日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

逆説

2019-12-12 12:54:58 | Weblog
 私には、小さい時からの読書の習慣がありませんでした。「本を読まない人は、駄目です。生きていて経験できる量は、本の世界のほんの一部分でしかありません。先人は、本の中で、いろんな貴重な事を教えています。」って感じで言う人が多くて、私も、それを信じていたので、それなりに、コンプレックス、更には、国語不得手の気持ちをずっと持ち続けていました。
 ところが、それと真逆のことを言う人がいて・・・ちょっと、いや、かなり考え直している所です。
 本をメチャクチャ読んでいる人、実際にそんな人と接しても、そうかなと思うこと、少なからず経験します。そんな人、本に書いている事が真実と思い込み、自分なりに考える習慣が欠けているのではとも、思う様になってきています。
 本屋さんには、生きる上で、とても役に立つ感じの本が、沢山陳列されていますが、それ等の本をしっかり読んだからと言って、その人が立派になっているかと言うと、そうでもない感じですが?人って、やはり、行動力がないと、意味ない感じですが(←アフガニスタンで活躍していた中村哲さんも、実行力を一番大切にしていましたね!)
 社会に出ると、経験不足だと、まず、教科書を読み、実践編の本を読む傾向にあります。医療の世界でも、経験不足の医師は、特に、そんな感じです。命が掛かっていますので、極めて慎重です。でも、次第に、実地では、そうも行かないケース、経験してきます。患者さんにしても、皆が皆、医療側の意見に素直に従わないケースも多いですから。
 金科玉条にしてきたマニュアル本が、突如、変更になることも、しばしばです。そうなっても、責任取ってくれません。医療って、まだ、はっきりしていないこと、沢山ありますから。例えば、小児の喘息発作での乳児の吸入液メプチンの量が、いきなり、倍量になったりとか・・・アルコールは、健康上、全く取らない方が一番いいなど・・・。.
 知識が増えると、賢くなった感じになりますが、今では、スマホで調べれば、疑問点、直ぐに回答が出て来ます。今からの問題は、それで回答が出せない場合ですね。
 医療で言えば、いろんな疾患が一緒になっていたり、薬が沢山あって、その薬の副作用で、症状が出たりもしていたりして(薬の相互作用なんて、そんなにはっきりしていないこともあるし・・・)・・・。
 テレビでは、知識の多さが、頭の良し悪しを決めている感じになっていますが、それは、単なるある面での素晴らしさで、頭の良さも、いろいろある訳で・・・。
 そう思うと、今の教育、決められたものを皆が覚えさせられ、それで評価され、それにはずれると、よく思われなかったり、批判が集中したりすることもありますね。ある高校で、ある女子学生が、アメリカに留学したい旨を教員に相談すると、よってたかって、周りの教員が、辞めた方がいいと言っていたとか(←私が教わったアメリカから来たALTの先生から聞いた話ですが)。これでは、個性って、育ちにくいですね。今や時代は、年功序列、終身雇用がなくなり、多様な個性的な生き方が大切にされる時代になろうとしているのに・・・。
 名門校を出て、知識が多くなって、賢くなった感じになっていますが、認知症が一番多いのは、国家公務員とか?!
 エリート、実際は、手抜きする術を心得ている傾向になっているのでは?!国会での答弁を見ていると、実に、逃げるのが上手ですね。嘘を平気で言ったりすることもあったりして・・・。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の反対の傾向にあるのかな?
 偉くなった人、一度、給料の高い、いいポストに就くと、いつまでも、その地位にしがみつく傾向にある様に見えるのは、私だけでしょうか?

