今日のこの記事のカテゴリー分けは何にすればいいだろう。
「思い出」にするには早すぎるが、思い出であるのが事実だから「思い出」に入れておく。
また母のことであるが、すでに書いたかもしれないが、私は、母とホテルに泊まっていて、母が死んでいるのに気づいたのは朝だった。
が、午前2時過ぎに一度目覚めたときに母はぐっすり眠っていると思ったが、あとから考えると、このとき既に死んでいたかもしれない。
夜9時くらいだったか、私が眠ろうとしていると、母が独り言のように、
「病院だったら酸素吸入してもらえるから楽になれるけど」
と言ったことを覚えている。
それで、その夜は、翌朝は早く朝食を摂り、速やかに病院に送ろうと思って寝た。
夜中の2時ごろに目が覚めたとき、朝すぐに出られるようにと自分の荷物をまとめたりした。
母の荷物は、朝まとめてやらないといけないから、とりあえず自分の荷物はまとめておこうと思ってのことだった。
そのことに気持ちが捉われていたから、母が死んでいるのを眠っていると勘違いしたのかもしれない。
私自身、自分ではそう思っていなかったが、寝ぼけているところもあったかもしれない。
母は亡くなる前の日の朝、私に、「あなたはよく眠っていた」と羨ましそうに言った。
私は母に、「人が眠っていることがそんなに羨ましい?」と聞いたことを覚えている。
母はたぶんよく眠れなかったのだろう。
その夕方、私が大阪から夜のバスで来るまで、母はホテルで眠っていたと言っていたから、そのせいで夜眠れなくなっていたと解釈したのだったが、あるいは死が近づいて眠れなくなっていたのかもしれない。
私も心臓弁膜症で死にかけていたとき、何日も眠れなかったし、何も食べられなくなっていた。
そのことを思い出した。
その亡くなった前日の朝は、甥の家族と一緒に朝ご飯を食べることになっていたから、母を急き立ててホテルのレストランに行った。
その後、近くの楽器店のピアノを借りて、甥の子(母の曾孫)のピアノ演奏を聴いた。
それからホテルに戻ってから、母は一日中寝ていた。
よほど疲れたのだろう。
母を寝かせてあげるために、私は部屋を出て、近くを散歩したりして、午後戻ってくると、母はまだ寝ていた。
母がミカンが食べたいと言ったが、ちょうど私はミカンやビスケットを買ってきたところだったので、それを言うと母は安心したようにまた寝た。
その後、私のほうが、前の日の疲れが出て夕方まで寝込んでしまっていた。
夕食の時間になっても起きない私を起こしたのは母だった。
亡くなる前日の夕食を母は「おいしい、おいしい」と言って食べた。
部屋に戻って、私は、また間もなく寝た。
私も、よほど疲れていたのだろう。
次に目覚めたのが夜中の2時過ぎだったわけだが、そのとき母は熟睡していた(ように見えた)
「昨日の夜はよく眠れなかったらしかったから、よかった」と私は思った。
異変に気付いたのは、私が二度寝して目覚めた午前7時半だった。
「7時に朝食を食べにいく約束をしていたのに寝坊してしまった」と思いながら母を見ると、母は夜中に見たと同じ姿勢で熟睡している。
このとき「ん?」と思った。
母を触ると、まだ温かかったが、呼吸していなかった。
救急車を呼ぶことを思いついたが、大騒ぎになるといけないと思って、兄嫁にメールして病院の主治医の先生に連絡してもらった。
主治医の先生の指示は、「救急車で病院に運んでください」だった。
もうすでに呼吸をしていなかったが、救急隊の方は懸命に心臓マッサージをしてくださった。
病院に到着すると、主治医の先生が待ち構えてくれていて、私は別室で待たされた。
しばらくしてから、主治医の先生は、私のところに来て、私の肩を抱いて、
「大往生でございました」と静かに言ってくださった。
このときの、主治医の先生の心のこもった対応は忘れることができない。
先日読ませていただいた歌人の馬場あき子さんは、お連れ合いの岩田正氏を、私の母と同じ
心不全で亡くされたあと、取り調べのようなことをされたと歌に詠われている。
私の母のときは、そういう取り調べが一切なかったのは、これも主治医の先生のお取り計らいのお陰だったかもしれないと今になって思える。
主治医の先生、どうもありがとうございました。
生前入院中は、人並み外れたわがままな患者であった母の死に際しての気配りには、いくら感謝しても感謝しきれません。
お読みくだっているかどうかわかりませんが、ケアマネさんも、私の母には悩まされながらも、最後まで温かくお見守りくださり、ありがとうございました。
その他の皆様にも、厚くお礼申し上げます。
遅ればせながら・・・。
*
・亡くなりて二十六日目の今日に気づき敬礼すなり四方に
・亡くなりてゐるに気づかず寝てゐると思ひしあの夜母は死にゐき
「思い出」にするには早すぎるが、思い出であるのが事実だから「思い出」に入れておく。
また母のことであるが、すでに書いたかもしれないが、私は、母とホテルに泊まっていて、母が死んでいるのに気づいたのは朝だった。
が、午前2時過ぎに一度目覚めたときに母はぐっすり眠っていると思ったが、あとから考えると、このとき既に死んでいたかもしれない。
夜9時くらいだったか、私が眠ろうとしていると、母が独り言のように、
「病院だったら酸素吸入してもらえるから楽になれるけど」
