岩淸水

心を潤す

B-29 爆撃機

2012年07月23日 03時30分23秒 | 軍装備

 

 

 この稿の元記事は、アメリカ軍の残虐行為を肯定するかのような、戦時国際法を無視した書きぶりです。よって【岩水】では、随時内容を書き換えて行きます。本当の日本人ならば、このような敵の目から見た、シニカルな書きかたにはならないはず。 

 

 

B-29

 アメリカ合衆国のボーイングが設計・製造した大型爆撃機。米兵などによる愛称は「超空の要塞(スーパーフォートレス /Superfortress)」であったが、現実的には相当数が撃ち落とされたり、わが軍により大破させられている。そのために、米軍は対空砲とか邀撃機の手薄な都市の住宅地を狙った。つまり正々堂々と軍隊どおしで勝負せずに、女子供そして年寄りなどの弱者を狙ったのだ (防御手段をもたない非戦闘員への攻撃で、是は明確に 国際法 (※ 1) により禁止されていた。是こそが人道に対する罪である)。 そのために、戦後になりこの卑怯未練な作戦を誤魔化すために、さまざまな神話をデッチ上げた。「空の要塞」などという米兵の幻想も、そのひとつである。

 

   五式十五糎高射砲 B-29 を撃ち落とす、超高射砲

 

 

第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期の主力戦略爆撃機。中型爆撃機構想から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定して設計された。

当初は陸軍戦略航空軍所属であったが、1947年に空軍の独立とともに空軍に移管された。

 

日本対B-29戦闘


B-29がばら撒いた爆撃予告ビラの一部。 B-29の写真を背景に爆撃予定都市が記載されている。

 B-29は当初、軍事工場などに対する高々度からの精密爆撃に用いられた。昼間迎撃には、単座戦闘機である一式戦闘機隼、零戦、二式単座戦闘機鍾馗、三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風、五式戦闘機、雷電、紫電改などが使用された。しかし、日本の単発戦闘機は海軍の雷電や紫電改、陸軍の疾風以外、もともと高高度飛行向けの過給機エンジンを持たず、また大戦後期になって材料や工員の質が低下した上、高オクタン価(有鉛)の航空燃料の入手も困難になっていたため、排気タービン(ツイン・ターボ)・インタ-・ク-ラ-を装備しているB-29の迎撃は困難であったと言われている。1万mもの高空を巡航速度が乗った状態で飛行するB-29に対しては追いつくのも困難であり、またかろうじて一撃をかけたとしても、高度を回復できずにその後の攻撃が続かないという有様であった。このため震天制空隊や厚木基地所属の雷電による体当たり攻撃も行われた。

  しかし、高度を失った場合には単座戦闘機でも対処が可能であり、複数の戦闘機による集中攻撃をかけて撃墜した事例もある。1944年12月18日に三菱重工名古屋機体工場を爆撃したレオ・E・コンウェイ中尉の指揮する機を損傷し、編隊から脱落したところを集中攻撃をかけて撃墜した陸軍飛行第55戦隊遠田美穂少尉以下の例が代表格である。 これに対して主として夜間の双発戦闘機による迎撃は大きな成果を上げ、日本陸軍の樫出勇大尉は、二式複座戦闘機屠龍 を駆り、B-29による初来襲の空戦である1944年(昭和19年)6月16日から終戦までに北九州に来襲したB-2926機撃墜した。なお樫出勇大尉が所属していた「屠龍戦隊」は1944年8月20日のB-29初大挙来襲の邀撃戦において、来襲した80機のうち23機を撃墜した。これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。これまでの邀撃部隊が挙げた戦果の戦例を見ると、来襲機の10 - 15%を撃墜したという記録があるが、この邀撃戦は来襲機のうち撃墜数が28%に及び、数値からみると ヨーロッパ戦線では例を見ない史上空前の大戦果となった。

 1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛戦闘機P-51が随伴するようになると、空中戦における運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。 (ならば、双発と単発の複合作戦で対処する方法もあったはず【岩水】) それでも300機以上に達するB-29の日本本土作戦による喪失機の半数以上(硫黄島陥落前の大半)は日本軍戦闘機の通常攻撃(体当たりではない)によるもの、または攻撃を受けての損傷により飛行不能となって不時着したものであった。特に京浜地区の防衛を担う海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電と陸軍立川飛行場や調布飛行場に配備されていた鍾馗は、さしものB-29にとっても危険な存在で、爆撃後背後から襲いかかられ一度に十数機が被撃墜・不時着の憂き目に合うこともしばしばであった。

カーチス・ルメイ陸軍航空軍少佐が日本本土空襲の指揮を執るようになって以降、B-29は単座戦闘機が飛べない夜間に、高度2 - 3千メートルから一般市街地に対する絨毯爆撃を行なうようになった。センチメートル波の小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃を行うことができず、斜め20mm砲を装備した双発の月光、屠龍等の夜間戦闘機が爆撃の火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態であり、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあった。日本側の戦闘機による迎撃能力が問題にならないことに気づいたアメリカ側は、東京大空襲の際には、有効な対空兵器のない日本の首都に対して、高度7000 - 8000ftの低高度からの焼夷弾を投下する作戦を採った。その際B-29の後部銃座以外の防御火器を撤去し、爆弾搭載量を増やしたストリップ型の機体を多用した。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された[6]。