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フリーランスドクター

2019-12-07 13:11:17 | Weblog
 令和元年7月31日に退職して、5ヵ月目に入りました。気分的には、辞めて1年近く経った感じですが・・・仕事を全くしてないのに、それが、結構忙しくて・・・。
 私の身体のメインテナンスが、お陰様で峠を越し、今は、家内の検診と自宅のメインテナンスで、それなりに気を使っていますが。
 身体がまだ自由に動けて、楽しい趣味も私なりに沢山あるので、毎日が、楽しいです。
 東北の旅、ロシアの旅、スペインの旅、北欧の旅など、焦ることなく、今から実行しようと、それなりに計画を立てていますが。
 今まで、いろんな事がありましたが、私なりに頑張り、又、運良く、多くの人に助けられて、ここまで無事に来れています(ホント、感謝感謝です!)。
 私の場合、昭和24年生まれで、最後の団塊世代で、現役での大学受験の時は、その時の浪人が加わって、難関で、翌年は、東大中止の時で、更に難関って感じで、何とか、二浪して、地方の国立大学医学部に入れました。
 大学では、受験勉強と同じ感じで、予習をして、(これ以上、親に苦労を掛けたくなかったので)留年しない様にと、しっかり勉強しました。取れる単位は全て取って(110単位)、マイペースで、2年間の教養課程を終えて、専門課程に上がりました。
 専門課程に上がると、いきなり、朝8時半から凄い量と奥深い内容の講義が始まり、午後は、実習で、夜は、レポート書き、やっと長い夏休みや冬休みになったと思ったら、休みの初めと終わりにしっかりと試験があったりして、休みの時も、勉強勉強勉強って感じの4年間の専門課程でした。
 オイルショックの時で、物価がどんどん上がり、お金がなくて、食事もしっかりと食べていませんでしたが、やる気が失せることは、終始ありませんでした。
 医師国家試験が、年毎に難しくなり、大学入学時は、合格率が99%前後もあったのに、卒業時には、80%前後になっていました。その時は、まだ、医師国家試験の回数が、春秋の2回あり、春に落ちても秋に受ければいいと思う人が多くて、今ほど、深刻ではありませんでした。
 国家試験を終えて、父の誕生日の4月18日に結婚式を挙げ、無事に、国家試験にも合格し、昭和51年6月から、宮崎県立宮崎病院小児科勤務になりました。月8万円で、それからいろいろ引かれ、家内の貯金で何とか食いつないで生活していました。
 朝、早くから行き、忙しく仕事をしていました。1ヵ月もすると、上司に助けられながら、もう、小児の救急をしていました。初めから引き継ぎの4人の入院患者さんを受け持ち、しばらくして、10人以上の入院患者さんを受け持ち(当時、100人近くの入院を5人で分けてしていました)、新生児・未熟児もあって、激務で、体ごと覚えて行った感じでした。
 そこでの1年4ヵ月間の研修の終わり頃、あるナースから、「上手になったね、ホント、凄い!」と言われて、とても嬉しかったのを覚えています。
 昭和52年10月から、宮崎医科大学の外来診療が始まり、それに合わせて、そこでの小児科勤務となりました。幸いに、初めから文部教官で、住まいに恵まれ、給与もそれなりに恵まれ、宮医大の学生さんの教育にも関わり、充実した生活でしたが、超忙しい毎日でした。何せ、初め、医師が7人しかいないのに、外来も入院も当直(5日に1回、回って来ましたが)も救急も教育も、それに研究の為のデータ集めもしたりして。
 教室が、循環器を中心にしていたので、心臓カテーテル検査をよくしていました。そこで2年半勤務した後に、(医局員数に少しゆとりが見れる感じになった)昭和55年3月に退職して、周囲のドクターの意見を振り払って、「フリーなドクター」になりました。
 郷里の大分県佐伯市にある救急病院「西田病院」に、小児科を新設して頂き、「新生児未熟児センター」までも、開設して頂いて、自分なりに頑張ることにしました。その間、先代(産婦人科医)の理事長が亡くなり、継いだ長男さん(産婦人科医)も亡くなり、私の身体も(独り常勤医では)次第にきつくなってきて、やむなく、10年半余勤務後に(←8年半、独りでの小児科常勤医でしたが)、退職しました。辞める前は、患者さんが多く、朝、7時半から診療を、夜は、20時から必ず集めて診て、毎日が、睡魔との闘いでした。
 このままで身体が壊れてしまうと思って、平成2年10月、仕方なく、入院設備を持って(19床)、救急医療中心の開業生活を泊まり込みで始めました(土曜日は、自宅で宿泊していましたが)。しかし、私には、経営の能力は、ど素人で、能力がないと言うことが次第に分かってきました。
 新生児医療がなくて、それなりに楽な点もありました。どこにも行けないので、それなりに、趣味に懲りました。和太鼓、茶道(茶名も、家元から頂きました)、書道(築城なる雅号も、頂きました)、多国語、本出版(為になるかも知れない本、2冊出版し、全国の医学部80校全てに配りましたが)、太極拳(太極剣)、謡曲など、真剣にしました。
 経営的に先細りとなり、(義理の弟の)公認会計士と相談して、平成11年5月、8年半余で、(赤字になる前に)やむなく、閉院しました。
 その後、福岡県大川市にある「高木病院」に就職する前に、長女と長男と3人で、佐伯市の姉妹都市(オーストラリアのグラッドストーン市)に行き、私は、そこでの国際フェスティバルで、仕舞・篠笛・和太鼓を披露しました(アメリカ留学していた長女が上手く通訳してくれました)。
 「高木病院」では(それまでの16年間、小児科医不在)、東大小児科教室の先生達と一緒に、2年6ヵ月一緒に仕事をしていましたが(5日に1回、当直)、スタッフが全員引き上げることになり、やむなく退職し、平成14年5月から、大分市戸次にある「天心堂へつぎ病院」で、勤務することになりました(←小児科医不足で困っていました)。
 そこで、又、若い時の様に頑張っていたのですが、(ドックの部屋にずっと泊まり込んで小児の救急医療をしていたりもして)身体が付いて行かず、流行性角結膜炎になり、その後遺症で苦しみ(角膜に傷が付いてしまい)、私の漢方薬の使い方のことでいろいろあり、平成16年8月、退職しました。もう、医師をする元気も無くなり、かねてから夢見ていた「海外旅行と海外演奏」をすることにしました。
 海外演奏は、姉妹都市のグラッドストーン(2回)、韓国の清州市(2回)と浦項市、佐伯市の友情都市のホノルル(←調印式の時に)、タイのチェンマイ、ニュージーランドのオークランド、バングラデシュのダッカ、カナダのトロント(←この時のみ、集団で)で。
 1年間、全く仕事をしない状態から、熊本県にある「上天草市立上天草総合病院」(小児科医が不在になっていました)に就職し、(私の好きな教育と私なりの医療が、マイペースで出来て)居心地とても良くて、12年間近くも、いました(←その半分ほど、小児科医、私独りでしたが)。
 小児科の医師として、このままこの天草で終わりにしようかとも思いましたが、佐伯の自宅に年1~2回しか帰ってなかったし、何か、故郷が恋しくなって、佐伯に帰る前に、佐伯に近い延岡市にある(52床の)井上産婦人科の病院に就職することにしました。
 独り小児科常勤医で、新生児を受け持って、週6日の勤務はきつくて、70歳になったこともあり、常勤医は、もう無理と思い、無理言って、井上病院を退職しました。
 木曜夜9時からの米倉涼子主演の「ドクターX」を長いこと、ずっと見てきていますが、気が付きました、私、失敗しないのででなく、医師になって早くから、私、(気分は)フリーランスドクターでした。





