旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

粗大生ゴミ?

2021-02-18 23:12:28 | 日々雑感
これは先日(2月16日)のこと。

<区役所の広報紙を持った妻との夕食後の会話>
妻  :粗大ゴミの出し方が載ってるよ。
わたし:たまには自分で出してみたら・・・。
妻  :出すものが無い。
わたし:わたしがあるよ。コンビニで300円手数料チケットを購入して貼ってさ。
妻  :わかった。出す日が雨ということもあるよ。
わたし:それでなくともなかなか燃えにくかったりして~。
妻  :アハハ~!

しかしこのやりとり、いつかは(ヒョットしたら間もなく)ホントになるんだろうなと思ってしまった。
お釈迦様の最初の説法をまとめた四十二章経の第38章 生即有滅(人の命は幾くかある)では、人生は長さではなく”呼吸”にあると教える。
呼吸が止まればそれで了。
粗大生ゴミになったわたしという物体が斎場という立て看板のある焼却場に向かう・・・。
どうやら、笑える話ではないような・・・?!
でも今はまだ、一緒に笑っておこう!

幸いなことに、われ今のところ“濡れ落ち葉”にも“ワシも族”(元気に出かける奥さんにワシも行くと言ってついていこうとする男性老人)にもなっていない。
しいて言えば、家庭内での無用な口論を避けるために、妻には逆らわず「ハイ、ハイ」という“無抵抗主義者”になりつつあるが~。


四十二章経
第38章 生即有滅(人の命は幾(いくば)くかある)

仏、沙門に問う。人の命は幾(いくば)くの間に在りや。対(こた)えて曰く、数日の間。仏言く。子(なんじ)未だ道を知らず。
復(ま)た一の沙門に問う。人の命は幾くの間に在りや。対えて曰く、飯(飲)食の間。仏言く。子(なんじ)未だ道を知らず。
復(ま)た一の沙門に問う。人の命は幾くの間に在りや。対えて曰く、呼吸の間。仏言く。善い哉(かな)、子(なんじ)、道を知れり。

ここで言おうとしていることは、
・道とは命の長短の上に言われるものでなく、「今」に生きるその命に捉えられるものではなければならない
・人は生きている限り、生きていることの証しとして、道を行なわなければならない
ということ。

(参考)
『仏道入門【四十二章経を読む】』 古田紹欽 著  講談社学術文庫



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