松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

橋本五郎さんの文庫がある、三種町鯉川。

2015-06-05 16:23:00 | 日記・エッセイ・コラム

 いつも通るたび、気になっていた看板がある。国道7号に「橋本五郎文庫」と書いてある看板だ。そこを入ってみた。別段他と変わらない人気(ひとけ)のない集落に、集団でお年寄りが野良着姿であるいていく。そのまま行くと、いかにも昔学校だった建物に着いた。橋本五郎文庫は「いづだり・かづだり」開いているわけではないらしい。でも人がいて、閉館日だけどいいですよ、と通していただいた。

 2万冊の中身が気になっていたが、ごく一般的な図書館と同じような分類があった。政治的な色彩は、このおじさんの本だけだった。

 建築家・安藤忠雄と親交が深いらしく、コーナーが設けられていた。驚いたのは揮毫(きごう)がスゲー有名な人だったことだ。

 橋本さんが生まれた場所は、浜鯉川という。

 しかし浜という割には、海から遠い。八郎潟を超えて、男鹿まで行かないと海は見えない。八郎潟が広かったからかも知れないが、もう一つ思い当たることがある。それは、八郎潟を経由して日本海を交易する船が往来していたからかも知れない。証拠はある。それは「堂ノ下遺跡」の存在だ。

 自動車道整備のため地質調査をすると、あちこちから遺跡が出てくる。その中でも堂ノ下遺跡は、旧石器時代から縄文・弥生、平安時代の製鉄炉跡までそろった注目すべき遺跡だ。男鹿高校が廃校になって、埋蔵文化財センターの分室となった時、見たが、中庭に鉄滓の山が二つ出来てしまった。重い鉄の塊りが次々運び込まれて、中庭を占領してしまった。あの量を見たら、製鉄炉の規模が小さくなかった事が一目瞭然だ。鉄製品を運ぶのに、船は有効だったに違いない。

 帰りに集会所の前を通ると、いやでも目に付くカラフルな集団がいた。ご婦人方がカラッと並んだ姿が、かわいらしくて目に留まったのだと思っていたが、着ているものが、それぞれ柄や色あいがうまく組み合わさって、昔の絣(かすり)の着物を連想させる。地元老人クラブの花壇作り作業の後の憩いのひと時だった。平均年齢約75才。皆さんお元気そうだった。

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