銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

柄谷行人+大江健三郎氏が、『デモへ、参加を呼びかける』点への疑問 △

2011-09-21 14:01:55 | Weblog

 これは、水曜日に書き始め、今、金曜日の午前零時半ですが、やっと初稿が完成しました。

 が、その40時間の間に、Livedoor が、以下のブログを紹介した模様です。それを読むと、アプローチは違っていても、デモ内で、一筋縄ではいかないことが起きているということを話しておられます。
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討論、(または、激論、または、剛論という題だったかな?) 3「郷原信郎×八木啓代」弾圧する側・される側
2011年09月21日00時04分

八木啓代@@@@
Twitterブログ

 これは、お若い方には、ぜひ、読みいただきたい文章です。もちろん、わたくしの文章もお読みいただきたいですよ。両方読んでください。

 で、以下は、内容としては、前報の続きです。

副題1、『樺美智子さんについて、さらに気が付いたこと』
副題2、『おしゃれな、東大生・新左翼は、実は、デモには参加しない』
副題3、『新左翼・論客とは、体制内の安全な場所にいるのだ』
副題4、『あなたの親が、すでに、マスコミセレブになっているのなら、大丈夫だが』

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副題1、『樺美智子さんについて、さらに気が付いたこと』

 前報で、樺美智子さんは、ソ連のKGBに謀殺をされた可能性があると、落合信彦氏が言っていて、それは、当たっているかもしれないと、わたくしが今感じていると申し上げました。

 現場で見ていたといっても、塀の外で、見物していたにすぎないから、この結論は、直観にしかすぎないのですが、それでも、いろいろ、裏づけられるデータもあります。

 wikipedia によれば、樺さんはその時点で、すでに、一回入った共産党を離党をして、いて、ブントという新左翼系列の活動家となっており、羽田空港のデモの、時点ですでに一回警察に拘留(または、逮捕)をされているとあります。また、赤旗に、その分析が載っていたとも言われています。

 これは、その分野の人材としては、すでにスターです。さわやかな和風の美貌の人で、学者一家に育ったという一種の貴種の趣もあるし、共産党を離党です。おしゃれな経歴という意味でももうしぶんがありません。そして、某女性週刊誌のインタビューを受けているとの話。

 この・・・・・商業系の週刊誌にインタビューを受ける・・・・というのは、のちに、早稲田の革○の委員長だった、成岡庸司君を、週刊朝日がインタビューをするという形で繰り返されるのですが、『命の安全を保障された』も同然のことだと、わたくしは考えます。

 外には、絶対にそんなことは出てきませんよ。だけど、この日本の真実の宗主国であるアメリカにきらわれたら、そんな、うまい話は降りてきません。いえ、浮かんでも来ません。だから、それは、お墨付きをもらったも同然の話なのです。つまり、この日本のどこを歩いても安全だ。大手を振って歩けるのだということとなります。
 しかし、現場はダイナミックです。当時新左翼内でも、すでに、分派活動はおきていたとおもわれるし、それは、5年後ぐらいから、激しい内ゲバというのを繰り返して暴力沙汰へ入っていくわけです。

 ですから、あくまでも、精神的なあり方の問題ですが、樺さんは、実は体制内の人で、安全を保障されていた人だったともいえます。それは無論、表面的には伏せられているのですよ。庶民には見えない形での裏付けです。

 それに警察なんですが、当時はまだ、日本全体が、おっとりとしていたのです。国会議事堂にも、塀がなかったのです。生垣と、築地塀はありました。が、金属でできた塀はなかったのです。警官が警棒で殴り掛かったから、樺さんが死んだのだったら、ほかにも同じ傷で、死傷者はいっぱい出ている筈です。もちろん殴っているでしょう。だから、けが人が大勢出ている筈です。その中で、特別に体が弱かった樺さんが、一種のショック死状態を起こしたという考えは残しておかないといけません。