  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子育て

2019-12-04 19:55:43 | Weblog
 自分の子育てが良かったのかどうか、よく分かりません。今の所、まあ、良かったのかなとも思いますが、ずっと先々まで見ないと、分かりませんね。
 長女が産まれた時、私は、宮医大の小児科勤務でした。医大の開院当初で、とても忙しく(小児科の医師は、自分も入れて、わずか7人で、その内、私が一番下で)、朝、8時には、病院にいて、帰りも、夜の10時過ぎまでと言う生活が大半でした。
 で、長女、よく眠る子だなあと思っていましたが、後でよく考えてみると、長女が起きている時、私は、殆ど家にいなかったのです。で、土曜も日曜も祝日も、仕事で病院に行かない日は、殆どなくて、看護師さんから、「仕事の虫・・・」なんて言われていました。
 次女が、「車があるといいなあ・・・」と、よく言っていました。直ぐに行きたい所に行けるからとの理由で。「うちは、お金がないから、買えない・・・」と家内が理由を説明していましたが、近所の人が、「そんなことはないよ、買えるはず・・・」なんて言って、次女も、どちらが本当か、考え込んでいるようでした。
 車がないので、よく、皆で、佐伯の土手を歩いて、散歩したりしていました。時に、弁当を持参して。
 末っ子の長男が、小学生の時、ファミコンを欲しがっていましたが、私は、ガンとして、買ってあげませんでした。周りが殆ど持っていたので、それで友達と話が合わす、家で出来ないので、友達の家でそれをしていました。で、家内からも、もう、買ってあげたらと言われたりもしましたが、それでも、私は、買ってあげませんでした。
 でも、三人の子ども達、いろんな難関にぶつかりながらも、それなりに成長し、結婚し、子どもも出来、幸せそうです。
 私が、子育てで、終始、一貫してしなかったこと、それは、進路の強制でした。進路は、子ども自身に全て任せ、結婚も(結婚式を含めて)、当然、子ども達に任せました。
 私の子育てで良かったかなと思うことは、お金を残すことなく、精神を残そうと思って、(近所の子どもを含めて)三人共に、茶道を教えた事です。よく、次女と長男に、お茶会で、お茶を点てさせて、私が、後見人をしていました。お茶会でのそのお茶代のお金は、全て、寄付していました。
 子育ては、子どもが、その子どもの子どもを上手く育てられて、親の役割がやっと終わると思っています。





