副題1、『一つの展覧会として、見る時の、ぼんぼり祭りで、私が見つける楽しみについて』
*1)、どうして、こういうブログを本日書くか、に、ついては、説明をしないが、ご想像をいただきたい。前報を推敲し、加筆をしないといけないのだが、その前に、ちょっとと言うつもりで、夕方の六時半から、見に行った、山ノ下のぼんぼり祭りについて、やはり、文章が生まれてしまうので、つい、発表をしたくなってしまう。それほど、重いものでもないのだが・・・・・、だから、私の文章としては、軽すぎることが、かえって、異色なのだが・・・・・
*2)、「ぼんぼりの飾り位置にも、階級があって?」と、昔、私が言ったら、音楽の先生(旧公爵のお孫様)が、お笑いになったが、今日もそれを感じることはあった。8年間もブランクがあったので、それが、見えるケースがあった。上がった人よりも、下がった人とか、『この位置では、不足でしょうね。もし、ご本人が見にいらしたら』と、思った方もあった。しかし、その実名を挙げることは、お気の毒なので、やりたくない。・・・・・
*3)、献呈をする作家が、実際に見に来ている姿は、2008年ごろ、の、昼間には、中島千波さんをお見かけしたことがある。有名人としては、そうだった。しかし、有名人ではない、献呈者が、見に来ているケースはあると思う。本日も一人で、見に来ている女性で、きりっとした浴衣姿で、髪を巻き上げ、かんざしなど挿して、おしゃれをしている、50代の女性を、数人を見かけたが、その人達は、きっと、献呈者だと、思う。誇りを感じているので、おしゃれをしているが、他人が自分のぼんぼりを、どう思って居るか、その評判も確かめたいので、一人で、来ていると、見た。静かに辺りのおしゃべりを聞きながら、自分の作品を見ているのだろうと、推察する。書道の大家、和歌や、俳句の先生などは、特に、40代、50代だと、マスメディア有名人ではないので、私もその顔を知らないケースが多いのだけれど、一般の見物人とは、どこか、違うものがあって、判るのだった。これは、自分が献呈をしていた頃の、裏事情からも推察できることだった。
*4)、私は神奈川県内では、1980年ごろから、上野の都美館では、1990年代から、公募団体展に、出品をしていた。で、洋画家の名前なら、群れをなさず、独立して居て、個展だけで、生きて居る人を含めて、ほとんど、すべての献呈者を知っているが、日本画家とか、イラストレーター、漫画家などについては、その名前を知らない人が多い。でも、お花を丁寧に、描写している日本画を見たりすると、心打たれることがある。それは、若宮に、向かう脇道に飾られてることが多い。マスコミ有名人ではないが、真剣に、取り組んで居るその人の心や姿を感じてしまい、心打たれる。『こんな仕事って、どっちでもいいのよ。ちょっと負担だけど、お付き合いだから』と、思いながら描いている有名人もいると思われるので、比較して、その真剣さに、心打たれるのだ。
*5)、さて、ぼんぼりとして、最高の、階級は、本殿前、左側だと、推察される。2009年ごろ、そこは、新藤兼人監督だったか? 小泉淳作氏だったか? はっきりとは、覚えていないが、それ以前の、片岡球子女史の時代が長かった。というか、面構えシリーズを小型化したものなので、印象が強烈な絵なので、人々が、今も覚えていて、語っている。
*6)、しかし、私の印象に、強く残っているのは、小倉游亀さんなのだった。きれいな器に入った果物等を、描いたけれん味のない小品であり、いいなあと、思って居た。余白をたくさん残してあり、『これは、もし、デパートの個展に出したら、すぐ高額で売れますね』と、感じる様な、立派な作品となっていた。これは、引っ越してくる前に頃の話だったのかもしれない。同じ傾向を持っている人として、好きなのは、守屋多々志さんだった。
*7)、守屋多々志さんは、2003年に、91歳で亡くなっている。で、私がぼんぼり祭り内で、守屋さんの作品に惹かれ始めたころには、すでに、大小ある、ぼんぼりのサイズの内、大きな作品はお描きにならなくなっていたのではないかな? で、小さいサイズのぼんぼりは、献呈をされて居て、それが、常に、小さいサイズのぼんぼりの中では、トップの位置に、飾られていた。そして、それこそ、けれんみのない小品だったのだ。本日は、他にも問題作と言うか、人々の耳目を驚かす様な作品を多数みたが、それでも、これら、没故作家の作品とか、40代で、鎌倉在住で、まだ、都心の画壇で、有名でない作家たちの、まじめな、花の作品などに、心惹かれ、ある意味でそれが、ぼんぼり祭りの展覧会としての良さであると、改めて思ったのだった。