 それから、圧死の件ですが、これが、一番あり得ると思っているのに、友人や知人のうち、樺さんが倒れたのを見た人がいないそうです。

 となると、屈強のアジア系男性を、数十人用意して、デモ内で、樺さんを囲い込み、適切な時間帯(デモは、五、六時間続いたはず)に後ろから、頭を警棒で殴って、卒倒をさせ、あとは自分たちで踏みつけたか? 動かない物体となってしまった樺さんの上を、踏みしだいていった、学生や、警官や労働者が数多くいたと考えると、それが、誰の仕業かは、もう特定できないわけですが・・・・・

 共産党について語ることは、当時は大タブーだったはずです。創価学会について語ることも報復をされるという意味で大タブーなのですが、ソ連側が、何重の意味でも、樺さんを殺すことが結果として、プラスだと考えて、謀殺をした可能性はあります。

 デモ隊が、警察と対峙する際に、後頭部から殴ることも位置的に無理ですしね。警察が嫌いな私でも、戦後、たった、十五年目の若い男性警官が、殺人になっても構わないと思うほどの、力で女性を殴るかしら? 一時的に卒倒をして地面に彼女だけが、倒れた上に、人が踏みしだいた圧死ならわかるのですけれど・・・・・
 この戦後15年目というのは、今とはまるで違った時代なのです。

 敗戦で、人々はいったんは打ちひしがれました。が、一方で、反省して謙虚になって、まったく新しい日本人として生きようとしていて、ある意味で、今の日本人より精神的には、ずっと、健康だったのです。今の日本のほうがずっと暗いです。社会に鬱積慰しているものが多いです。

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副題2、『おしゃれな、東大生・新左翼は、実は、デモには参加しない』

 その日の、デモに、現在のマスコミに生き残っている、有名人としては、秋山祐徳太子さんは、参加されていたでしょう。氏は、武蔵野美術大学に学んでいた最中のはずです。そのあとは、芸術家になっていくわけだから、就職をする必要がないのです。そのうえ、自宅ではお父上が、すでにいない状況で、母上は優しい一方の人でした。だから、誰に気兼ねもなく参加ができます。

 私と私のその日の一緒だった友人たちのうちに、誰もその後活動に入った人はいません。当時は女性の地位がまだ低い時代だったから、まず、キャリアー・ウーマンになることが大切で、それに対して、損失となる、反体制・運動などには誰も加担をしなかったみたいです。

 柄谷さんも、もちろん参加をしていないはずです。氏は当時浪人中だった模様です。関西で自宅通学で予備校に通っていたのなら、当然、6月15日に永田町にいられるわけがないし、東京の予備校に通っていたとしても、予備校生なんて、もっとも、立場が弱い人間だし、目的は大学入試だし、組織化もされていませんから、不参加のはずです。

 柄谷さんは、最初から、共産党には参加せず、埴谷雄高氏などと一緒に、いわゆる新左翼系列で、運動に参加していたけれど、ことデモに関しては、傍観者の趣が強かったはずです。ですから、1960年の6月15日に永田町を燃え上がらせていたのは組織で動員された若き労働者である可能性は強いのです。そういう人たちが、四分の三ぐらいを占めていて、学生が、四分の一を占めていたと、考えます。労働者といっても、国労、動労、自治労などの、大きな組織で働いている人たちです。そういう人たちは、デモに参加しても上から「辞めなさい」といわれる恐れがないからです。

 今回私がひどくこだわるのは、今回は政治問題ではないと、一般の人が考えており、それ故に、大勢の普通の人が参加する可能性があるからです。で、先週、一一日にデモが大切だと宣言した柄谷氏も、次の週に呼びかけ人となった、大江健三郎氏も、若き日に、デモの洗礼を受けていない可能性を述べておかないとだめだと感じているからです。

 『デモ』と言いうものには種々様々に危険な部分が含まれているのです。それを、きちんというのが目撃をしてきた人間の役目だと思うから。

 私は、この日の目撃の後で、一九六二年から大学へ入ります。そこでの経験は後回しにして、一九六六年から勤めた東大での経験に入ります。柄谷氏を論じるためにはどうしても、東大を分析する必要があるから。

