荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

脇屋義助公の廟に行き当たる

2015年06月14日 | 散文
引き続き帰省時の報告です。

引き続き、道標に従って国分寺への道を走ります。
この池の堤防上の道は車が走れる道路ではありません。

確かに故郷の道ではありますが初めて走る道で、むこうの小山の裾を巡っているようです。

道なりに走っていると、案内板がありました。
石柱には「吉野朝忠臣 従三位 脇屋義儀助公之廟」とあります。

従三位と言えば随分位の高い人ですし、吉野朝は南北朝の南朝のことかと想像しました。
が、脇屋義助って誰?
覗いてみなければなりません。

石柱脇の石段の上にお堂が見えています。



お堂の奥に墓所が見えました。

手前に説明板があります。

(説明板表示内容)
「脇屋義助公廟堂の由来 
延元元年(1336)五月、楠正成、新田義貞らの連合軍を摂津の国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。
同年六月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院党の公明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。

そこで、天皇は密かに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。
ここに尊氏が樹立した京都の北朝(公明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。
しかし戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武士が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。
そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復すべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予にくだした。

興国三年(1342)五月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(筆者注:今治の語源で「いまはる」と読みます)の浦に到着した。
しかし義助は不運にも、その直後に病に斃れ、国分寺に急逝した。享年は三十八歳であった。

この報を受けた阿波の守護細川頼春は儀助の死を好機とみて、総勢七千の大軍を率いて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。

現在の義助公の廟堂は寛文九年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。
また廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる。
今治市教育委員会」


ええ~!
こんな話知りませんでした。

改めて廟堂を見渡してみました。
讃文が記載された表忠碑があります。
その向こうに、

お墓が整然と並んでいます。



その左手(お堂の真後ろ)に瓦葺土塀に囲われたお墓がありました。

ここが脇屋義助のお墓だと思います。

(この後、すぐ近くの国分寺の境内から撮った写真です。)
正面奥の山がここに記載されている戦場です。
左側が世田山(地元では「お世田山」と尊称していました。そういう事だったのですね)、右側の山頂が平らな山が笠松山です。
両山は尾根で繋がっています。

恥ずかしながら改めて言いますが、こんな話を聞いたことがありません(たぶん、いつものように、ひとの話を聞いていなかったものと思います)。
故郷に南北朝にまつわる歴史があることを全く知りませんでした。
幼友達に尋ねたら、「太平記」で有名とのこと。
「太平記」を読んでないし、大河ドラマも見ていません・・・。

石段の参道脇には寄付者の石柱が草に埋もれて、斜めに傾いで建っています。
一番右には「東京」の地名が読めます。

遠く東京から、この忠臣たちに浄財を寄付した方がいたのです。
地元に生まれ育った者として恥ずかしい次第です。

・・・さて、引き続き「四国のみち」を走って国分寺に向かいます。
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