私は毎週銀座の画廊巡りをしていて、多数の美術作品を見るのだけれど、そこでは、この種の作品はない。でも、美しいものを見て、それを、自分の手で、再現して自分のものにして飾りたいというのは、画家の最も基本的動機だから、それの発露を見るのは、気持ちの良いものだった。
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副題2、『奥谷博と言う方は、相当に複雑な心情を持っている人だと、思うが、それでも、ぼんぼり祭りのトップを担う重責については、よくわかっている方だと、思った。ぼんぼり祭りの性質に合わせて、大衆に判りやすい画題(=虎=)を選んでおられるが、手は抜いていない』
*1)、 さて、副題1で、語っていることは、ぼんぼり祭りには、その展示場所に置いて、階級があるという事だ。その階級として、トップの位置には、たいていは日本画家が、座っていた。しかし、8年ぶりに、訪問をしてみて、その位置に、奥谷博氏の作品が飾ってあるのを、発見してそには、ひどく驚いた。
私は、独立美術家協会については、女流展関係の作家を通じて知っているだけだけど、奥谷氏が、マスメディア的には、地味な方でありながら、結構な実力者であり、画壇でも、着実に名誉欲を発揮なさっておられるという事は、知っている。今日初めて、wikipedia を見て、芸術院会員であり、文化功労者であると、知ったのだが、それを知らない時から、『奥谷さんは、なかなか、努力をなさっておられますね。画壇で、大きな地位を占めるために』とは、考えていた。
ここで、こういうことを言うと、「お前に、そんな発言をする資格があるのか? ねえんじゃあねえか?」と、鎌倉エージェントに言われてしまうだろう。今、実際に、例の常に、このパソコンを、ハッキングをしている連中が、そう思ったらしくて、パソコンのシステム異常が三回から、五回ほど、起きたので、それは、確かな事だと、考えている。しかし、私の普段のブログを読んでいる方にしてみたら、私が、非常に硬質な事を書いて居るライターだとは、ご存じだと、思う。
私のもっともよい部分としての才能は美術系統の創作にあると、自分では信じている。しかし、音や光、また、NHKニュースや、パソコンの異常という事を、通じて、常にCIAの日本人エージェントから、絡まれており、落ち着いて、油絵を描いたり、版画を制作している暇がない。で、パソコンを使う仕事だと、細切れでも、うまくいくので、美術評論を、書き始める。それは、非常にユニークな形であり、かつ、心情もこもっていて、面白かったので、2006年、四月から始まった月刊ギャラリーの、連載は、好評であった。しかし、それが、2007年の三月をもって、編集長から何のお断りもないままに、中止とされてしまう。あまつさえ、当時から、心の友となって居た、ギャラリー山口のオーナー、みつ子さんが、ころされてしまう。
そして、その裏側を分析し始めた私に対して、2007年以来、11人の知人が、似たような、謀略で、殺されて行っているのだった。表向きは、癌が原因ですとか、交通事故でしたと、言われているが、真相は違うだろう。そしてこれら、身近な人への攻撃と並行をして、遠くで異様な形での殺人事件を起こされる。周南事件、山田浩二が、二人の中一児童を殺したとされる、寝屋川事件、ナカダ・ルデナ何とかと言うペルー人が六人を殺したとされる熊谷事件、そして、実際には、19人は、殺されてはいない、やまゆり園事件・・・・・で、その手の恐ろしいいじめとか嫌がらせを受け続けた私が、精神の、平穏を保つためにどうするかというポイントだが、
覚悟が決まるという事だ。で、私はナイフのような切れ味をもって、ありとあらゆることに真実を語るという人間となっているのだ。
で、私は、奥谷さんご自身と、短い時間ながら、二人だけで、会話をしたこともあり、謙虚な方だとも知っている。だが、同時に独立美術協会所属の他の作家(主に女流画家)とも、個人的に話したことがあり、そこから、奥谷さんの、真実と言うものもわかるのだった。私は、単に顔の表情一つ、または、片言双句からでも、真実を導き出す人間だから。
その種の、別の作家との会話で、悪口を聞いたわけではない。ただ、これから、「奥谷さんの受賞・記念パーティに出ます」とか、「お祝いの会に出ます」と言う事を聞いただけだ。それで、奥谷さんが幅広い、人脈を築こうとなさっていることは判り、それは、芸術院会員になるためであろうなどと、推察をしていたのだった。
しかし、本日、奥谷さんの、グーグル検索を掛けてみて、wikipedia が立っていることを知った。で、このwikipediaなのだけれど、私は、旬の音楽家について、興味を抱いて、誕生日等を知りたくて、グーグル検索を掛けるのだけれど、ほとんど、wikipedia が、立っていないのだ。今回のぼんぼり祭りについても、五百住乙人、小杉小二郎、松浦安弘の四人の私に言わせると、プロの立派な洋画家である人々について、グーグル検索をかけたのだけれど、wikipedia が立っていたのは、奥谷博氏だけだったのである。それだけ、奥谷さんは、ご自分の存在感が、広く、かつ大きくなる様に、努力をなさっておられるのだ。
しかし、池田潔著の、『自由と規律』ではないが、名誉には、義務も伴う。ぼんぼり祭りのトップの位置に、ご自分の作品が、置かれているという事は、全日本画か、全洋画家の中で、トップと言える作品を提出しないといけないという事だ。そして、2017年度のぼんぼり祭りにおいて、奥谷博氏の、虎の無彩色の絵は、切れ味の鋭さ、と、大衆的な、判りやすさという両面で、トップだったと、私は思う。
ただ、感服して立っている私の横で、「この人誰?、どうして球子さんではないの?」と言う奥様が居た。70代だと思う。これは、洋画家の宿命だ。日本画家よりも、どうしても知名度が劣る。それは、仕方がない。でも、繰り返すが、82歳か、83歳にして、あの迫力のある絵を描けるのだから、芸大出身者と言うのは、基本ができていて、かつ優秀だという事だろう。改めて脱帽だ。
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副題3、『奥谷博氏は、36歳か、37歳の時に、愛知芸大助教授の地位を捨てている。これは、本日初めて知った。その頃は、純粋で、かつ、攻撃的というほどに前向きだったと言う事だろう。しかし、・・・・・氏は、その後、その件を若気の至りだったと、して、後悔を、なさった・・・・・と、私は推察した。愛知県に住むという事は、東京を離れるという事で、子供の教育等を考えると、損には、なるだろう。だけど、大学教授の地位を捨てたのは、失敗だったと、お考えになったと、推察している。
奥谷さんには、その時(=1970年)、すでに、ブランド的・冠は、幾つも持っていらした。芸大卒。文化庁在外研修生、第一期卒。そして、すでに、独立の会員だった可能性も高い。そして、有名な賞も受賞済みだ。しかし、大衆的知名度が、日本画家より、洋画家が、劣るという現実と、同じ様に、日本では、芸術家は、実力があるだけでは、尊敬を受けない。まず、金持ちである必要がある。
その上、組織に属さない画家よりも大学教授の方が圧倒的な、大衆的知名度と、信用を受け取れる。年齢が近い有名画家に、大学教授と、画家の、二束の草鞋を履いている、絹谷幸二、大沼映夫、島田章三がいる。
現在の私は、そういう枠組みから、一切遠のいていて、悟りの境地に達して居るのだけれど、40代では、悔しい思いをしたことがある。横須賀市の北久里浜と言うところで、英語塾を開いたのだけれど、当時のそこでは、国際基督教大学の知名度が無くて、お母様方の信用や、信頼が得られなくて、往生をした。一方で、知人の佐久間操さんは、明治大学の出身だ。六大学の一つだ。したがって、知名度は、抜群に高い。で、お母様方の、信頼度が厚くて、英語塾が成功した。一緒に郵便局について来てと、言われて、ついて、いったことがあるが、彼女は、塾の謝礼金を、分厚い札束にして、貯金をしていた。今、現在の貨幣価値に直すと、30万円以上だと、思われる。
元に戻ろう。この大学教授職を捨てたという事が、奥谷氏に、後悔の念を呼び覚まさせていたと、仮定をすると、最近、20年間の奥谷氏が、名誉欲を追及されている姿勢なのも、ありだと、思い直されて来る。
人間の心理的機序と言うのは、複雑だ。本日は、奥谷さんの、wikipedia を見て、大きく学ばさせていただいた。
なお、マスコミ有名人のぼんぼりについて、触れるつもりでしたが、9日のブログとしては、すでに、書くのに疲れたので、後回しとさせてくださいませ。
なお、このブログの、延べ訪問回数は、4163971です。誤変換を直し、推敲をしたら、署名と、書いた日付を入れます。
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