 当時、一九六九年の一月の一九日までは、安田講堂事件はずっとくすぶり続けていたわけですが、東大の内部では意外と無関心だったのです。もちろん、丸山真男さんが、吊るし上げみたいな形になったのですが、だけど、全学が巻き込まれていたわけではありませんでした。もちろんのこと、柄谷さんは関係がなかったはずです。

 しかし、わたくしは中学時代の同級生が医学部に通っていたので、東大の医学部の学生がどれほど、高いエリート意識を持っているかは知っています。

 あれは、1966年か1967年の秋だったと思いますが、地下鉄丸ノ内線の本郷駅構内で、偶然同じ電車に乗り合わせたのです。私は勤め人だから、軽目のスーツ系の洋服ですが、彼女は全身黒づくめ、のちに私が芸術家として、自分の個展のオープニングで、よく用いたような、衣装で、そこに、金のアクセサリーをジャラジャラとつけていて、40ぐらいの成熟した女性に見えましたよ。
 だけど、その口をついて出てくる言葉にはびっくり仰天です。
 ちょうど、青医連が活発化していたころで、彼女は自分たちが、『この日本を、理想的な形で、変革できる』と思っていて、その筋道をとうとうと語りました。

 今はそれは、まったく実現をしていません。夢物語だったわけですが、確信をもって語る彼女に反論も何もできないまま、電車は、東京駅(=大手町)につき、彼女は降りていきました。たった4駅、7分以内です。

 でも、はっきりとわかったことは、大変なレベルで、彼女の方が上に立っているということです。彼女にとっては、わたくしも、『お前ら庶民は、誘導してやらねばならぬ。教え導いてやらねばならぬ』です。

 下世話な話に入って、本当に申し訳ないのですが、横浜国大付属中学校って、中学時には、35人程度しか入学させません。付属小学校から持ち上がってくる子が、65人いるからです。で、1950年代は、横浜ではエリートで、実は私は入学式総代で、卒業式総代だら、「当時は、今、目の前にいる彼女より上だったのに」というプライドはあります。でも、彼女の眼には、私なんか、ごみそのものでした。あっけにとられるほどの、エリート意識。

 私の通っていた国際キリスト教大学は、学生の親元のことを考えると、おぼっちゃん、おじょうちゃんが多かったけれど、他人に向けて、これほど、ストレートにエリート意識は見せません。『比較して、東大の学生は、なんと違うのであろう』と、仰天をしたのです。東大生であるというだけで、どれほど、自分を甘やかしているかを、如実に感じさせられたのです。

 しいて善意にとれば、「知り合いだから、本音を出したのよ」となるのかもしれない。だから、彼女だって、患者さんに向き合う時は赤ひげ医者として、丁寧に対等の言葉を使うのかもしれません。

 だけど、ここで問題なのは、柄谷行人さんにしろ、大江健三郎さんにしろ、まさしく、そういう東大人種の一人であり、かつ、『東大の中でも、若い時期から、特権を持っていた種族だ』となるわけです。

 彼らは、実際のデモやら、運動には参加していないのです。そうです。催涙弾にまみれたり、放水車から水を浴びせかけられたり、警棒で殴られたりをしていないのです。でも、今回、若者に、「デモに参加しなさい」と勧めています。これは、大いに不誠実だと言わざるを得ません。
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副題3、『新左翼・論客とは、体制内の安全な場所にいるのだ』

 新左翼というのが、1960年代に幅を利かせ始めました。これは、第二次安保改定反対闘争、第三次安保改定反対闘争、ベトナム紛争、大学内の経営や、指導方針へ対する不満等、で、大いに盛り上がるのですが、それを通して、論客というものができるのです。が、それらの人材は、実は体制側・・・(この場合はアメリカ)・・・・に、非常に、かわいがられているのです。

 ただし、それは表には出ていません。

 ここらあたり、大胆な規定ですが、共産党を離党したということで、「それは、素晴らしい」と、この国の真の支配者であるアメリカ側には、取られて(あくまでも、1950年か、1960年代の話ですが、)内々に接触があったのではないかと感じられます。ただし、見かけは、新聞社とか、出版社の依頼で、仕事をしてくださいと、頼まれて、だんだん、人気が出てきて、国民内人気という意味で、出世をしていくという形をとります。

