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日々の雑記

マインドフルネス、瞑想、観想、坐禅、色々な違い

2021-03-22 23:59:00 | 日記
坐禅以外のものはおおまかに言って集中対象があるものが多いです。
坐禅は只管打坐と言われるようにただ座るだけです。集中対象はありません。
マインドフルネスは呼吸に集中したり、ヴィパッサナーは想念に集中してラベリングしたり。
瞑想という言葉は一番曖昧です。なのであまり使わないようにしています。
観想はもっと積極的な方法だと思う。ビジュアライゼーションとかイメージングを伴う感じ。
阿字観とか軟酥の法とかそういうのも観想に入ると思う。

なので坐禅で極度の受動状態を作って自己を解体することと、観想によって自己を高めることは別でやる必要がある。無論観想についてはゴリゴリの現世利益を求める行為なので必須ではない。
しかし、なぜ自己を高めるのに自己を解体する必要があるのかと気になるかもしれない。
観想だけではあまり意味がない。でもどっちかって言うと観想ばかり世の中では持て囃されてる(現世利益を求める行為なので当たり前ではあるが)
観想だけでうまくいく人もいるかもしれないが、実際にはうまくいかない人がほとんどだろう。引き寄せとかやってみて何にもならなかった人は大勢いるに違いない。僕もその1人である。
そういうスピリチュアルなことは離れて、自己を解体して作り直す方がよっぽど効果がある。

僕はそんな坐禅マスターでもないから適当なことしか言えないけれども。
例えば、坐禅中にはいろんな考え事が浮かぶわけだけど、マインドフルネスやヴィパッサナーだと、その想念にラベリングして離れるということをする。
しかし、坐禅ではラベリングのようなことはしない。かと言って考えに身を任せるでもない。
もう一歩引いて、想念が湧き上がっては消えていくという現象そのものを浴びているような感じである。それが人間の機能なんだという受動的な自覚である。これは言葉で言うのは大変難しいのだが。
決して感情や想念そのものに名前をつけたり判断をしない。いい悪いもない。

なぜ観想だけやるとあまりよろしくないのかと言うと欲望につながりがちだからである。
坐禅によって自己が漸次作られる仮初のもので如何様にも変容できることを自覚して、ではどのように変容すると好ましいのか観想で追究する。
悟りが開けない凡夫たる我々は現世をよりよく生き切ることを目的にした方がよいのかもしれないな。