旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

藤原実方中将の墓(宮城県名取市)

2014-02-15 17:09:24 | 地域魅力
先日五社山~外山を周回した帰り道に、西行法師も訪れたという中古三十六歌仙の一人藤原実方中将の墓に立ち寄ってきた。





松尾芭蕉は、『おくのほそ道』の中で、「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」と詠んだ。

しかし、芭蕉はこの墓を訪れることなく仙台への道を急いでいる。
同行の曾良は、『奥の細道随行日記』に
五月四日(新暦6月21日)○笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不レ見と記している。

実方中将(藤原実方)は、清少納言と交際関係があったとも伝えられている。
他にも多くの女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある。

藤原実方は一条天皇に仕え、侍従右兵衛権左を経て、従四位に任ぜられ、左近衛中将に進んだ。
和歌に巧みであったが、殿中で、藤原行成(ふじわらのゆきなり/こうぜい 972年~1028年1月3日 能書家で三蹟の一人)が実方の歌を批判したことから口論となり、行成の冠を取って地に投げ捨てた。
天皇は、その無礼を怒り、中将をやめさせ陸奥守にさせたという。

『名取市史』(昭和52年3月発行)では次のように紹介している。以下、転載。
― 実方伝説は主として源平盛衰記によるもので、それは実方中将が出羽に赴き阿古耶の松*1を見ての帰途、馬に乗ったまま笠島道祖神の前を過ぎ、土地の人に「何の神か」とたずねると「これは洛陽賀茂川の西、出雲路道祖神の女であったが、密かに町人と通じて放逐され、この地に来たのである。このあたりの人はお参りの際陰相(男根)を造って神前にかけると必ず霊験がある。今中将都に帰ることを祈られるならば馬から下りて参拝された方がよい。」という。実方これを聞いて「それならこの神は下品の女神であるから、何で馬から下りることがあろう」という。その時実方の馬が俄(にわ)かに倒れ、実方もまた死んだ*2ので、同じく社側に葬った云々とある。
この源平盛衰記は、著者不明で、13世紀半頃の書であり、実方時代から250年以上も後の書であるので、当時の伝承を記したものと思われる -。

  *1  阿古耶の松:山形市の千歳山の松
  *2  落馬の際のケガがもとで回復することなく死んだ

実方中将の墓が当地にある経緯について、佐倍乃神社(さえのじんじゃ)の前とする説もある。
しかし、名取市史の編者は、これは誤認とし、落馬の場所は実方の墓の入口を東西に走る道(旧東海道)の路上であったろうと推測。
また、この墓の入口は、実方が「これは賤神のみ」(大日本史歌人列伝の中)といった佐具叡神社(さぐえじんじゃ)の入口でもあるとしている。





▲芭蕉の句碑


▲かたみのすすき


▲実方中将の墓への道


▲実方中将の墓(中央枠囲いの墳墓)と西行の歌碑(右側手前)
  朽ちもせぬ其名ばかりをとゞめおきて枯野のすすきかたみにぞ見る(西行)






▲佐具叡神社(さぐえじんじゃ)磐境地への道


▲佐具叡神社磐境地



実方中将の墓への駐車場近くには、「鞍掛け石」なるものがある。
脇の案内を見ると、
実方中将が998年にこの地を訪れた際に鞍を掛けたという説と、
八幡太郎義家(源義家)が安倍頼良(頼時)・貞任父子と戦った際に鞍を掛けたという伝説を併記してある。
この石は、もとは南西約500mの地にあったものを「藤原実方千年祭」を記念し、移設したとのこと。



▲実方中将墓への駐車場近くにある「鞍掛け石」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仙台藩が建造した『開成丸』... | トップ | 色欲、権力欲、名誉欲 »

コメントを投稿

地域魅力」カテゴリの最新記事