赤ひげのこころ

お客様の遺伝子(潜在意識)と対話しながら施術法を決めていく、いわばオーダーメイドの無痛療法です。

菅家ヒストリア・第十代 市三郎のシベリア抑留記16

2017-08-04 07:00:36 | 菅家ヒストリア


シベリア抑留
人生の空白
          菅 市三郎著
(平成5年7月1日発行)

*15からの続き。

病院とわが村の戦友

コムソモリスクの市には大きな病院があったが、
寝台は木材造りで、名ばかりの病院だ。
二年目の夏、戦友が
「君の村より来ている人が病院に入院している。
会いたがっているから」と。
私は急いで病院に行ってみると、
「折口原の政木です。菅さんというから、
軍馬で一緒に働いた秀男さんかと思った」 と云う。
それは私の兄の事。
軍馬補充部時代に、ともに軍属として働いた懐かしい話などして、
兄の戦死を知らせると、ずいぶんお世話になった、と泪をながしていた。
その後何回も、炊事よりあがった手製の菓子などを持って会いに行った。
私が二十三年八月末に引揚命令が出たので、
水筒のヒモ等を持って会いに行ったが、
同じ頃死亡したと、戦没者名簿に記載されている。
場所はハバロフスクとある。
コムソモリスクは全部八月に引き上げたのだと思う。

内科病室には栄養失調者が多かった。珪肺患者も多かった。
青白い顔、やせ細った首筋、油気のない髪の毛の薄い人までいた。
精神的にも肉体的にも気の毒な人もいた。
横になったまま力がなく、朝になると隣で仲間が死んで冷たくなっていた。
しみじみと自分の手ばかり見つめるようになった戦友(とも)は
長く生きられなかった。

夜間作業と重労働

入ソして最初の冬は森林伐採。土木工事が多かった。
二年目に大工仕事、レンガ工場の土運び。
一番つらかったのは鉄道新設工事だった。
真夜中でも資材が入ると、枕木を敷き、レールを並べて、
砕石を積んだ貨車を前進させて、片方の鎖をはずす時は
大声で会図を掛けて下さないと危険である。
怪我をした人も少なくなかった。
夜も昼もなかった。ぶっ通し働かされた。

重工業の都市である。飛行(機)製作所、戦車工場、
溶鉱炉や鉄製錬工場の鉄道線路の両側には
ドイツ、満州から運んだ工場の機械類に、機関車から小銃、日本刀まで。
ドイツの要塞砲まで。
(要塞砲の)大きいのには驚いた。自動車が中を通れるようなものまで。
破壊された重戦車。いずれも大きい。
日本の戦車は一緒にあるがおもちゃのようだ。
日本のモーター計器類 [日立深川 ] の名前入りも
飛行機の格納庫に三棟もあった。
全部満州、朝鮮より運んだのだと思う。

厳しい寒さと最悪の食糧事情、
その上、慣れていない労働で多くの人が斃れた。

    *編者注
・ハバロフスク: ハバロフスク市=中国との国境を接する、
     アムール川中流域右岸のロシア極東地域。 
・コムソモリスク: コムソモリスク市=アムール川下流域左岸の、工業都市。
珪肺患者: 粉じんの吸入によっておこる塵肺(じんぱい)の一種。
     結晶シリカ(石英など)の粉塵によっておこる肺疾患。
・要塞砲: 沿岸部などの要塞に備え付けられた大口径の大砲。
・日立深川: 日立製作所の深川工場のことか?

*17へ続く。