決するでない」「壕や勝手知った山林で生き延びて下さい」とも言っていない。「梅澤陳述書」では、「自決」を止めたにもかかわらず、それを無視して村の幹部らが勝手に「集団自決」を行ったことになっているが、初枝氏の手記とはその点で食い違っているのである。
 これまで三月二五日夜の面会時に何があったかを証言できる者は、梅澤氏と初枝氏の二人しかいなかった。そこに宮平秀幸氏という新たな証言者が現れたのである。欣喜雀躍とした藤岡氏ら原告側支援者は、〈秀幸新証言〉を大々的に宣伝する。
 〈この新証言は二月十六日にチャンネル桜で放映され、二十三日付産経新聞が独自取材でスクープし、二〇〇八年三月一日発売の雑誌『正論』四月号に藤岡が、同じく『諸君!』四月号に鴨野がレポートを書いた。世界日報は三月三日と八日の紙面で詳細に報道した。しかし、沖縄のメディアは黙殺を決め込んだ。/そこで、三月十日、宮平は沖縄県庁の記者クラブで記者会見を行い、口頭で話すとともに「座間味島集団自決の『隊長命令』について」と題する文書をまとめて発表した〉(藤岡・鴨野〈沖縄タイムスの「不都合な真実」〉『WiLL』〇八年八月号緊急増刊・一三五頁)。
 一審判決が三月二八日に迫るなか、原告側支援者・メディアらの必死な様子がうかがえる。しかし、裁判はすでに二〇〇七年十二月二一日に結審しており、藤岡氏らの宣伝が判決を左右するはずもなく、一審の大阪地裁は原告の請求を退け、梅澤氏の証言に以下のような判断を下したのであった。
 〈原告梅澤の供述等は、初枝の記憶を越える部分について、信用し難い〉(一七六頁)。
 当然のことながら、控訴審においてこの判断をひっくり返し、「梅澤陳述書」が真実であることを立証して逆転勝訴に導くことを狙い、〈秀幸新証言〉はさらに大々的に宣伝されるはずであった。ところが、予想に反してというか、予想通りというか、藤岡信勝氏をのぞいて、しだいに〈秀幸新証言〉を取り上げる者は少なくなり、騒ぎは尻すぼみになっていくのである。

[ 秀幸氏の過去の発言 ]

 実は〈秀幸新証言〉が「チャンネル桜」で放映され、鳴り物入りで宣伝され始めた直後から、インターネット上では秀幸氏が過去に行ってきた証言が次々と明らかにされ、食い違いや矛盾が指摘されていたのであった。
 秀幸氏は『小説新潮』一九八七年一二月号に掲載された本田靖春氏のノンフィクション「座間味島一九四五」や、一九九二年制作のビデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」(記録社)などで自らの戦争体験を語っていた。それらでは三月二五日の夜は家族と一緒に行動していたと語っていて、梅澤隊長と座間味村幹部らの面会を目撃したとは一言も語っていないのである。また、『座間味村史・下巻』には秀幸氏の母・貞子氏の証言が載っているが、そこでも秀幸氏は家族とともに行動していたと語られている。
 それだけではない。秀幸氏の証言は初枝氏や梅澤氏の証言とも食い違っていた。秀幸氏は、本部壕を訪ねたのは座間味村の三役だとして、その中には野村村長もいたと語る。しかし、野村村長が同行したことは初枝氏や梅澤氏の証言には出てこない。先に見た「梅澤陳述書」では、助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、それと宮平(宮城)初枝の五人であったとされ、初枝氏の証言もその点では一致している。
 野村村長も来ていたとなれば新事実となるが、当の梅澤氏はそれを強く否定しているのだ。前出の『正論』四月号に掲載された〈集団自決「解散命令」の深層〉というレポートで、藤岡氏はこう記している。
 〈二月六日、私は梅澤と面会した。三月二十五日夜の村幹部の顔ぶれを改めて尋ねると、手記に記載したとおりの答えが返ってきた。そこで村長も居たのではないかと質問したところ、梅澤は強く否定した〉(二二八頁)。 そればかりではない。同レポートには〈なお、梅澤は本部壕の場面に宮平がいたことの記憶がない〉(二三一頁)という一文もある。初枝氏の手記にも、秀幸氏が本部壕にいたとの記述はない。
 以上のことを見れば、まともな思考の持ち主なら〈秀幸新証言〉の怪しさに気づきそうなものだ。実際、控訴人側の弁護団や支援者のなかでは、疑問の声が出ていたのではないか。それで藤岡氏以外にはだんだん触れなくなったのだろう。控訴審判決文にはこうある。
 〈なお、控訴人ら訴訟代理人は、期日前には、当審で宮平秀幸の証人調べを求めるとしていたが、結局、証人申請はなされなかった〉(二四〇頁)。