  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永い一日

2019-12-03 15:10:22 | Weblog
 令和元年12月2日(月)、朝、(血圧の薬を飲む時に)水一杯飲んだだけで、食事を摂らず、10時過ぎからの大腸検査の為に(←今まで、2回していますが、いずれも、S字状結腸まででした。)、南延岡駅から電車に乗って、宮崎駅から宮崎市にある生目の大腸肛門外科内科に行きました。(←血便があったので・・・)
 その前日(12月1日)は、そこから指定された昼食と夕食だけを摂り、19:00に、下剤の液300ml+水200mlを飲んでいました。
 受付時刻、ギリギリ(バスで行って)間に合って、実際は、11時から、下剤を100mlずつ、5分おきに1000ml飲み、その後、続けて水を500ml飲みました。(←便が水様になるまで、粒が完全になくなるまで!)
 1500ml飲んだ後、30分飲まずに、しばしばトイレに行き、その間、しばしば、歩き回り(←腸をよく動かす為)、それでも、完全に透明にならない為に、更に、下剤400ml、その後、水を200ml続けて飲んで、やっと、検査OKの許可が出ました(全部で、2100ml)。
 この日、検査までに、排便でトイレに行った回数、家で2回、電車の中で1回、宮崎駅で1回、そして、ここで14回、総計18回にもなりました(←こんな事、初めてでした。)。(便を7回程、看護師さんからチェックしてもらいましたが、もう、こうなると、恥ずかしいを通り越して、看護師さんと同士って感じでした?便の粒がなくなるまで、それが続きました。)。
 トイレ内に手洗いがなくて、それが、トイレの外にある為に、いつもの清潔不潔があやふやになった感じで、自分が排便した便も、何か、親しみを覚えて来て、それを看護師と一緒になって楽しく(?)見ている自分に気が付きました。
 この日、検査する人は10人いて、私の飲み始めの順番は、9番目でした。この日、何度もお互いに目が合い、臭い中での無言の顔見知りになった感じで・・・?!
 それから、血圧を測り、最後の問診を受け、服を着替え、(生理食塩水の)点滴をし、しばらくして、検査となりました。
 点滴して待っている時に、隣に座った75歳前後(?)の人に、「この検査きついですね!」と言うと、次の様に言われました。(←同じ検査9人と話したのは、この時のみでしたが)
 「いや、自分はそう思わないです。たいしたことないです。痔があって、ここで診てもらうと、痔の人は、ポリープがあることがある・・・と言われて、で、大腸検査して、長いポリープが一つ見つかり、取り、生検し、ガンでなくて、それ以後、これで3回目です。ここは、評判が良くて、どんどん患者さんが多くなっています。」と言われました。
 そうなんだ、たいしたことないんだと思い直して、話が次第に盛り上がっていた時に、自分の検査が来ました。
 (こちらの希望で検査中に)セルシンとブスコパンを使って頂いて、少しボーとした感じで、全く痛くない感じで、検査しているドクターと楽しく会話しながら、自分の大腸内部の画像を見ながら、20~30分程の特殊な未知の世界で、無事に検査が終わりました。
 少し横になって、正気になってから、検査したドクターからの説明があり、生検の必要なし、ポリープ全くなしの結果で、良かったです。
 「便秘を治せば、(内)痔核は、軽快するでしょう・・・」と言われ、マグミットをもらって、次回何かあればって感じで言われて、(最高の検査結果で!←上行結腸に問題にならない程の小さな憩室が3つ程ありましたが)終わりました。
 夕方5時前に、そこを出て、バスで宮崎駅まで行き、そこで、付き添いの家内(←待合室でずっと待ってくれていて、ホント、お疲れ様でした!)と一緒に、夕食で、いつものチキン南蛮(←らくいのそれ、最高!)を食べて、帰りました。
 永い永い1日でした。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする