雑記zaki

日々の雑記

誹謗中傷を減らそうという団体の長が誹謗中傷を掘られて謝罪で大笑いした

2021-05-30 23:44:00 | 日記
やはりTwitterなんかやってる連中はしょーもないことこの上ない。

僕が前に書いたこと通りである。
こんなしょーもない団体の代表やるくらいこの人たちは自分が他人を傷つけていることにはなんら無自覚で、常に自分が傷つけられ毀損される側で被害者だと信じ込んでいる。

誰もが加害者であり被害者なのでこんなものは厚顔無恥以外のなにものでもない。
であればどうすべきか。まずSNSをやめるべきでしょう。

want to doよりwant to be

2021-05-24 21:21:00 | 日記
例によって紙の手帳を放置してしまっていたため、1分間日記という以前読んだ本を何気なく読み返して見ると。
目標は具体的な方がいいと書いた次のページにはwant to beという心の状態について書いてあって少し笑ってしまったのだが、これは本当に大切なことだ。心の状態とはかなり抽象的で具体的ではない。

基本的に目標は具体的な方が良いとされているが、世の中の成功法則とは裏腹に具体的であればあるほど叶いにくい。
例えば、美人と付き合いたいという目標とガッキーと付き合いたいという目標(結婚おめでとうございます)では後者の方が遥かに難しい。
美人はこの世にごまんといるからそのうち一人と付き合うことくらいなんとかなりそうであるが、ガッキーただその人以外認めないとなると成功条件は相当厳しいものになるわけだ。

かと言って抽象的にしすぎてなんでもアリになってしまうとそれはそれで幸せかもしれないが、多くの人はそうもいかないというのが本音である。
前にも書いたかもしれないけど、サッカー選手になりたかったのに気がついたらバスケ選手になってたでは困るわけだ。
スポーツで成功する!という目標だったらそれは成功かもしれないが、サッカー選手になりたかったのにバスケ選手になってしまっていたら成功したはいいがこれでよかったのかとなりかねない。無論それでも満足できるという殊勝な人もいるが、そんなできた人間ばかりじゃない。
できれば自分の望んだ具体的な成功が欲しい。というのが普通の人の本音である。

つまりこの抽象と具体がうまく合うように目標をセッティングしていく必要がある。
自分の欲しいものはとても具体的なのに、具体的すぎると叶いづらい。これはとてつもないジレンマでもある。
具体的すぎる目標は結局執着なのだと思う。
want to beという話に戻るなら、結局我々はある状態になりたいのであって、具体的なものはそれを引き出すような今思いつく物に過ぎないということ。

何かを手に入れることによって、楽しさだったり快楽を得た状態になりたいということ。
でも楽しさやその快楽を得る方法って実は無限にあるのに自分が思いつくものが少ないからそれに固執してしまう。
これじゃなきゃ幸せになれないんだと思い込んでしまう。

want to beかつ目標は複数が一つの解決策になるかと思う。
抽象的な状態(自分はどうなっていたいのか)に対して、具体的な目標を複数を持つ。全部叶ってもいいしその中の一つが叶うかもしれない。いずれにしろ求めているものは状態であって具体的な一つ一つではない。
かのように振る舞って脳をうまく騙す感じでしょうか。本当は具体的なものが欲しいのにそうじゃないぜ!幸せになりたいだけなんだ、幸せだったらなんでもいい!とこの矛盾を抱えるような感じ。
なんでもいいならこれでもいいだろうという感じで。
本当はAという具体的なものが欲しいと思いつつAでもBでもCでもいいんだという態度で。どれでもいいならAがいいと思うこと。

中々に抽象的な記事になってしまった。




徹底的にアドブロックし広告を見ていない男

2021-05-21 21:34:00 | 日記
広告について書くつもりだった。
初めて触れたパソコンがXPの世代だが、ネット上の広告はかなり増えたと思う。

と言っても実際はほとんどわからない。アプリ内広告でさえブロックする様にしているので、本当のところどれくらい酷いのかわからない。
スマホ黎明期、酷かったのを覚えている。気味の悪い漫画広告がとてつもなく溢れていた。
それからアドブロを使うようになった。
YouTubeの広告もほとんど見たことがない。だからあれを律儀に5秒ないしは10秒待ってる人がいるというのが信じられないくらいである。

