中国旅行の3日目、この日は河南省駐馬店市上蔡県にある蔡国の故城遺跡と秦の時代の宰相の李斯のお墓に行ってきました。
蔡国は周代の侯国で首都はこの上蔡県にあり、後の紀元前447年に楚国に滅ぼされました。
街中にはこのような石碑があり、ついでに街の風景も撮りました。
少し移動したところに下の写真のようなお寺というか、建物がありました。上に上ると周りが一望出来ます。
そして下の写真が蔡国の城壁の跡と石碑の写真です。ここは風が強くてドローンでの上からの撮影が出来ませんでした。
蔡国の城壁跡の次は李斯の墓に行きました。
そういうことで李斯について下記のとおり簡単に書きました。
李斯は秦の始皇帝に仕えた宰相です。
李斯の出身地はこの河南省駐馬店市上蔡県ということです。。
李斯は若い時に地元の上蔡県の役所で小役人をしていました。
ある時に役所の厠(便所)に住む鼠を見つけましたが、厠の鼠は痩せて人が入ってくると常に怯えており、また、ある時に食料庫の鼠も見かけましたがここの鼠は丸まる太って人が入って来てもびくびくしていない・・これを見た李斯は自分を生かすか殺すかは環境が全てと思いました。
その後に儒家の荀子(性悪説を唱えた)の弟子になり学びました。
そして秦国に入国して呂不韋の食客となりましたが、呂不韋からその才能を認められ、推薦されて秦王政(後の始皇帝)に仕えました。
李斯は秦の始皇帝に仕え、呂不韋亡き後に始皇帝の信頼を受け、秦の全国統一に貢献しました。
荀子の門下生には韓国の公子の韓非がおり、韓非の著書の韓非子を読んだ始皇帝はこれを書いた人物に会えたら死んでもいいとまで絶賛していましたが、これで韓非が重用されれば自分の地位が危ないと思った李斯は韓非を罪に陥れ、投獄のうえ毒で死なせました。
李斯は始皇帝に周の制度の封建制(君主の下の諸侯がそれぞれ土地を所有して人民を統治する)を取り入れることに反対して郡県制(中央から官吏を派遣して統治すること。中央集権制度。)を説き、政府に批判を行う学者達の著書を焼きました。(焚書)
そして始皇帝を非難していた儒者や方士460人余りが生き埋めにされました。(坑儒)
李斯は丞相となってその政治手腕を振るっていましたが、始皇帝が巡幸の途中に亡くなると、宦官の趙高と謀り偽の詔勅(始皇帝が遺言した跡継ぎは長男の扶蘇であったが、巡幸に同行していた末子の胡亥と書き換えた)を出し、胡亥を二世皇帝に即位させ、扶蘇を自決させました。
胡亥は愚かな皇帝であり、政治から離れて遊んでばかりいました。
その頃、秦の苛酷な法律に反発してあちこちで反乱が起きていましたが、それでも胡亥は外界を見ようとせず(趙高が妨害していたということもある)、阿房宮の造営も止めようとしないので李斯は何度も諌めようとしましたが疎まれて、とうとう趙高の罠にかかって罪を着せられて(当前冤罪です)息子と共に腰斬の刑に処せられました。
その時隣に並んでいた次男に「また故郷(上蔡県)でお前と一緒に黄色い犬(私の昔の記憶なので間違っていたらスミマセン)を連れて兎狩に行きたいな。でも、もう叶わないな。」って言ったそうです。
畑の中の一本道を進むと正面に木が生い茂っている丘のような場所があります。お墓の回りはこういう所が多いです。車では進めませんここはまだ道が良い方です。
石碑があり、草を掻き分けて撮影しました。
周りは整備されて立派なお墓でした。さすが李丞相。ちなみに上蔡県出身の歴史上の有名人は李斯だけということです。
歩いている途中でお爺さんとすれ違い、通訳さんがそのお爺さんに李斯のことを聞いたところ、李斯が腰斬の刑で処刑された後に李斯の弟子が李斯の遺体(首は趙高が胡亥に処刑の印として捧げているので無し。)を出身地のこの地に運んで埋葬し、李斯の身内(父か祖父か)が李斯の末子をつれてここまで逃げて来たということです。
そしてその子孫が現在も墓を守っており、年に一回この墓の前に白い布を引いてお祭をしていると聞きました。
お墓の前で李丞相に拝礼をして、「李丞相、黄泉の国では息子さんと一緒に黄色い犬と兎狩りをしていますか?」と問いかけました。
ドローンで上空からお墓全体を撮影してもらいました。
次回の南陽編に続きます。