と言ったことを覚えている。
それで、その夜は、翌朝は早く朝食を摂り、速やかに病院に送ろうと思って寝た。
夜中の2時ごろに目が覚めたとき、朝すぐに出られるようにと自分の荷物をまとめたりした。
母の荷物は、朝まとめてやらないといけないから、とりあえず自分の荷物はまとめておこうと思ってのことだった。
そのことに気持ちが捉われていたから、母が死んでいるのを眠っていると勘違いしたのかもしれない。
私自身、自分ではそう思っていなかったが、寝ぼけているところもあったかもしれない。
母は亡くなる前の日の朝、私に、「あなたはよく眠っていた」と羨ましそうに言った。
私は母に、「人が眠っていることがそんなに羨ましい?」と聞いたことを覚えている。
母はたぶんよく眠れなかったのだろう。
その夕方、私が大阪から夜のバスで来るまで、母はホテルで眠っていたと言っていたから、そのせいで夜眠れなくなっていたと解釈したのだったが、あるいは死が近づいて眠れなくなっていたのかもしれない。
私も心臓弁膜症で死にかけていたとき、何日も眠れなかったし、何も食べられなくなっていた。
そのことを思い出した。
その亡くなった前日の朝は、甥の家族と一緒に朝ご飯を食べることになっていたから、母を急き立ててホテルのレストランに行った。
その後、近くの楽器店のピアノを借りて、甥の子(母の曾孫)のピアノ演奏を聴いた。
それからホテルに戻ってから、母は一日中寝ていた。
よほど疲れたのだろう。
母を寝かせてあげるために、私は部屋を出て、近くを散歩したりして、午後戻ってくると、母はまだ寝ていた。
母がミカンが食べたいと言ったが、ちょうど私はミカンやビスケットを買ってきたところだったので、それを言うと母は安心したようにまた寝た。
その後、私のほうが、前の日の疲れが出て夕方まで寝込んでしまっていた。
夕食の時間になっても起きない私を起こしたのは母だった。
亡くなる前日の夕食を母は「おいしい、おいしい」と言って食べた。
部屋に戻って、私は、また間もなく寝た。
私も、よほど疲れていたのだろう。
次に目覚めたのが夜中の2時過ぎだったわけだが、そのとき母は熟睡していた(ように見えた)
「昨日の夜はよく眠れなかったらしかったから、よかった」と私は思った。
異変に気付いたのは、私が二度寝して目覚めた午前7時半だった。
「7時に朝食を食べにいく約束をしていたのに寝坊してしまった」と思いながら母を見ると、母は夜中に見たと同じ姿勢で熟睡している。
このとき「ん?」と思った。
母を触ると、まだ温かかったが、呼吸していなかった。
救急車を呼ぶことを思いついたが、大騒ぎになるといけないと思って、兄嫁にメールして病院の主治医の先生に連絡してもらった。
主治医の先生の指示は、「救急車で病院に運んでください」だった。
もうすでに呼吸をしていなかったが、救急隊の方は懸命に心臓マッサージをしてくださった。
病院に到着すると、主治医の先生が待ち構えてくれていて、私は別室で待たされた。
しばらくしてから、主治医の先生は、私のところに来て、私の肩を抱いて、
「大往生でございました」と静かに言ってくださった。
このときの、主治医の先生の心のこもった対応は忘れることができない。
先日読ませていただいた歌人の馬場あき子さんは、お連れ合いの岩田正氏を、私の母と同じ
心不全で亡くされたあと、取り調べのようなことをされたと歌に詠われている。
私の母のときは、そういう取り調べが一切なかったのは、これも主治医の先生のお取り計らいのお陰だったかもしれないと今になって思える。
主治医の先生、どうもありがとうございました。
生前入院中は、人並み外れたわがままな患者であった母の死に際しての気配りには、いくら感謝しても感謝しきれません。
お読みくだっているかどうかわかりませんが、ケアマネさんも、私の母には悩まされながらも、最後まで温かくお見守りくださり、ありがとうございました。
その他の皆様にも、厚くお礼申し上げます。
遅ればせながら・・・。
*
・亡くなりて二十六日目の今日に気づき敬礼すなり四方に
・亡くなりてゐるに気づかず寝てゐると思ひしあの夜母は死にゐき
結社にも在籍していましたが、今はフリーとなり、そんな者同士で短歌会をやっています。
高知行のバス、乗ってみたいと思います。
貴ブログも読ませていただきました。
72歳でいらっしゃるということは昭和
20年のお生まれでしょうか?
宝塚市の清荒神にお住まいですか?
私の最寄り駅から五つ目の駅になります
でしょうか。
宝塚だから、「すみれの花咲くころ」で
すみれさんなのですね。^^
40年も短歌をなさってこられたとは、
大々先輩でいらっしゃる。
道理で、お上手なはずですね。
私は平成10年に始めましたから、今年
4月でやっと20年です。半分ですね。
どうぞ、これからも、時々このブログに
いらして、短歌をご教示くださいませ。
高知行き高速バスは道中の景色がよくて、
何度乗ってもわくわくします。
歌もいっぱいできます。^^
すみれさんも、ぜひ一度!
それから、ハンドルネームで結構ですので、コメントくださるときは、名乗ってくださいませ。
私もですが、読みにこられた方々に不快な気持ちになっていただきたくないですから。
よろしくお願いいたします。m(_)m