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メディアの暗号と東日本大震災

11年前の本日、あの忌まわしい東日本大震災が発生し、津波による大きな被害をもたらしただけでなく、それに続く福島第一原発の爆発により、日本だけでなく世界は撒き散らかされた膨大な放射能によりこの世の存続さえ危ぶまれる状況になりました(※)。

※東日本大震災が起きてからの数年間、偽りの平穏の背後で実際に何が起きていたのか?それについては次の記事をご覧ください。

 ・陽電化する日本人(1)-陽電化した世界
 ・陽電化する日本人(2)-世界滅亡前夜
 ・陽電化する日本人(3)-9月25日の奇跡

信じる信じないはお任せしますが、現在の皆様の命はかりそめのものであり、それがいつまで続くかなど誰も知り得ないのです。

真摯に事の重大さを推し量るのならば、現在進行中の戯れの如き疫病や紛争に心を砕いている場合ではないのです。


津波により失われた命、そして現在でもその傷跡によって苦しみを抱えている方がいらっしゃることを思うと、自分の事のように心が痛みます。

あの日のことは私も思い出したくないのですが、せめてこの日だけは犠牲者に向けて手を合わせ、同じことが二度と起きないよう祈るばかりです。

■2011年直近のメディア暗号
昨日掲載した(真)ブログ記事「ドラえもんの暗号と世界大戦」では、123便事件が発生した1985年直近及び現在頻出しているメディア暗号(あるいは暗喩)を比較し、37年前と同じ世界計画が再び動き出したのではないかとしています。

実はその37年の間にも似たような暗号が頻出していた時期があり、それがちょうど2001年の911同時多発テロから2011年の東日本大震災までの10年間だったのです。


画像:今月行われた講演会資料から

上図では「不思議の海のナディア」が例外的に古いのですが、監督がエヴァンゲリオンの庵野秀明氏と、現在でも大きな影響力を持つお方であり、その初期作品としてここに取り上げています。

この作品には、昨年開催された東京オリンピックで皆さんが目にしただろう「トリコロール」・「エッフェル塔」など、普遍的なメディア暗号が既に登場しているのです。

ここに掲載した作品の基本モチーフとは、資料にあるように「異質な時間・空間との連続性」であり、このテーマは最近のヒット作品「君の名は」にも使われているものです。これを別の言葉で言い表せば

 ループ

となるでしょう。


画像:2016年公開の「君の名は」から片割れ時の出会いと巫女の鈴
   時空を超えてみつはと瀧は出会うのだが・・
   メソポタミア神話と日本神話が物語のベースにある

そしてここにもお約束のように「すず」の暗号が仕込まれているのです。

それらの作品群の中で少々異質なのが、細野守監督による2009年の作品「サマーウォーズ」なのです。言うまでもなく「ウォー(War)」とは「戦争」の意であり、現在上映中の「ドラえもん のび太の宇宙小戦争」と同様、ここでも「戦争」のキーワードが表れています。

既に一度ご紹介していますが、この作品がどのような出来事(事件)を基軸に展開しているかというと、

 人工衛星を原子力発電所に向けて落下させる

という企てに対して、それを回避するために登場人物が右往左往するというものです。

細田監督が一癖二癖あるメッセージ性の高い作品を制作するのは(真)ブログの関連記事をご覧になればお分かりになると思います。

 関連記事:
  ・そばかす顔の秘密
  ・バケモノの国にされた日本

ですから、この作品がその後起こる「何か」を暗喩していたとどうしても考えざるを得ません。

これ以上の分析はここでは止めておきますが、どうしてメディアはこのように同じメッセージを繰り返してくるのか、私の関心はむしろそちらに移っています。

これが何かの陰謀や企みであるなら、こんな無益な言葉の数々が二度と通用しない穏やかな社会を私たちは目指すべきなのでしょう。


HUIUSMODI ENIM CHRISTO DOMINO NOSTRO NON SERVIUNT SED SUO VENTRI ET PER DULCES SERMONES ET BENEDICTIONES SEDUCUNT CORDA INNOCENTIUM
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
(ローマの信徒への手紙 第16章18節)


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The Miracle 10 Years Ago

Dear all readers

On "September 25", this day 10 years ago, we the human race was saved from the road of extinction caused by the radioactive widely diffused from the Fukushima nuclear reactor.


The explosion of the nuclear reactor at Fukushima

As one of the Christians, I call the phenomenon the miracle of God. Without this miracle, I could not have written this article nor found even one reader in the world.

I feel to ask all the readers what we have learned from this incredible luck and what we have done during these 10 years. Since it looks like we have learned nothing from the past as long as I see what now goes on in the world.

Although many lives all over the world were picked up by his right hand that year, we have started again killing ourselves with poisons made by humans, not nuclear substances but vaccines this time.

I expect that the price of this betrayal to God will be very high. Please notice that there leaves not enough time to reconsider and change our wrong deed before God's wrath appears as fires of anger, seen at the Japan Airline Flight 123 incident in 1985.

With lots of love


あれから10年。この文章は10年前に起きたあの奇跡について書いたものです。奇跡が私たちの都合で起きるものでないことは、今更申し上げるまでもないでしょう。大事なのは、その奇跡から何を学んだかということです。

この先何年か、この世に生きる誰一人余すことなく、その成果が問われる日々が続くでしょう。答は誰かが教えてくれるものではなく、各自が見つけるしかありません。どうしようもなく辛い思いをすることがあった時、この文章を思い出していただければ幸いです。

 関連記事:陽電化する日本人(3)-9月25日の奇跡



QUIS NOVIT FORTITUDINEM IRAE TUAE ET SECUNDUM TIMOREM TUUM INDIGNATIONEM TUAM
Who knoweth the power of thy anger, and for thy fear
御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。
(Psalmi 89-11)


The Sun, The Moon and The Earth
Written on the ground of Jesus Christ
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あの日が語りかけるもの



私は今、10年前の東日本大震災で大きな被害にあった、宮城県石巻市の海岸を見下ろす日和山公園に立っており、ここからこの記事を投稿しています。


この土地から、この不幸な災害でお亡くなりになられた全ての人々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、血縁者や知人を失った方々のお心の回復と街々の復興を切に願います。

思い返せば、あの日は私にとってもその後の人生の選択を迫る大きな1日でした。

地震、大津波に続く福島第一原発の爆発事故により、一時的にせよ母国日本を後にして遠く離れる決断をしたのも、この時です。

その顛末は既に記事にしているので繰り返しませんが、あの時は、同じ日本人渡航者の血液観察を通じ、1年以内に数千万人の同胞の命が失われるだろうとの結論を得て、未来に対して暗澹たる思いに至りました。その時の辛さは忘れようにも忘れられません。

あれから10年経った今、こうして記事を書いているくらいですから、その時の大きな心配は結果的に杞憂に終わっている訳ですが、当時自分の導いた結論が間違いであったとは少しも思っていません。

ある大きな奇跡的な出来事により我々は救われたのです。

あれから10年、今ある命はあの時特別に与えられたものであると、こうして文章をしたためながらもしみじみとその尊い恩恵に頭が下がる思いなのです。

そして、10年経った今、私たちは何をしているのでしょうか?

10年前、民族死滅の淵まで追いやられようとした時も、事実を隠し、「風評被害」とまるで何もなかったように振舞っていたのではないでしょうか?いや、あれから10年経った今ですら東京都内の中には居住不適レベルである数千、数万ベクレルの土中汚染が観測される場所があるのにも拘わらずにです。

そして、現在の社会の有様にいたっては、1年間で1万人も死者が出ていない、インフルエンザよりも致死性の低い例の感染症で「命を守ろう」、「新しい生活様式」と国、世界をあげての大合唱。やってることがまるでアベコベです(*)。

*不幸にもお亡くなりになられた方にはお悔やみ申し上げます

私は今の状況をたいへん危惧しています。今ある命の成り立ちを忘れてしまった私たち日本人に、もう次の奇跡は現れないのだろうと。

わたしが現地を訪れたのは死者への弔いのためだけではありません。私たちが尊い犠牲の意味を忘れてしまった不実をお詫びし、そして、許してもらうためでもあるのです。せめて、せめて子供たちだけでもと。


写真:福島第一原発の最寄り駅で昨年復旧した常磐線大野駅
   ここではまだ10年前の頭が朦朧とするあの生理感覚が起こる
   廃炉、除染にあと何10年もかかる厳しい現実がここにある


画像:この日を茶化すアニメ映画が堂々と公開される日本とは何?



ET DICEBAT PROPTEREA DIXI VOBIS QUIA NEMO POTEST VENIRE AD ME NISI FUERIT EI DATUM A PATRE MEO
そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
(ヨハネによる福音書 第6章65節) - 版によっては66節



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管理人 日月土
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核汚染された世界と新たな命

今日は令和2年の3月11日。早いものであれからもう9年も経ってしまったのかと、この日になると過ぎた時間を感慨深く思わずにはいられません。

この日、大震災で多くの方が亡くなりました。そして、それに続く福島第一原発事故の影響で、現在でも避難生活を余儀なくされている方がいらっしゃいます。

全ての犠牲者のご冥福をお祈り申し上げると共に、故郷を離れて暮らさざるを得ない方々に1日も早く心落ち着く平穏な日々が戻りますことを心よりお祈り申し上げます。


 * * *


本記事のカテゴリーは、タイトルに合わせ「核汚染日本の再生」に分類しました。核汚染というと、何をまた良からぬ風評をと思われる方もいらっしゃると思いますが、9年前の3月に、日本全土が福島から撒き散らかされた放射性物質で汚染されのは厳然たる事実です。誰もその事実を曲げることはできません。そしてその汚染は今でも深く残り、昨年2019年の民間調査では、東京都内においてチェルノブイリ基準で「移住勧告レベル」の汚染地域があることも確認されています。更に嫌なことを書かせていただくと、現在私たちの住む土地も口にする食品も、福島に限らず今なお汚染まみれであることは認めざるを得ない事実なのです。


画像:大量の汚染水タンク。福島はまだ終わっていない

ならばなぜ、私たち日本人はこうして生きていられ、なおかつオリンピックの招致まで可能になったのか?そう疑問に思われる方は多いと思います。また、かく言う私自身がそれについてずっと以下のような疑問を抱いていたのです。

 どうして自分は生きていられるのだろう?

その理由がやっとわかったのは2年前の2018年でした。福島第一原発の汚染がどのように進行し、その中でどうして日本が、そして世界が9年目の今日を迎えることができたのか、その顛末を記したのが以下の記事です。まだ、お読みになっていない方はぜひ目を通していただきたいと思います。

 ・陽電化する日本人(1)-陽電化した世界
 ・陽電化する日本人(2)-世界滅亡前夜
 ・陽電化する日本人(3)-9月25日の奇跡

ここに書かれた内容は、全て私自身が実測したもの、また他の研究者の参考意見に基づいて導かれたものです。学術的なエビデンスとは言えないまでも、事実に基づいて構成されている点では保証できるものです。少なくとも、ここに書かれていること以外で、今のところ現在の奇妙な状態を説明できるものはないと確信しています。

詳しくは同文を読んでいただきたいのですが、ここで私たちが現在生きてられる理由を簡単に述べるなら、それは

 神による慈悲

としか言いようがないものなのです。私はクリスチャンなので「神」という言葉を使わせいただきましたが、これは「大自然」とか「大いなる意志」などの言葉に置き換えてもいいでしょう。とにかく、私たち人類の介在できない何かによって現在の平穏はもたらされたのです。

その天啓が無ければきっと私はもうこの世に居なかったであろうし、それは、今この文章を読んでくださる読者様も同じだっただろうと推察されるのです。

このような現実を誰よりも見てきた立場で皆様にお伝えしたいのは、もう次の言葉しかありません、

 神はあなたが生きることを望まれた

だから皆さんは生きてください。そして神がそうされたように、全ての人々が生き永らえる世界を作ってください。

今、世の中は新型ウィルスの話題で持ち切りですが、世界が全滅しかけた9年前に比べればその脅威は微々たるものです。もしも、恐怖や不安に捕らわれそうになった時は、もう一度あの時を思い出し、与えられた命の重さを感じてみてください。そして、今できる適切な予防、適切な対処を行い、時には他者を助けつつ、自身やご家族を守ってください。

こうしている間でも深淵なる生命の仕組みは、あなたを生かそうと休みなく動いています。だから最善を尽くしたら後は安心して全てを委ねていれば良いのです。そもそも生死とは私たちの意志が遠く及ばぬものなのですから。


 * * *


もしも、あの時与えられた恵み(放射能耐性)が奪われ、突然2011年3月11日以前の肉体に戻されたらいったい何が起こるのかを思考実験してみました。

これまで放射性物質で汚染された食品をさんざん取り込んだ肉体は、直ちに免疫不全を起こし初め、数日から数週間の間に破滅的な多臓器不全を発症させるでしょう。おそらく長くて半年生きるのも難しいだろうと予想されます。

また、体内より放たれた放射線の電離作用により一気に肉体の陽電化が進み、身体からは激しい電気的放射が観測されるはずです。

実はこれ、SNS上などで公開されている新型コロナウィルスに罹りパタリと倒れたとされる人の症状にも該当するのです。

あくまでも推測ではありますが、生命の仕組みには、ひたすら命を維持するだけでなく選択的にそれを奪う機構も備わっているのではないかと考えられるのです。私は仮にそれを「選択的排除」と呼びますが、果たしてそれがどのような時に発動されるのかは不明です。

少なくとも、第二次世界大戦の末期にそれが発生した形跡があり、大戦で戦略的に必要のない特殊爆弾(原爆)を使用し終戦を急がせたのも、本土決戦を決意していた日本軍部があっさりと終戦を受け入れたのも、実は当初の戦争シナリオにない緊急事態が軍内部で発生したからではないかとも考えられるのです。

もしかしたら、今回の新型コロナウィルス騒ぎがその答を示してくれるのかもしれません。

医学の適用範囲を超えた何かがある時ふと自分の身体に起こる。それがどのようなものなのか、私たちに予測する術はありません。もしも読者様に大事な人がいらっしゃるなら、どうぞ元気な内に、悔いが残らないよう感謝の言葉を伝えておいてください。


ET PROCEDENT QUI BONA FECERUNT IN RESURRECTIONEM VITAE QUI VERO MALA EGERUNT IN RESURRECTIONEM IUDICII
善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
(新共同訳聖書 ヨハネによる福音書 第5章29節)


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管理人 日月土
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陽電化する日本人(3)-9月25日の奇跡

前回記事「陽電化する日本人(2)-世界滅亡前夜」に続き、福島第一原発(福一)による放射能汚染の顛末についてお伝えします。シリーズ最初からのお約束通り、今回は9月25日の奇跡について触れたいと思います。

今回は、フィリピンに避難した当時の同僚であった、J君への手紙という形でお伝えしたいと思います。本人へ実際に送ったほぼ同内容のメールを、個人情報を伏せてそのまま掲載します。


J、こんにちは。元気にしてる?

もう読んでるかもしれないけど、2011年当時の血液観察に関する記事を書きました。

あれから色々調べ、あの時、世界はもう長くないと感じたあの感覚はやっぱり間違いではありませんでした。本当だったら我々も多くの友人たちの後を追って2012年にはあの世に逝ってたでしょう。

今でもこうして生きてるのは、後から分かったことだけど、あの日に起きた出来事がきっかけだったんです。その日、Jと一緒だったかどうか覚えてないけど、いつものカフェからそろそろ帰ろうかという頃、毎日暑さと放射線で参っていたのに、何故かその日は妙に頭がクリアだなと感じることがありました、

 その日とは2011年9月25日。

我々は、日本に帰国してからもずっと、汚染された食べ物に苛まれ、そして食材に気を付けていたけど、周りはそんなのを気にしない人、陽電化して感覚が鈍化した人ばかり。いつか世の中の崩壊が始まると思っていたけど、そのまま何年も平常の時が過ぎて行きました。

こうやって生きてるのだから別に気にしなければ良いだけの事だけど、それでも気になるので、この奇妙な延命の謎について時々思い出しては調べていました。そして、昨年になって、ようやくその理由が分かり、納得した次第です。

結論だけ言えば、その年の9月25日、体内のNICによる主力免疫システムが、我々が観測していたカルシウム系から、珪素(けいそ)系に転換したことが大きな理由です。こうなるとこれからはNISと呼ぶべきかも知れませんが。他の研究者から聞いたところ、珪素系NICの負電荷量はカルシウム系のおよそ150倍で、フィリピンに居たときに通常の100倍濃度の濃縮液でやっと内部被曝による人体破壊に対応できていたことを考えれば、概ね妥当な値だと言えます。簡単に言うと、我々の放射能耐性があの日に突然150倍になったのです。

もちろん、何もかも突然起きた訳でなく、そこに至るプロセスがあります。前段として、福島の放射能を拡散したものの、収束プロセスに完全に失敗した災害計画者側が、今度は自分達が生き残るために、慌てて大量の二酸化珪素の微粒子をケムトレールで散布し続けたのです。そのために世界中の化学工場が、フル稼働で珪素水溶液を生産したそうです。その一つかどうか分かりませんが、渦中の2011年、九州にある三菱重工業出身のエンジニア集団が経営する理化学系企業を訪ねた時、水溶液化された珪素水のサンプルを見せられて「今回の放射能なんて全然大したことありませんよ」と自信たっぷりに言われたことがありました。今思えば、その企業も珪素水の大増産に関っていたようですね。そして、その余裕に見えた発言も、裏を返せば世界滅亡危機を認識した上での精一杯の虚勢であったことも理解しました。エンジニアですからね、それくらいの先読みはしますよ、大丈夫だと言ってくれたのも先行きを絶望視していた私をあれで励ましてくれていたのかもしれません。

