雑記zaki

日々の雑記

神がいるなら戦争を止めてみろという事に対して考える

2022-03-20 23:36:00 | 日記
神がいるのにどうしてこんな悲惨なことが起こるのか、という件について特にどの宗教にも属してない僕が思うことを書いてみる。

まず第一に神が人間の悲惨な出来事を救う義理はない。
ここは一般的な無宗教日本人が最も勘違いしている事ではないでしょうか。
こういうのは御利益主義で人間中心的な考え方である。
御利益主義とはようは、お金を払ったら当分の見返りとしてサービスを得るというような話である。
神は人間と取引しない。どんなに高いツボを買おうと供物を捧げようと、関係ない。
なので、人間同士争っていて、それをどうにかしてくれ!と頼んだところでどうするかは神が決めることである。

第二に神は人間の自由意志を認めている(と思う)(現代哲学で人間に自由意志などない!というのが主流かもしれないがそこは置いておく)
神は人間が間違うということでさえも、許している。
人間が争うこともまた許しておられる。もし我々が一切間違う事ができなかったらきっと人生は退屈だ。
ずーっとベルトコンベアーで流されてるのと同じ。

神は人間と共にいて争いも見ておられて、人間がどういう結末を得たいのかそれがはっきりした時にきっと働くのではないかと思ってる。
それまでずっと双方に寄り添って人間と一緒に間違って、そして人間と一緒に正していく。

僕の思う神のイメージはこんなんですね。

『非モテ』なる言葉はモテない男たちの闘争の中で生まれた言葉である。

2022-03-13 16:15:00 | 日記
僕はこの非モテという言葉を使う人間は例外なくモテない側の人間だと断定している。

なぜそう言えるのかというと、モテる人間はただモテるという言葉を使えばそれで事足りるし、そして反対にはモテないという言葉が既にあるからである。
非モテという言葉が生まれた背景は結局は男社会での闘争の話であって、なにも女の本能がみたいな話ではない。

つまり、モテる男なんていうのは絶対数が少ない。モテる男とモテない男にもし二分すると95%くらいがモテない男になってしまうわけだ。
そこで95%の男たちは新たな概念を生み出した、そうそれが非モテという概念である。
つまり、自分のことをモテるというわけにはいかないが、なんとか頑張れば女をゲットできる層というのはいる。
その人たちが俺たちは非モテとは違うという仕方で自分達をブランディングないしは、女性に価値観を植え付けているわけである。
非モテと付き合うのはダサいぞ、女は非モテを本能的に避けるものだと喧伝して回る。
そこで自分は非モテとは違うよというアピールをするわけである。

僕はこのしょうもない気持ちの悪い言葉が端的に言って嫌いである。なぜ自分のことをストレートにモテると言わず俺は非モテではないと気味の悪い逃げ方をするのか。

ジェンダーの話で男の方面が語られることは少ないが、男もまたくだらない闘争の中にいるのである。
もし非モテがどうこういう言説をみたらそういうポジショントークなのだと笑ってあげてください。

宗教チックな記事に意外にもリアクションが多くて嬉しい

2022-03-10 21:38:00 | 日記
こういうことを書いても読んでくれる人がいるんだと思うと結果楽になります、どうもありがとう。

戦争で世の中は割れていますが、僕は実のところあまりニュースも追いかけていません。無関心だと批判されるかもしれないですが。

最近になって、未来予想や想定というのは結局瞬間の状態を考えるべきなのではないかと思うようになりました。

僕はよく受験勉強に喩えてしまうのですが、例えば何月に何をやって、試験までにこれを終わらせてという想定というのは、誰でもやると思います。しかし、その通りに全てできた人はいないだろうし、できなくても受かった人が大半だと思います。
細かい想定をすればするほど、その通りに動く可能性が無くなる。試験室に何時について試験を受けてなんていうのも、例えば大雪や電車が止まれば否応なしに試験時間はずれたりする。

じゃあ目指すべきはなんなのかということですが。僕が思うに、瞬間だと思うのです。その瞬間の状況の想定です。
試験を受けるということは決まってるわけです。確実なのはそこです。(なんらかの形で受けられなかったとしたらそれはもうどうにもなりません)
で、その時の自分の状態を想定する。問題を目にして、ペンを持った時どういう状態であるのが自分にとって理想的な状態かということです。
そして、普段からその状態を意識する。
試験を受ける自分の状態というのはその時持ってる知識を総動員して、目の前の問題に自分の実力を全て反映させた解答を書くということである。これが抽象度の高い正しい目標設定である。
もしかしたら、本番までに想定していたことができなかったかもしれないし、コロナに罹って勉強がうまくいかなかったかもしれない。しかし、それでも先に立てた目標は達成されうる。その瞬間持っている知識が対象だからである。

