東京新聞より転載
4歳「スパイ」の汚名 沖縄戦 渡野喜屋の悲劇
2015年6月22日 朝刊
全身に飛び散った手りゅう弾の破片が、今も体内に残るという仲本政子さん=大阪市で
太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民が根こそぎ軍事作戦に動員された。このため、投降する住民を日本兵が「スパイ」と見なし、殺害する事件が相次いだ。背景には、軍事機密の漏えいを防ぐ法律があったが、被害者のほとんどは正当な理由もなく、口封じのために殺された。加害者側の日本兵も飢えや恐怖に追い詰められていた。そんな中で起きた残虐な行為が、戦争の陰惨さを浮き彫りにする。 (安藤恭子)
七十年前、全身に飛び散った手りゅう弾の破片が、今も体をむしばむ。「私は、四歳で『スパイ』として処刑された」。沖縄県読谷村(よみたんそん)出身の仲本政子さん(74)=大阪市=は、悲しげに笑う。日本兵が住民を虐殺した「渡野喜屋(とのきや)事件」で生き残った。
一九四五年五月、米軍に捕らえられた仲本さん一家は、県北部の渡野喜屋(大宜味村(おおぎみそん))の集落に収容された。村議だった父が、米兵にもらった食料をほかの人に配るのを、山に隠れた日本兵がじっと見ていた。
「おまえたちは、こんないい物を食っているのか」。兵隊たちは夜中、一家が休む民家に踏み込んだ。仲本さんは母と兄、妹の四人で、砂浜に連行された。数十人いた周りも年配者や女性、子どもばかりだった。
「アメリカの捕虜になって、恥ずかしくないのか!」。兵隊が怒鳴り、「一、二、三」の合図で手りゅう弾を何発か投げ込んだ。二歳の妹は死んだ。日本兵が引き揚げた後、米兵が倒れていた仲本さんを箱に入れ、テントに運んだ。
父は別の場所で、首に短刀を突き刺されて殺された。両ひざは丸くくりぬかれ、「日の丸だ。勲章だ」と日本兵が持ち帰ったという。血の海に浮かぶ遺体を見つけた母と兄は、あまりのむごさに気絶した-。
これが、仲本さんが二十歳の時、兄から打ち明けられた話だ。三カ月後、兄は心を患い、入院した。
「渡野喜屋はスパイ集落」という密告が事件のきっかけだった。「私たちがスパイだなんて殺す言い訳だ。戦争は悪魔を生む。人間を信じられない私は、今も暗闇の中にいる」。仲本さんは苦しみを明かす。
事件の正式な調査は行われていない。県史編集委員の大城将保(おおしろまさやす)さん(75)は、真相を知ろうと証言を集め、「飢えに苦しんだ日本兵が、食料強奪のために集落を襲った。スパイへの過剰な警戒もあった」と結論づけた。少なくとも死者は三十~四十人と推測する。
背景には軍事上の秘密を漏らせば「死刑」と定めた「軍機保護法」があった。しかも、軍の内部文書では、沖縄の方言を話す人や敵のビラを拾った人まで、処刑することを認めていた。
渡野喜屋のように、スパイとされた住民が殺された事件は、大城さんが確認しただけで四十六件ある。
「住民がスパイの汚名を逃れるには、投降せずに自ら死ぬしかない。住民虐殺と集団自決の根は同じ。コインの表と裏だよ」。大城さんは、住民の四人に一人が死んだとされる沖縄戦の悲劇をこう解き明かす。
<沖縄戦> 1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸して始まった。4月1日に本島に上陸。日本軍は住民を巻き込む持久戦を展開し、「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の猛攻を受けた。県の推計によると、沖縄戦の死者は20万人余。内訳は県外の日本兵6万6000人、米兵1万2500人に対し、住民の死者が9万4000人と上回り、沖縄出身の軍人・軍属も2万8000人亡くなった。沖縄を守備する第32軍司令官、牛島満中将が自決し6月23日、沖縄本島での組織的戦闘は終わった。
4歳「スパイ」の汚名 沖縄戦 渡野喜屋の悲劇