 現在の年齢が、90歳前後つまり、1945年の終戦時に、30歳前後だった人が、共産党へ入っていて、さらに離党をすれば、それは、1960年代には、55歳から60歳になっていて、20代の若い人にとっては、尊敬すべき存在となるわけです。

 柄谷行人氏のwikipedia を見ると、埴谷雄高氏に心酔し、デモは、ほとんど、見物程度であったと、この2011年9月15日時点では、書いてありました。でも、それ以降は変わっていくかもしれず、すでに、変わった記述になっているかもしれません。

 ただ、柄谷行人氏は、実践の中で戦ってきた人ではないのです。そういう人が、若くて、純真な人に、デモを勧めることに、大きな罪と、忌わしさを感じる私です。

 もちろん、このデモは新左翼系のデモです。で、全体が安全なものです。が、もしあなたが純真でまじめだと、狩り出されてしまいます。つまり、デモとは、別名、狩場であり、純真な若者を見つけて、つぶしていくことに役立てているのです。右翼のデモでも、同じだと感じます。

 そして、つぶされていった若者も知っています。ご自分も職に就けず、また、夫や妻などの、パートナーも職に就けず、悲惨な貧乏暮らしをして、やがて亡くなったとか聞いています。とても、要領が悪いのです。医者とか大学教授とかいう種類の、立派な親が付いているのに、勘当をされたとか、聞いていますし。

 つぶされて行った人の子供時代を見ると、裕福で上流階級だったケースが多いのです。決して、貧しかったり、低層の人間だったというわけはないのですよ。そして、ノブレス・オブリッジの発露の一種として、安保反対闘争(たぶん、1960年代のそれ)に参加したり、その後の学生運動に参加したりしたのです。

 とても気の毒な人が、いっぱいいるのです。無名戦士の墓という言葉がありますが、まさしく、世に知れず消えて行った人は一杯いるのです。

 上に、郷原信郎×八木啓代の二人が対談をしていて、そのなかで、郷原さんの方が「デモの中では、弾圧のための挑発ということもある」と、述べておられますが、プロのスパイの挑発に乗って、警官に唾を吐いて、逮捕などをされてしまうと、じくじく、じくじく、後々の人生にまで、影響を与えるのです。

 私はデモには絶対に行きません。だけど、毎日ブログを書いています。これを書くのだって、体力が要るのですよ。それと節制(摂生)も必要です。で、これが自分に似合うし、かつ、自分にできることだと、自認をして、毎日、コツコツ書いています。
 大体、毎日10時間は割いています。それが、11年も続いているのだから、相当な積み重ねはあるわけです。い ところで、一般の人がよく「政治家がだめだから、日本がだめになる」と、言いますね。だけど、それは必然のことなのです。あの安保反対闘争を通じて、大勢のまじめな人が、つぶされて行ったために、今、60代の普通の人は、徹底的に、非政治的だし、政治を馬鹿にしたり、嫌ったりして、まともに向き合おうとしないのです。また、残っていて、政治に携わっている人は、
 江戸時代の名君とかとは、遠い、二流の人が多いし。

 今の永田町を離れて、また、1960年代に戻れば、新左翼は、ますます過激になり、おかしくなって、あさま山荘事件とか、それ以前の、連合赤軍の永田洋子(女としての嫉妬の感情からひどいリンチを行った)の登場とか、種々様々な、ことが重なり、国民からすっかり、見放されることとなって行きます。それは、その前の、世代で、真面目なひとが、すっかり狩りつくされてしまっているから、永田洋子ごときが主役になってしまって、ますますの悪循環に陥っているのです。

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副題6、『あなたの親が、すでに、マスコミセレブになっているのなら、大丈夫だが』