スポーツではメンタルリハーサルなどとも呼ばれているからそちらの方がわかりやすいかもしれない。
陸上ならどのように手を動かし足を上げゴールテープを切るのかこれというのはやはり、確定しているはずです。
しかし、ここで金メダルを取って賞賛を浴びている自分みたいなものは想定する必要が無いと思う。あくまで、競技においてパフォーマンスを発揮することが目的なのであって、その結果については問わないという方が僕はいいと思う。

あくまで、絶対に起きる事を中心に置いてその時どんな状態なのかハッキリさせる。結果は問わない。
結果ばかりに目がいくとパフォーマンスが落ちるし、目標が遠く見える。
未来における今と現在における今の繋がりというのは結局状態という形でしか感じられないのではないかと僕は思う。逆にこの状態が分からないと努力が苦痛だし、やっていることの意味が不明確になって辛い。
一年後試験を受ける私と一年後試験実際に試験を受けている私の繋がりが、瞬間の状態として再現されていないといけない。
今ある知識を総動員して解答を書くというのは、来年の今も、今日も出来ることだからだ。

こんなふうに考えてみると今日の状態がまさに来年の状態であるということがなんとなくつかめてきた。
僕は過去も未来もないあるのは今だけだ、今この瞬間を生きようみたいなチープな話をしたわけではありません。僕の話は未来の状態ありかの話です。
未来が存在しないのであれば、別に何もする必要はない。成長する必要もお金稼ぐ必要も何もない。

無力の大切さ

2022-03-06 23:40:00 | 日記
いかに無力であるかということが難しいかといのを最近よく思う。

無力であるとは自分にはどうにもできないという境地に立つことである。


キリスト教における祈りについてこの本にめちゃくちゃ詳しく書いてあって、これは別にキリスト教に限らず、姿勢としては役に立つ。
あらゆることに無力であってよいし、どんなことも絶対に「自分で」始める前に祈る。
そうすると自分の内面でどういう変化が起きるのかというと、物事全てが望んですることになるのである。
嘘偽りなく望みを告げること、その上で神が私に働くよう祈ること。
そうするとかなり無理ない形でできることが増える。
卑近な例で言うなら例えば掃除にしたって好きな人も嫌いな人もいると思うが(僕は結構嫌い)汚れてきたし掃除しなきゃなとは思いつつもなかなかしない。そこで、とりあえず正直に嘘偽りなく祈る。掃除が面倒でやりたくない、けどしなきゃいけないとも思う。どうか神よ私に掃除をさせて下さいと祈ってみる。(実際にはもうちょい丁寧な言葉でやりますが、詳しくは本読んでください)
そうすると僕の中でやりたくないやらなきゃいけなかったことが、自分のしたいこと(=望んでいること)に変わる。
しかも、それを自分が直接するのではなくて、神が私を通してやると。
こうしてみるとだいぶ自分の努力っていうものが減る。
もちろん掃除するのは自分だし、その労力は祈っても祈らなくても変わらないのに、うまくいく。これはとても不思議なことである。
祈りというと大袈裟に聞こえるかもしれないが、どんな小さなことも嘘偽りなく祈ったほうが良い。


この本にもあるが、イエスは最高のカウンセラーである。
本当に信頼している人でさえいうのが憚られるようなことも、自分だけの秘密も祈りを通して聞いてもらうことができる。
僕がこのキリスト教は役に立つか?という本を読んだのはもう数年前だと思うが、その時はどうしても神というものをリアルには感じられなかったのである。今はいてもらうとありがたいみたいな感じの不遜な信仰だけど、本当に役に立っていると思う。

神と人生を歩むのも悪くないものだと今は思うのである。



書いては下書き保存を繰り返す日々

2022-03-05 18:38:00 | 日記
宗教チックなことを書くとなんだか、こいつ宗教信者からという感じになってしまうので書きたいけど結構控えている。

なんか世界は大変なことになっていますが、この先絶対起こらないことなんてないんだという自覚は持っておくべきだろうなぁ。

核戦争は起きないとかね、絶対に起きないなんてことは言えないと思う。
戦争だって割に合わないから起きないって思うけど実際には起こる。
情報も何が正しいのか、正直わかりません。
ウクライナ側、ロシア側双方にそれ相応の言い分はあるでしょう。だからと言って侵略していいわけでは決してないのですが。

人間は割に合わない、合理的でもない選択をしてしまうものだよなぁ。