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日々の雑記

個人的な野望は抽象性を帯びる

2021-03-13 00:46:00 | 日記
今ふと思ったが野望という言葉はなんかいいな。
願望より荒々しいし願望より下心がない。

今自分のやってることに納得して、ただそれだけをやればいいという段階になったら本当にタスクシュートだけでいいんだろうけど、多くの人はそうじゃないと思う。
必要だけど十分ではないという。

航に例えると、個人の状況は以下のように考えられると思う。
1.船に穴が空いて沈没寸前
2.船は大丈夫だがオールがない状態(行きたい場所に行けない)
3.船もオールもあるが予期せぬ嵐で何もかも失ってしまう人
4.船もオールもあり、予期せぬ災害への対処もできる人。
1と2は流されるがままで方向性がありません。
2はオールが無いので方向性を持ったとしても自分で漕いで行くことができない。
運良く何かにたどり着くことはあるかもしれない程度。
3は方向性をもって漕いで行くことができるものの、何か問題が起こると全てを失ってしまう人。
4が求めるべき状態である。

ところでこの喩えで考えてみると、いい船を手に入れてオールを手に入れてから方向性を定め行きたい方向に行くと考えるのが人間の約99.999%である。
つまり準備が整った暁には欲しいものを手に入れて行きたいところにいってやりたいことをしようと考えるのである。

これが大きな間違いを生む。
方向性が先、準備が後なのである。
前の例で言うならば、オールや船は後でどこに行くか先に決める。
行き先を決めてからチケットを取るというようなことでもある。
方向性を決めて目標を定めるからこそ周りに見えるものが変わる。
例えば流木はオールにできるかもしれないし、船の穴を塞げるかもしれない。
しかし、方向も目標も無い人にとっては目の前の現実が全てであって、流木を見ても何も思わないかもしれないし、目に入りさえしないかもしれない。

つまりしっかりとした目標さえ手に入れることさえできれば目の前の現実は違った形に見え始めるということである。

しかし凡夫である僕たちはその目標を近くに設定しすぎる。
つまり目標が手段になっていることが多い。
前の例で言うならば、目標に辿り着くためにオールが必要であるということだったはずがオールを手に入れることを目標にしてしまう。

でもこれって自己啓発にありがちなことですよね。
大きな馬鹿げた目標なんか立てるな、できることからやりましょうというのは誰でも見たことがあると思います。
もしできることからやって、いつしか成功者になれるのならスラム街などできようがないし、ホームレスが一生ホームレスであることはないでしょう。
少なくとも彼らは彼らにできる最大限のことをしているはずです。

とにもかくにも野望が先でありその野望というのはやはり自分の想像を超えている必要がある。
ステップバイステップの最初のステップとは野望を掲げることだったのだ。

前にも書いたが細部だけで役に立つ技術には僕はどうやら納得ができないのである。
それこそホームレスだろうと子どもだろうと一般会社員であろうと誰でも必ず望みに到達しうる方法論は構築できるはずだ。むしろ細部は違っていたとしても全体としてはおそらく取る方法は変わらんだろうという感じが僕にはするのです。

そういうわけで僕は仏教に注目しているのかもしれない。