日本陸軍は高度1万メートルの高高度を飛行する爆撃機を迎撃可能な三式十二糎高射砲や五式十五糎高射砲を制式化し日本劇場や両国国技館の屋上に設置した。実際に三式12cm高射砲はB-29を10機以上撃墜するなど一定の戦果を挙げたが、生産数は三式12cm高射砲が120門、五式十五糎高射砲に至っては2門と極めて少なく、全国各地の都市に対して100~500機以上の編隊で行なわれる無差別爆撃に対してほとんど機能しなかった。日本高射砲部隊の主力装備はB-29に対しては射高不足の八八式七糎半野戦高射砲と九九式八糎高射砲であり、当時の国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。ただこの件に関して首都防衛を担当する高射第一師団にいた新井健之(のちタムロン社長)大尉は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町の大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜したものです」と発言している。戦後アメリカ軍発表の数字でも、日本上空で撃墜あるいは損傷を受けたアメリカ軍機(主としてB-29)のうち高射砲によるものは1588機で、全体の65%を占めているという[7]。

 
硫黄島に緊急着陸したB-29(1945年5月4日撮影)あまりにも被弾・故障し帰還途中に喪失するB-29が多いために不時着用と護衛戦闘機の基地として硫黄島が選ばれ、アメリカ軍は多大な犠牲を払って日本軍からこの島を奪った。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に潜水艦が配置されて乗員の救助にあたった。

 

 


B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。また、住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知っていたとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がることになった。

 

東京大空襲 真実の写真

 

B-29の損失 [編集]大戦でのB-29の喪失数は714機[8](延べ出撃数33,000機)で、出撃に対する損失率は2.2%程度。ただし投入した機体数に対する損失率は15%を超える。日本空襲において、当初の高度精密爆撃を行なっていた頃は5 - 6%台の損失が出ていたが、1945年4月からのP-51の随伴と、日本軍の搭乗員の減少及び燃料の枯渇による迎撃機の減少により損失率は大幅に低下し1 - 1.5%ほどになった。日本軍では、撃墜されたB-29について、それを分別し、ジュラルミンを融解して再利用した。

戦死または行方不明となった搭乗員は合計3,041名である。B-29の乗員に対して「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の一般市民の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」との指示があった。確かにこれは事実で、軍事目標のみを爆撃した精密爆撃の実行者は正式捕虜として捕虜収容所に送られている。しかし1945年3月10日以後、非戦闘員への無差別爆撃が開始されると事情は変わる。彼ら無差別爆撃を実施したB-29搭乗員に対して、爆撃を被った一般市民の理性を期待することはほとんど不可能で、私刑の上虐殺される危険性があった。このため憲兵隊や警察は第一に捕獲兵の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、暴行されずとも縄で縛られて引き回され投石を受けるなど身の安全が保障されたわけではなかった。最も悲惨な例では軍人や軍関係者の指示、関与した私刑によって死亡した者もいた。これら無差別爆撃を実施した捕獲搭乗員は国際法違反の容疑者として捕虜ではなく犯罪者の扱いを受け、多くが略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑された。敗戦後、東海軍司令官の岡田資(たすく)中将は、1945年5月14日の名古屋空襲及びそれ以降の空襲に際して捕獲された捕獲搭乗員38名の処刑の責任を問われ、B級戦犯として横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受け、翌1949年9月17日に処刑された。丹沢山や青梅の山中には墜落したB-29のパイロットの慰霊碑がある。

1945年5月、九州方面を爆撃するために飛来したB-29が戦闘機の空中特攻によって撃墜され、搭乗員12名が捕らえられた。うち8名を裁判なしで死刑処分とし、同年5月17日から6月2日にかけて九州帝国大学(現在の九州大学)医学部において生体解剖実験が行われた九州大学生体解剖事件(相川事件)が起こっている。

なお、日本軍の捕虜となった搭乗員は広島や長崎を始めとする日本国内の要衝にある収容所、陸軍刑務所に収容されたが、このため広島と長崎ではB-29による原子爆弾投下の際、搭乗員の捕虜に被爆者(死亡者)が出ている。他の都市の空襲でも、多くの搭乗員が焼死した。( wikipedia より抄出。岩水による画像の添付や編集あり )

  

 

B29に馬乗り
11機編隊の1機に後方より接近した中野松美軍曹は、体当たりでこれをしとめるべく、左下方より急上昇してB29の水平尾翼をかじりとった。 機はそのままB29の上面に踊り出て、巨大な胴体に馬乗りになってしまった。 中野機はしばしそのまま胴体上にとどまったが、他機の銃撃で被弾、滑り落ちた。 彼は傷ついた飛燕を巧みに操って水田に胴体着陸、一命を取りとめた。 B29は徐々に高度を下げて行ったが、墜落確認はできなかった。 捨て身の防空戦の一齣である。
戦闘機「飛燕」(馬乗り戦法)

 

 

 

 ハーグ陸戦協定 (※ 1)

 第二五條 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。

 

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