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旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

貞山運河を巡る~野蒜築港資料室でうれしい出会いを

2007-10-23 23:10:23 | 水の道逍遥
今日もまたとてもうれしい出会いを体験した。
それは、東松島市の野蒜築港資料室でのこと。
何の前触れも無く訪れたわたしに対して、親切丁寧に野蒜築港に関する数々の資料を紹介していただいた野蒜築港ファンクラブ の松川さん。
感激と感謝の一日であった。

   ***

松川さんと話をしている最中に、東京の出版社らしきところから電話が入った。
どうやら、日本の近代遺産を紹介する企画を持っているらしい。
「貞山運河、野蒜築港関連の資料を教えて欲しい。」電話の向こうの女性は、そう話していた。

わたしもその電話に応対することになり、貞山運河は北上運河なども含めて総称されたりするものなので、範囲が広いことから、貞山運河事典(注)を紹介し、まずはそれを見て必要な資料の絞込みをして欲しい旨をお伝えした。
※貞山運河(=貞山堀:木曳堀、御舟入堀、新堀)は藩祖伊達政宗公の時代から仙台藩によって開削等されてきた運河(堀)であり、、明治期の野蒜築港にあわせて開削された北上運河や東名運河とはその歴史的な背景や整備主体を異にしていることから、これら3つの運河を”貞山運河”と総称するのは適切ではない。
(注)「貞山運河事典」は、現在は「貞山・北上・東名運河事典」に改編。

   ***

松川さんからは、東名運河沿いにとても素晴らしい石碑があることを教えていただいた。
「ここまで来たらやはり行かねば!」と思い、そこを訪ねることにした。
しかし、その碑のすぐ近くの食堂で所在地を訪ねてもご存知の方はいなかった。
わたしの尋ね方が悪かったのかもしれないが。

再度、松川さんに電話を入れて、場所を確認。
もっと正確に言うと、その後すぐに松川さんからわたしの携帯に電話があり、ようやく場所を特定できたという次第。


民家の庭端の、それも建物の陰に隠れるようにあったその碑は、確かにすごい歴史を語るものであった。
亀岡塩田増墾碑』がそれである。



碑文の内容は、おおむね次のようなもの。
“松島湾東に尽きるこの亀岡地区は、塩分の多い土地なので田が少ない。明治辛(しん)巳(し)(明治14年)に野蒜築港が始まり、運河の開削が進められた。このため、さらに耕田の多くを失い、村民は大いに憂えることとなった。高橋一郎、雫石藤治、齋藤善右衛門、齋藤又吉という4人の方が塩田を増墾し、村民を救うことを決意。しかしその費用が無い。それを聞いた浜市の齋藤廉吾という人(平素自ら倹朴につとめる、けっして富豪というような方ではない)が私財を提供した。そしてまた、これを意気に感じた仙台在住の木村敏という方が碑文を撰した。”

   
昔の人々は、私利私欲を超越し、なんてすごいことをやってのけたのだろうか。
潅木に埋もれるようにして立つ石碑は、静かに、それでいて“たぎるような思い”を今に伝えている。


※次の写真は、鳴瀬川をはさんで野蒜築港(浜市)側から撮った『野蒜築港資料室』のある建物



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