 徳永信一氏ら控訴人側の弁護士達も、さすがに秀幸氏を証言台に立たせるのはまずいと判断したのだろう。
 一方で〈秀幸新証言〉にのめり込み、その真実性を証明しようと躍起になったのが藤岡氏であった。三月二五日夜のことを証言した秀幸氏本人の「陳述書2」は九月一日付で裁判所に提出されている。それは控訴審結審のわずか八日前である。それに先立つ七月二八日と八月二八日の二度にわたり藤岡氏は「意見書」を提出している。それは〈秀幸新証言〉が母・貞子氏の証言や本人の過去の証言と食い違っていることについて、藤岡氏が独自の解釈を試み、辻褄を合わせようとしたもので、秀幸氏の「陳述書」だけでは自信がなかったことがうかがえる。この「藤岡意見書1・2」は自由主義史観研究会のホームページで読むことができるが、その強引な論理展開には驚かされる。
 例えば、「意見書1」において藤岡氏は、本田靖春「座間味島一九四五」に書かれた秀幸氏の過去の証言と〈新証言〉との違いについて、秀幸氏の独特の話し方について理解していなかったが故に、本田氏は聞き取りを誤ってしまったのだと説明する。
 〈秀幸は場面を描写的に再現する語り方をする証言者である。極限状況の中での肉親の体験は、自分の体験と同じである。秀幸は、自分の直接体験であるかのように伝令が壕に来たときの家族の体験を語ったのである。/秀幸の話し方にはこうした特徴がある反面、時刻についての記憶は揺れがあり、曖昧である〉(一七頁)。
 〈また、強く印象に残っていること、自分が是非語りたいと思っていることが、文脈ヌキに語られるという傾向も強い。秀幸の取材を始めた当初、あまりにもビビッドに語られるので、私も彼がその場にいたのだと錯覚した経験をもっている。時間の前後関係も、二十五日のことなのか、二十六日のことなのか間違って理解していたということがあった。私は一月以降、電話での会話を含めて合計百時間をはるかに超えるほどの会話を秀幸と交わしている。だから、どの話はどの時点に位置づくのか容易に理解できるようになった。いわば「宮平語」にかなり通暁したわけである〉(同)。
 秀幸氏の話は〈合計百時間をはるかに超えるほどの会話〉を行い、〈「宮平語」にかなり通暁した〉藤岡氏でなければ、正確には理解できないというのだ。だから、〈数時間しかこの話を聞いていない本田が、意気込んで話す秀幸の話の位置づけを誤解したとしても決して責められることではない〉(同)と藤岡氏はいう。
 このように書くことが、かえってマイナス効果となることに藤岡氏は気づかなかったらしい。極限状況における肉親の体験と自分の体験の区別がつかず、時刻についての記憶は揺れがあって曖昧であり、強く印象に残っていること、ぜひ語りたいと思っていることを文脈抜きに語るという秀幸氏の証言を、どうやって信用しろと言うのか。
 また、記録社のビデオドキュメント『戦争を教えてください・沖縄編』について藤岡氏は、座間味村村長の田中登氏の圧力によって秀幸氏が真実を語れなかったのだとし、「意見書2」でこう記している。
 〈記録社の撮影が行われたのは1992年の夏と推定されますが、その前年の1991年6月23日夕刻、大阪の読売テレビの取材陣が秀幸の家にやってきて、集団自決に関わる忠魂碑前の出来事についての証言を求めました〉〈その中で、秀幸はうっかり、しゃべってはいけないことをテレビカメラに向かって話してしまいました。それは、忠魂碑前で村長が解散命令を出したという事実です〉〈この取材後、何日か経ってから、秀幸は田中登村長に激しく叱責されました。「あんなことをしゃべっちゃいかん」というわけです〉(「二~三頁)。
 このような経緯があったので『戦争を教えてください・沖縄編』では、秀幸氏は〈新証言〉で明かした事実に触れられなかった、と藤岡氏は主張する。だが、圧力をかけたとされる田中登村長は、半年前の一九九〇年十二月一一日に亡くなっていたのである。
 控訴審の最終弁論で大江・岩波書店代理人の秋山弁護士からこのことを指摘され、続いて弁論に立った梅澤・赤松氏の代理人・徳永弁護士が、「宮平秀幸証言については藤岡意見書で語られているので…」と十秒もせずに話を切り替えたのが印象に残っている。
 これはただの事実誤認ではすまされない。ありもしない村幹部らの圧力をでっち上げるために生み出された、故・田中氏の名誉を傷つける虚偽であり、藤岡氏には深い反省が求められる。なお、藤岡氏は琉球新報〇八年一〇月二一日付朝刊の「論壇」で自らの誤りを認めているが、反省の意や田中氏の遺族、座間味村関係者への謝罪は示されていない。
