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【元横綱千代の富士死去】“ウルフ”の愛称で国民的な人気 昭和から平成へ、国技を支え時代を彩った角界のスターが逝った

2016-07-31 22:31:07 | ニュース
【元横綱千代の富士死去】“ウルフ”の愛称で国民的な人気 昭和から平成へ、国技を支え時代を彩った角界のスターが逝った
19:59産経新聞

 “ウルフ”の愛称で国民的な人気を集めた元横綱千代の富士の九重親方が死去。昭和後半から平成の初めにかけて国技を支え、時代を彩った角界のスターが逝った。

 昭和45年に入門した頃は体重70キロほど。当時の新弟子検査の体格基準を何とか満たした程度だ。関取になっても130キロに満たない細身の体。しかも肩に脱臼癖があった。

 不安を解消するために重ねたのが相撲の稽古に加え、徹底的な筋力トレーニングだ。「弱い箇所があれば、周りを強くして補強すればいいんだ」と鉄アレイを持ち上げ、てっぽう柱には左右の肩を代わる代わる何度もぶつけた。1日2千回腕立て伏せをしたこともあったという。

 黒い締め込みがよく映えるトレードマークの筋骨隆々の体は努力のたまものだった。だから、現役力士に送る視線は常に厳しく、取組の分析を尋ねると「稽古が足りないだけだ」と一言で片付けられることがたびたびあった。

 土俵の勝利を強い気持ちで求められた背景には家族の存在があった。「子供ができたときにはミルク代を稼がなきゃと思ったものだよ」と語っていた。いまではおなじみの光景となっているが、優勝力士が支度部屋で賜杯を抱き、夫人や子供と記念撮影するようになったのは、千代の富士からとされている。

 まだ生後間もない三女が突然死した直後の平成元年名古屋場所。左肩のケガで休場明け。肉体、精神の両面で危機に立たされていたが、数珠を胸に場所入りし、千秋楽は北勝海との史上初の同部屋の横綱同士による優勝決定戦に持ち込む。神がかり的に勝負を制し、まな娘の供養をした。

 平成3年夏場所初日。初対戦だった新鋭の貴花田(のちの横綱貴乃花)に敗れた。新たな世代の波にのまれるように、2日後に引退表明。あと一度賜杯を抱けば、当時最多優勝記録だった大鵬の32回に肩を並べていたが、のちに「その1回がほど遠いんだ」と語っていた。

 横綱に昇進したばかりの頃、師匠の九重親方(元横綱北の富士)から「辞めるときは、すぱっと辞めようぜ」と説かれた最高位に立つ者としての引き際の美学を忠実に守った。

 引退後は九重部屋を継承し、師匠の立場となった。還暦を超えてもなおオーラがあった。上がり座敷にただ座っているだけで、稽古場の雰囲気は張り詰める。弟子を怒鳴りつけることもあったが、ただ厳しいだけではなかった。

 本場所中。関取衆とは積極的にメールでやりとりしていた。絵文字を入れて「良い相撲だったね」と送信することも。殊勲の星を挙げた力士には師匠自ら賞金を出したり、関取全員が勝った日には食事に連れて行ったり。

 千代大海を大関へ育て、現役では千代大龍や千代鳳、千代丸ら、たたき上げから大卒力士までタイプの異なる多くの関取を育て挙げた。飴と鞭を使い分けた指導法には定評があった。

 平成26年の理事候補選で落選した後は、表舞台に出ることは少なかったが、その存在感は最後まで色あせることがなかった。(藤原翔)


ご冥福をお祈りします

というか、訳がわかりません
なんで?なんで?
大混乱です
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