赤ひげのこころ

お客様の遺伝子(潜在意識)と対話しながら施術法を決めていく、いわばオーダーメイドの無痛療法です。

菅家ヒストリア ・ 第十代 市三郎のシベリア抑留記2

2017-03-09 17:32:47 | 菅家ヒストリア


 

シベリア抑留
人生の空白
                菅 市三郎 著
(平成5年7月1日発行)

*1よりの続き

兄の遺言書

この記述は小田倉小百年史より。

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     遺   言

遺言者ハ此ノ遺言書ニ依リ遺言トナスコト左ノ如シ
  一、遺言者ハ死後賜金扶助料賜與セラレタルトキハ
     賜金ノ其ノ五分ノ二父上ニ
     五分ノ二ヲ母上ニ 五分ノ一ヲ母校ノ教育資金ニス
     扶助料ハ 其ノ二分ノ一ヲ父上ニ 二分ノ一ハ母上ニ分與スベシ
           昭和十六年七月十六日
              遺言者   菅  秀 男  ㊞

 右遺言者ヲ正確ナラシムル為 遺言者自ラ此ノ證書ノ全文ヲ記シ
且ツ日付及氏名を自シ捺印ス

此の遺言書は徴兵検査の年に書いたのだと思う。
秀男君は昭和十九年三月十六日、太平洋戦争で戦死されたが、
本校を卒業されてから仙台で研修後 軍馬補充部に勤務。
昭和十八年九月二十六日応召まで毎日記録を丹念に日記帳に書かれたが
八月二十五、六、七日のページには軍馬補充部の牧場の下刈り作業に
後輩にあたる高等科及び五、六年生が駆り出され、
彼らをいろいろと指導したことが書かれてあった。
応召前日の九月二十五日には お別れの挨拶に来校されたが
先生方が不在で残念がったことなど書き込まれている。

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応召に当たって、毛筆(けふで)で書かれた遺書が現在も残っているが、
戦死をして賜金扶助料が賜與された時は
其の五分の一を教育資金として学校に届けるように と書かれ
教育に対する暖かい熱情があらわれて感銘を深くするものがある。

痛ましくも昭和十九年三月十六日戦死。
勲八等白色桐葉章(くんはっとうはくしょくどうようしょう)、
また金千参百円賜与証が自宅に届けられたが、
敗戦の為支給がなかった。
父 喜代亀氏は遺志を継いでその実現をはかろうと
支給を待ったが打ち切られてしまった。

敗戦下の経済困難の中にあって、遺志を守るため
当時としては容易ではなかったにも拘わらず、
昭和二十一年三月、金拾円を菅 秀男名義で、
教育振興費として学校に寄賜され
当時の校長 松本義恵 名による感謝状が今もなお残っている。

誠に今は亡き父子二代にわたる教育尊重の精神が、
この感謝状、遺言状の中に脈々と流れていることを感じ、
百年の歴史の重さと数々の記録の中の一端として、
百年史にのせて参考に供する  とある。

  *編者注
・賜金扶助料:戦死した場合などに、天皇や政府から下されるお金(賜金)、
また遺族に対して、毎月支払われたお金(扶助料)。
・寄賜され・・・:寄付され・・・、の意か?

*3へ続く


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