2015年6月22日 朝刊
全身に飛び散った手りゅう弾の破片が、今も体内に残るという仲本政子さん=大阪市で
太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民が根こそぎ軍事作戦に動員された。このため、投降する住民を日本兵が「スパイ」と見なし、殺害する事件が相次いだ。背景には、軍事機密の漏えいを防ぐ法律があったが、被害者のほとんどは正当な理由もなく、口封じのために殺された。加害者側の日本兵も飢えや恐怖に追い詰められていた。そんな中で起きた残虐な行為が、戦争の陰惨さを浮き彫りにする。 (安藤恭子)
七十年前、全身に飛び散った手りゅう弾の破片が、今も体をむしばむ。「私は、四歳で『スパイ』として処刑された」。沖縄県読谷村(よみたんそん)出身の仲本政子さん(74)=大阪市=は、悲しげに笑う。日本兵が住民を虐殺した「渡野喜屋(とのきや)事件」で生き残った。
一九四五年五月、米軍に捕らえられた仲本さん一家は、県北部の渡野喜屋(大宜味村(おおぎみそん))の集落に収容された。村議だった父が、米兵にもらった食料をほかの人に配るのを、山に隠れた日本兵がじっと見ていた。
「おまえたちは、こんないい物を食っているのか」。兵隊たちは夜中、一家が休む民家に踏み込んだ。仲本さんは母と兄、妹の四人で、砂浜に連行された。数十人いた周りも年配者や女性、子どもばかりだった。
「アメリカの捕虜になって、恥ずかしくないのか!」。兵隊が怒鳴り、「一、二、三」の合図で手りゅう弾を何発か投げ込んだ。二歳の妹は死んだ。日本兵が引き揚げた後、米兵が倒れていた仲本さんを箱に入れ、テントに運んだ。
父は別の場所で、首に短刀を突き刺されて殺された。両ひざは丸くくりぬかれ、「日の丸だ。勲章だ」と日本兵が持ち帰ったという。血の海に浮かぶ遺体を見つけた母と兄は、あまりのむごさに気絶した-。
これが、仲本さんが二十歳の時、兄から打ち明けられた話だ。三カ月後、兄は心を患い、入院した。
「渡野喜屋はスパイ集落」という密告が事件のきっかけだった。「私たちがスパイだなんて殺す言い訳だ。戦争は悪魔を生む。人間を信じられない私は、今も暗闇の中にいる」。仲本さんは苦しみを明かす。
事件の正式な調査は行われていない。県史編集委員の大城将保(おおしろまさやす)さん(75)は、真相を知ろうと証言を集め、「飢えに苦しんだ日本兵が、食料強奪のために集落を襲った。スパイへの過剰な警戒もあった」と結論づけた。少なくとも死者は三十~四十人と推測する。
背景には軍事上の秘密を漏らせば「死刑」と定めた「軍機保護法」があった。しかも、軍の内部文書では、沖縄の方言を話す人や敵のビラを拾った人まで、処刑することを認めていた。
渡野喜屋のように、スパイとされた住民が殺された事件は、大城さんが確認しただけで四十六件ある。
「住民がスパイの汚名を逃れるには、投降せずに自ら死ぬしかない。住民虐殺と集団自決の根は同じ。コインの表と裏だよ」。大城さんは、住民の四人に一人が死んだとされる沖縄戦の悲劇をこう解き明かす。
<沖縄戦> 1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸して始まった。4月1日に本島に上陸。日本軍は住民を巻き込む持久戦を展開し、「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の猛攻を受けた。県の推計によると、沖縄戦の死者は20万人余。内訳は県外の日本兵6万6000人、米兵1万2500人に対し、住民の死者が9万4000人と上回り、沖縄出身の軍人・軍属も2万8000人亡くなった。沖縄を守備する第32軍司令官、牛島満中将が自決し6月23日、沖縄本島での組織的戦闘は終わった。
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