荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

大使館を訪ねてー49(ミャンマー、セルビア)

2017年03月21日 | 散文
「ミャンマー連邦共和国大使館」

桜がほころびかけた高級住宅街を走る御殿山通りです。

ここに大きな敷地を持ったミャンマー大使館があります。

東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家で、独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦です。
ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)です。

南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面しています。
南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接し、インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対しています。

2010年以降の日本語表記はミャンマー連邦共和国です。
通称はミャンマー、1948年から1974年までビルマ連邦、1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国、1988年から1989年まではビルマ連邦、1989年から2010年まではミャンマー連邦です。


通称は、独立以前からビルマ連邦まで一貫してビルマで、漢語(北京官話)で緬甸と表記し、日本語でも同じ表記(読みは「めんでん」)が用いられ、略語の緬も用いられました(泰緬鉄道など)。
日本軍統治(太平洋戦争)の間通称「ビルマ国」にされました。

ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされたものです。
(ウィキペディアより)


「セルビア共和国大使館」

北品川の丘の上の住宅街です。


ここにセルビア大使館があります。
近代以降、セルビアはオスマン帝国の自治公国(1817年(完全な自治権獲得は1830年)から1878年)、独立公国(1878年から1882年)、独立王国(1882年から1918年)、セルビア・クロアチア・スロベニア王国の一部(1818年から1941年)(1929年からユーゴスラビア王国に改称)となりました。
更に、ナチスに占領された傀儡国家のセルビア救国政府(1941年から1944年、ネディッチ政権とも)、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の中の社会主義共和国(1945年から1992年)、そしてユーゴスラビア連邦共和国のうちの共和国(1992年から2003年)、モンテネグロとの国家連合であるセルビア・モンテネグロ(2003年から2006年まで)と遷移してきました。

2006年にはモンテネグロとともにそれぞれ独立を宣言し、セルビア・モンテネグロは解体されました。

南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家で、かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国でした。
首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都でした。

2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をしました。
事実上、セルビアから分離状態にあるコソボは2008年2月に独立を宣言し、一部の国々と独自の外交関係を持っているものの、セルビア共和国憲法ではコソボを「セルビアの不可分の地方」としています。
(ウィキペディアより)

大使館の前で同年配の女性に遭いました。
休日毎にご主人を放っておいて、横浜から大使館巡りの為に東京に出て来て、徒歩で回っているとのことです。

同じ事をしている人が居る事に感激しました。

本件は続きます。


コメント (2)
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大使館を訪ねてー48(モーリタニア)

2017年03月21日 | 散文
「モーリタニア イスラミックス共和国」

日当りの良い北品川の丘の上の住宅街です。


恐らく分譲住宅を大使館に転用したものと思います。

アフリカ北西部に位置する共和制国家で、 北西にモロッコ(サハラ・アラブ民主共和国)、北東にアルジェリア、東と南にマリ、南西にセネガルと国境を接し、西は大西洋に面しています。
首都はヌアクショットで 2015年の人口は約406.8万人です。

アフリカ世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟しています。
20世紀初めにフランスによって植民地化され、フランス領西アフリカの一部となりました。

凄まじい闘争が繰り返された歴史を持っています。

侵略された事が無く、天下統一後長きにわたって内乱の無い日本は、世界的に珍しい平和な国だと思います。

1958年にフランス共同体が発足すると、共同体内の一共和国となりました。
「アフリカの年」こと1960年11月28日に、アフリカ諸国の独立が進む中で独立を達成しました。
独立の翌1961年に憲法が制定されたが、植民地時代の行政区画がそのまま国土の範囲に継承されたため、独立後の国民統合に課題を抱えています。

1965年、ダッダ政権はモロッコと共に西サハラの領有権を主張し、1975年に南部を占領してポリサリオ戦線と対立しました。
しかし、ポリサリオ戦線との戦いによる負担は重く、和平を望んだ軍部のクーデターによって1978年7月にダッダは失脚し、翌1979年にポリサリオ戦線との和平協定が結ばれました。

1984年にクーデターで政権を掌握したタヤ大統領は、1990年代初頭、1992年及び1997年の大統領選挙で勝利を収めましたが、しかしその後、クーデター未遂等が発生しました。
1989年にモーリタニア・セネガル国境紛争が勃発し、数万人に及ぶ両国国民が相互に両国国内から追放された。

2005年8月にはタヤ大統領不在時に軍部が無血のクーデターにより政権を掌握しました。
その結果「正義と民主主義のための軍事評議会」が設置され、現在民主化プロセスを進展中です。
2006年6月25日には憲法改正国民投票が実施され、有効投票の約97%が改正を承認し、政権交代の原則が公認されました。

2007年3月11日に大統領選挙第1回投票が行われ、3月25日に決選投票が行われた結果、スィディ・ムハンマド・ウルド・シェイク・アブダライ元水産相が新大統領に選出されたましたが、2008年8月6日、軍事クーデターが発生し、また、クーデター実行部隊は同大統領らを拘束したムハンマド・ウルド・アブドゥルアズィーズ大統領警護隊長を議長とする「高等国家評議会」の樹立を宣言しました。

このクーデターについて、欧米各国、アフリカ連合、アラブ連盟は非難声明を出し、アブダッライ大統領を権力に復帰させるよう求めました。

高等国家評議会は、2009年6月に民主化のための選挙を行うと表明し、2008年12月には、拘束されていたアブダライ大統領をはじめとする旧政府要人が解放されましたが、2009年1月には現政権支持派によるアブダライ批判デモが起こるなど、不安定な状態が続いています。
(ウィキペディアより)


訪問記は次回に続きます。

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