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得撫島(うるっぷとう)

2013年06月10日 07時33分12秒 | 地理

 千島列島

得撫島(うるっぷとう)【岩水・地理】 得撫島(うるっぷとう) 地理

 

 

 

 得撫島(うるっぷとう)は、千島列島にある島。ロシア名はウループ島 (Остров Уруп)、英語表記はUrup。

島の名前の由来は、アイヌ語で「紅鱒」を意味する「ウルㇷ゚」から。知里真志保の著書にもこのことが記してある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E6%92%AB%E5%B3%B6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


長さ約 115 キロメートル、幅は約 20 キロメートルで、択捉水道(ロシア名:フリーズ海峡 пр. Фриза)を隔て、およそ 40 キロメートルで択捉島と相対し、北東方向110 キロメートルには新知島がある。全体的に北東から南西に向けて細長いエンドウマメのような形を持つ。国後島より僅かに小さく、千島列島では4 番目に大きな面積を有する。

山岳地帯には活火山が含まれ、主な火山は以下の通り。
得撫富士(うるっぷふじ、海抜 1,328 メートル[3][注釈 1]、英語表記:Kolokol)
1780年の10年前後から、1973年までに度々噴火が確認されている。台場山(だいばざん、542 メートル[4]、Rudakov)
硫黄山(いおうざん、998 メートル[5]、Tri Sestry)
白妙山[6](しろたえさん、1,426 メートル[1][2][6]、Ivao、最高峰)

以上の火山の周辺にも複数の山がある。火山があるため、現在も噴煙や温泉が噴出しており、硫黄の臭いが漂う。オホーツク海側には、温泉が滝となって流れている箇所がある。

島は海獣保護区に指定されていることから「ラッコの島」とも呼ばれている。北端の烏ノ尾岬は最大のラッコの生息地であり、300~400頭が確認されている。

択捉島との間には、植物学で言う分布境界線(宮部線)がある。ここは(植物学上の)温帯と亜寒帯との境であり、得撫島より北の島には広葉樹林が見られなくなる。

島には、戦時中に旧日本軍が作ったトーチカが残っている。また、旧ソ連の実効支配が始まってからは国境警備隊が駐留していた。北東部に防空レーダー基地、測候所、灯台などが集中し、150人程が居住していたが、現在は撤退により放置され、廃墟や残骸として残っている。

歴史[編集]

得撫島には元々定住者はいなかった。択捉島など他島のアイヌ民族が漁猟のために一時的に居住していた。
1635年(寛永12年) - 松前藩が千島列島を含む蝦夷地の地図を作成。
1643年、オランダ東インド会社のフリースが上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名して、領土宣言をした[7]。 西洋人では初の「発見者」となる。
1651年(慶安4年) - 正保国絵図のため松前藩が提出した地図に、「ウルフ」の名がある。
1700年(元禄13年) - 幕命により松前藩は千島や勘察加を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。
1715年(正徳5年) - 松前藩主は幕府に対し、「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1754年(宝暦4年) - 松前藩家臣の知行地として松前藩によって開かれた国後場所に含まれる。
1766年 - ロシア人イワン・チョールヌイ(ロシア語版)(Иван Чёрный)がカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始。以後、日露両国の活動が交錯する。
1772年 - 千島アイヌとロシア人が衝突し、ロシア人が島から退去。しかし、その後もロシア人の活動は続く。
1786年(天明6年) - 最上徳内が幕吏として初の本格的な調査を実施。
1791年(寛政3年) - 最上徳内が択捉島と得撫島を探検。
1801年(享和元年) - 富山元十郎・深山宇平太が日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の柱を建てる。 天長地久とは老子7章からの言葉で「天長く地久し」という、永遠不変の意。天長節・地久節はこれから。
1855年(安政元年) - 日露通好条約(不平等条約のひとつ)によりロシア領とされる(択捉水道が国境線になる)。クリミア戦争中、9月に英仏海軍によって一時的に占領される。
1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約により再び日本領となり北海道 (令制)千島国得撫郡に含まれる。 日本政府は生活物資の補給の問題や国防上の理由から明治後期にアイヌを色丹島に移し、町村制を施行せず北海道根室支庁の直轄地として統治する。
1945年(昭和20年)8月 - ソ連軍が上陸し占領する。日本が降伏した9月2日に出された一般命令第1号により、ソ連占領地とされた。
1946年(昭和21年) - GHQ指令により、日本の施政権が正式に停止される。直後に、ソ連が領有を宣言する。
1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約で日本は領有権を放棄する。しかしソ連はその条約に調印していないため、日本は北方四島以外の千島列島の帰属は未確定と主張する。
1991年(平成3年) - ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。

現在はロシア連邦が実効支配しているものの、日本政府は国際法上、帰属未定地であるとしている。

 

 

 

 

 

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