旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

鎮魂の森!?  それとも太平洋沿岸に緑のベルト地帯!?

2011-05-07 17:13:32 | 東日本大震災
国の東日本大震災復興構想会議メンバーから「鎮魂の森を作って災害を忘れないようにしよう」と発言があったとのこと。

それを受け、仙台市ではさっそく検討に入るらしい。
新聞報道によれば、「海岸の緑を復活してしるべ(モニュメント)を設けるか、もっと身近な市中心部に欲しい」との意見を受けて、候補地を選定していくようだ。


ところで、貞山運河(木曳堀~新堀)周辺の松は、藩政時代以降に防砂・防潮林として、内陸側から海側に向かって順次植えられていった。

明治の初めに開削された新堀においても、自然災害に翻弄され、艱難辛苦の果てに整備されたものだ。
掘り進んでは埋め戻される連続で、“賽の河原の石積み”ごとくであったようだ。

さらに時代は下るが、名取市閖上(ゆりあげ)サイクルスポーツセンター前の林の中にある大禮記念植樹記(建立:大正5年4月1日)は、下増田村長 阿刀田義潮以下老若男女が合い集い、36町8反歩に松30万株を植栽したと記している。





白砂青松の仙台湾岸域は、自然に出来上がったのではない。



司馬遼太郎さんの作品『街道をゆく 秋田県散歩・飛騨紀行』の中では、
20里の海岸砂丘の緑地化に取り組んだ秋田藩士 栗田定之丞のことが紹介されている。
時は1796年からのことであったらしい。

栗田がとった方法は、次のようなもの。
<1年目>
・ 海側からの飛砂を防ぐために、ワラ(藁)やカヤ(萱)を砂に半ば埋める。
・ そのかげに柳の苗を植える。
<2年目>
・ 柳の稚樹のかげにグミとハマナスを植える。
   ※ グミは、8月~10月の女房子供の収穫物となり、町場での売り物にもなった。
 <3年目>
・ グミのかげにネムの木を植える。
<4年目以降>
・ これらが全部活着したあとに、はじめて砂防の主役である黒松を植える。
8~9年を要したが、こうして黒松は数百万本の松原へと変貌し、秋田藩の長城というべきものになっていったのだという。


森林造成に当たり、理に適わない方法で植栽し失敗した例は、全国各地にあまたある。
そこから教えられるのは、
・ 何事も気候、土壌などに素直に向き合い、
・ 必要な時間をかけて、
・ 苦労しつつも
・ じっくりじっくり行うのが良い
ということである。

だいいち「安易」「即席」では、その取組が初めは華々しくてもいずれすぐに忘れさられ、歴史にも文化にも残らないことになってしまう。


被災地それぞれの市や町に「森」が作られることに、とやかく言うつもりはない。
しかし、今回の震災が東日本太平洋沿岸という広さで発生したことを失念するわけにはいかない。
景勝「高田松原」の陸前高田市をはじめ岩手県も大きな被害を受けている。
原発の影響を長く引きずらざるを得ないかもしれない福島県相双地域もある。

自分のところに“自家専用”の鎮魂の森を作ることは、屋敷地内に祠を建てたり、家内に神棚や仏壇を置くことにどこか似ている。

復興構想というレベルで語られるべきは、「森」ではなく、鎮魂と国土再生を併せ持つ太平洋沿岸域森林ベルト地帯の創造ではないのか。


地球的な一体感とも称すべき国や地域を越えて寄せられた支援、心の輪。
大規模自然災害はけっして今回のこの地に限ったことではなく、災害で亡くなった方々を慰霊したい思いは世界共通。

ならばこそ、世界と共有する鎮魂の象徴として、太平洋沿岸域の白砂青松の復興は、国内外に呼びかけ、毎年一人ひとりが一草一本を大事に植えていくといった国家的・国際的な取組になって欲しいものだ。

※貞山運河と海岸防潮林、そして北上川河畔の植立山 ⇒ こちら
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 船形山登山口にある升沢自然... | トップ | 七ツ森・笹倉山(宮城県) »

コメントを投稿

東日本大震災」カテゴリの最新記事