 このような〈秀幸新証言〉が一審判決を覆せるはずはなかった。控訴審判決でもおなじく控訴人側の請求は退けられ、〈秀幸新証言〉には以下のような厳しい判断が下された。
 〈秀幸新証言は、それまで自らが述べてきたこととも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している〉
(二五〇頁)
 〈秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない〉(二五一頁)。
 そして、「藤岡意見書」1・2に関しても〈一方に偏するもので採用できない〉(二五一頁)という判断が下された。

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秦郁彦『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』という本 (キー坊)
2009-03-29 18:40:44
 タイトルの秦郁彦氏編著の本には、「宮平秀幸陳述書」と、藤岡信勝の「宮平証言の画期的意義」なる文章を掲載していますが、秦自身の曽野綾子との「【対談】沖縄の『悲劇』を直視する」及び、自分の文章「集団自決の真実―同調圧力に屈した裁判所」の中では、宮平秀幸についてはほとんど言及が無く、わずかに、秀幸の証人申請をしなかった弁護団に敗訴の大きな要因があると、味方の弁護士をなじっているだけです。
 宮平秀幸の過去の証言(本田ルポ・記録社のビデオ)の存在を知ったら、とても本人を法廷に立たせられないでしょう。秦はその位の事も知らなかったのか不思議です。そもそも、藤岡ら、かのグループは秀幸の過去の言動を知らずに彼をマスコミに担ぎ出したのですかね?あの地獄耳の「狼魔人・江崎孝」も知らなかったのかと、不思議に思います。
 今回の秦編著本の中では、曽野綾子との「対談」は彼らの本音が出て、面白い内容だと思います。
秦は第一審で敗れた本当の理由はわからずじまいだが、と言いつつ、原告弁護士のT氏がズボラで、準備書面提出を何時も遅らせる、法廷には遅刻してきて、裁判官の心証を悪くしたというのが真の理由ではないか、そういう低次元の判断で判決が決まった、と可笑しなことを言ってます。

 こんどの訴訟では、曽野綾子は直接関わらなかったのですが、理論的な後ろ盾となっていました。彼女は88年に「家永裁判」で法廷証言した時、「富山真順」という人物を知らない、と偽証と思われる事を言いましたが、この「対談」では、富山氏には会って話を聞いたが、取り上げるほどの内容でなかったので本に書かなかった、というような意味の事を言っています。「知らない」という前の証言はウソだったと言ってる訳です。
曽野は今回の、あわよくば「大江健三郎」を葬ろうとした裁判が負けたので、相当の痛手を受けているように思えます。「私にとって沖縄というのは、あまり触りたくない土地になってきました」「私は今はもう沖縄問題から足を洗いたいんです」などと、本音らしき事を言っています。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/sono/sono.hata2.html
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宣伝戦・情報戦 (目取真)
2009-03-30 02:09:19
秦郁彦氏は戦史の専門家ですから、宮平秀幸証言のおかしさ、それが信用できないものであることは分かっていると思います。
本部壕入口前に衛兵を置かないということがあり得ないのは、秦氏ならすぐに気付くはずです。
それを承知のうえで、宮平証言を本に収録しているということでしょう。
自由主義史観研究会のホームページで藤岡氏自身が使っているように、宣伝戦・情報戦としてこの本が出されているということだと思います。
彼らには歴史の事実を明らかにするより、自分たちの政治目的を果たすことが第一ということでしょう。
T弁護士こと徳永信一弁護士ら弁護団と藤岡・秦・江崎氏らとの対立が明らかになったのもこの本の特徴です。
最高裁で敗訴が確定すれば、あいつらのせいで負けた、という責任のなすりあいが起こるのではないでしょうか。
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