そろそろ広告以外のビジネスモデルがあってもいいんじゃなかろうか。
広告なんぞ見る気は一切ないしこれからも徹底的にアドブロックしていく所存である。

しかし、最近のいわゆるデジタルネイティブという世代は広告を見ることによって支援しているかのように感じているらしい。広告のない動画に広告つけて!みたいなコメントをよく見て驚く。
広告を見ないでタダでコンテンツを見るのは良くないという考えもあるだろうが、知ったことではない。こちらとしてはどうしても見なければならなくなったら見るのをやめるだけだし。

思うにネット広告というのはなし崩し的に認められてきた、いわば無法地帯に近い。勝手にトラッキングして広告を出したり。

広告以外で何かもっとマシな方法があればよいと思う。

防衛省がこんなことでは

2021-05-18 23:05:00 | 日記
本当は広告について書きたかったのだが。
今回の大規模摂取システムの杜撰さに的外れな例え話ばかりが横行している。
やれ万引きがどうだのと。

全くそれは違う。何故ならそれらは全て盗ってはいけないという前提があるからである。
しかし今回のシステムはいうなればこのブログ同様公開しているものをただその通りに使っただけである。
これがもし非公開のブログのユーザーidとパスワードをハッキングしてブログを書き換えたのならともかくとしてそうではない。

ご自由にお取りくださいという設計をしておいて、あそこにおいてあるものは自由に持って行っていいんだってと言った人間に抗議するって一体なんなんだろう。

そのように設計してその通りに動いているものをユーザーに責任転嫁するのはいくらなんでも。

これが防衛省なのが本当に救えない。

自己肯定感とはステータスのこと

2021-05-17 23:52:00 | 日記
何も無い自分、ありのままの自分を肯定しましょうみたいなナイーブな話はよくあります。

が、僕はこれは土台無理だと思います。
逆に考えてみるといいと思います。ただ家で寝っ転がって何もせず日々を過ごしている人を素晴らしい人間だと肯定できるでしょうか。
できるとしたらこれは唯一家族だけだと思います。
家族でも無い限りこれを肯定してそれでいいと言うような人はいないと思います。

逆に年収が1億で職業は弁護士でという人間だったら簡単に自己肯定ができるでしょう。
金のあるなし、地位のあるなしによる幸不幸は置いておいて(金があっても地位があっても不幸な人はいる)自己肯定という視点で見れば何も無いよりはしやすいはずです。
稀にそれでもできないという人はいると思いますが、それは金と貢献度が乖離している可能性がある。
例えば株の配当だけで生きていては金はあっても他者への貢献感は少ないでしょうから自己肯定感が薄いというのも納得です。
金よりも職業のほうが自己を肯定しやすかもしれない。

無条件に自己を肯定したいというのは上記に挙げた通り土台無理で、そんなことをしてくれるのは親くらいしかいないのです。自分では無理。従って諦めるしかない。

やるべきは自己能力の自己評価を上げることであって、自己肯定感はそれで自分の社会的な価値が高まれば勝手に上がる。

逆に言うとそのステータスの上下で上がったり下がったりするような代物はどうでもいいとも言える。
高けりゃいいとも低いから悪いとも言えないしそういうものに頼っては一生ステータスに縛られると言っているようなもの。もしくはありもしない、親並みに自分を肯定してくれるような存在を求めるようなもの。

そういうものはあってもなくても大した違いはないと早めに気がついた方が楽な気がする。
そして自己肯定感が高い低いが関係ないということはつまりステータスが高い低いも同じことだということだとわかること。

言葉によって惑わされることが多い気がする。
自己肯定感という言葉が発明されればそれが無いとダメなのかと思ってしまう。

いらん言葉は捨てるに限る。