しかし、珪素水を大量散布したところで、環境中の正電荷をいくらか軽減するだけで、膨大な放射性物質汚染の前には付け焼刃であることには変わりません。放射性物質は何年、何十年も放射線を出し続けながら世界中に拡散しますからね、いつか人が追いつかなくなります。人類全体をいくらか延命はできても、それから数年以内の世界の崩壊は避けられなかったでしょう。ところがです、放射性物質同様、大量の珪素溶液が環境中にばら撒かれたことによって、珪素があらゆる動植物の体内に取り込まれ、そして、それが突然、地上に生きる生命体の免疫システムとして機能し始めたのです。

大量の珪素があったから転換が可能となったのは事実ですが、大量の珪素は必要条件でしかなく、それが転換そのものが始まった理由ではありません。これは私にもさっぱり分かりません、奇跡、あるいは神の慈悲としか言いようのない何かによって導かれたのです。

最近計測された関東の土壌には、汚染度合いがチェルノブイリ基準における移住勧告相当以上の場所がまだまだあります。そんな汚れきった国土の中で、自分を含めたほとんどの日本国民は汚染食品を食べ、生き続けています。これも全てNIC転換により可能になったことですが、もしもこの奇跡がなければ、日本に限らずこの地上の生存者は今頃1000人未満となっていたことでしょう。いや、それすら私の希望的観測かもしれません。どちらにせよ、世界は滅亡するしかなかったのです。

それにも拘わらず、熱さも喉元を過ぎれば人はそれを忘れ、社会は今、当たり前のように原発を再稼動させています。

我々は、あの時一度死んでいるのです。それでも「生きろ」という大きな意志の導きでこうして生を享受しているのに、人は同じ失敗の道を再び歩もうとしている。つくづく、人の愚かしさが悲しくなります。

Jは当時の破滅への警鐘をリアルに体験した一人です。どうかこの時の教訓を忘れずに、皆に大事なものは何かを伝えていってください。一度死んだと思えばできないことはないはずです。

長くなったね。すまん。

令和元年9月吉日
日月土

追伸

・国が食品汚染の許容レベルを1ベクレル/kgから100ベクレル/kg、年間被曝許容量を1mシーベルトから100mシーベルトへと、100倍も大きく引き上げたのは、こういう根拠があったからのことです。何てことはない、国家中枢にこの事実を知ってる人間がいるということです。

・フィリピンの被曝治療研究で学んだこと、それは、治療とは己の身体とこれから生きていく環境の両方に対して施さなければならない、ということです。環境と個々の生命体は分離できないということになるかな。被験者に大きな負担を負わせて、再び汚染地に送り返すようなことを続けてても、それはおよそ治療とは呼べない行為だったのです。むしろ、根気強く原発の危険性を訴え続けてきた運動家の方々の方が、被曝に関してはよっぽど治療家と呼ばれるに相応しいと思います。


写真:2011年に訪れた珪素水を製造していた企業の内部(九州某所)


当時まだ20代前半の若者だったJ君は、今では結婚し、父親となっています。これは、手紙に書かれた当時の状況からは、本当に予想もできなかった僥倖です。今はただ、この記事を読んでくださった全ての皆様に、同じように幸せが訪れることを願って止みません。もしも、何か苦しいことがあったら思い出してください、皆様はあの時、2011年のあの時に、大いなる意思によって「生きる」ことを許された存在であることを。そして、ほんの少しでよいですから、世の中を今より楽しく良いものに変えて行ってください。


ADHUC MODICUM ET MUNDUS ME IAM NON VIDET VOS AUTEM VIDETIS ME QUIA EGO VIVO ET VOS VIVETIS
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
(新共同訳聖書 ヨハネの福音書 第14章19節)

※通常解釈では「わたし」とはイエス・キリストのことですが、ここでは、皆様の血中細胞に生命維持信号を送り続ける大自然の意思と読み替えてみてください。読者の皆様はこの「わたし」なる存在を見るようになったのです。


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管理人 日月土
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