 平田オリザという劇作家がいます。私より相当若いが、同窓です。このひとが民主党の顧問となっていて、今年の春に、韓国で何やら失言をしました。それで、急に興味を抱いて、ネット検索をすると、思った通り、親世代が、すでに、知的エスタブリッシュメントでした。この人はべつに政治にかかわったわけではなくて、(実際問題として、彼が学生のころには、大きな政治的なムーブメントはなかったのだし)ただ、世界放浪の旅に出たというだけですが、

 普通なら、これほどの、大物として、表舞台に登場することは無理なはずなのです。日本というのは横並びを、尊ぶ世界で、突出した個性というのを嫌います。で、22歳の時に、大会社、または、官庁や自治体に就職する、または、大学院へ進んで学究の道を目指すとなるのですが、年齢は非常に大切です。そこで、変り者のケースとなる平田オリザ氏は、普通なら、エリートとしての、処遇を受けにくいはずなのに、受けています。

 柄谷行人氏は、親世代は、建設会社で、しかも関西です。東京に知的な橋頭堡はない。しかし、わたくしは奥様の系列がよかったのではないかと見ています。

 ところで、このように観察しまくる私ですが、自分自身は一切計算をしない人です。ただ、直観に基づいて行動します。大学在学中は恋愛はしない方がいいと思っていました。だから、秋山祐徳太子氏などとは、まったく違った人生となっています。氏は、学生運動の中で、いろいろな女性と交流があったと、おっしゃっていますね。だけど、わたくしは違う。秋山祐徳太子氏は、親はセレブではありません。ただ、人付き合いが、いいのです。それで、都心のサロンで、いろいろ、人と付き合っている。だから、浮上をすることができました。

 私自身は、まったく浮上をしておりません。だけど、まるで、気にしておりません。本日逸見じゅんさんの死が知らされて、72歳だとありました。『おや、あと三年しか、わたくしには、もう、持ち時間がないのか。だけど十分に長生きをしましたね』と思っているのです。そして、有名人ではないから、人と会ったり会議に出る必要もなく、毎日コンスタントに、同じような生活形態で、生きていて、ちゃんと、文章を書き続けることができます。
ラッキーな人生です。だって、名声やお金を得るために書いているわけではありません。うちからあふれてくることが肝心なのです。その創作の泉が枯れないことが大切なのです。それについては、非常に恵まれている人生です。

 これは、あとで、もう一回触れる、ことですが、

 ここでは、1962年から、1966年までの、国際基督教大学の中に戻りましょう。親がマスコミセレブというか、知的セレブの段階へ達していると、あなたも救われるというケースについてお話をさせてください。

 1月年上に秋山豊寛という学生がいましt。殻は、派手に新左翼系で、活動をしていたみたいですが、ちゃんとTBSの入社できました。
 同期に、中野隆宣君という背の高い、かつ、歌が上手な男子学生がいました。すでに亡くなっているそうですが、彼は新左翼系の活動家として、ずいぶんなことをやったと思いますよ。でも、無事に就職ができました。父君と同じ朝日新聞社に入社したのです。

 でも、親がセレブ、特にマスコミ界のセレブでない場合と、親との関係が悪い場合は、その若者の生活は以降悲惨になるのです。政治が燃え上がり、大衆運動が盛んな時は、海の藻屑として消え去る人がいっぱいいるです。

 上の方に例として挙げた、東大医学部へ通学していた、友人が、とうとうと述べていた理想は、今のところ、一つも実現をしていません。

 そして、安田講堂の攻防が起きます。そのとき、650人ぐらいの学生が逮捕されたのですが、柄谷さんが含まれていましたか? 大体東大生は、そのなかの20分の一、35人程度逮捕されただけだったそうですし。

 私は今回のことで、したり顔で、学生というか、一般市民にデモに参加しなさいと言っている柄谷行人という人間の忌わしさに反吐が出る思いがしますと、はっきり言っておきます。

 まだ、今日の段階というか、上の行まででは、説得力が、足りないとおもいます。だけど、ちょっと、ここで、切らせてくださいませ。
  2011-9-19日から買い始め、22日までのところで、いったん切る。
                 雨宮舜(本名 川崎千恵子)

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