Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 8

2013年12月04日 | Weblog
現代アートにおける“既製品”の使用をめぐって。(後半)
ヨコハマトリエンナーレ2011「Our Magic Hour 世界はどこまで知ることができるか?」

前回のレビューでは、現代アートにおける“既製品”の使用法を考えるにあたって、二人の人物のテクストを参照することを提示した。一つはゲオルク・ジンメルの「取っ手」というエッセー、もう一つがロラン・バルトの初期写真論-「写真のメッセージ」「映像の修辞学」である。前者が芸術における理念的次元と“取っ手”における実用性の次元を問題化していたとすれば、後者は写真における共示的メッセージ(歴史的・文化的コードに基づいた象徴的メッセージ)と外示的メッセージ(ただモノを指示するだけのコードなき逐次的メッセージ)の絡み合いに焦点をあてたと言えるだろう。

さて、ここからは、「ヨコハマトリエンナーレ2011」展に展示された作品を参照例(もちろん展示されたすべての作品ではないことを予め断っておく。という以上に、その参照例の選択はきわめて限られたものになるだろう)として、現代アートにおける“既製品”の使用について考えてみたい。

ジンメルが提示した問題を最もストレートに体現していると思われるのが富井大裕の作品である。富井大裕はありふれた日用品を作品化(造形作品化)することで知られている。今回の展示でも、画鋲を絵画化した「ゴールドフィンガー」を始めとして、折り紙や付箋、ベルトなどを作品化している。富井大裕が素材とするものは言うまでもなくありふれた“既製品”である。富井大裕はこうした日用品を使用することで、何を試みようとしているのだろうか。またそれらの作品を鑑賞するわれわれにどのような経験を強いようとしているのだろうか(そうだ、“強いる”のであって、参加するのではない-哄笑)。

ジンメルの論拠に従えば、富井大裕の作品はありふれた日用品-実用的なレベルにあるモノを理念的なレベル(作品化)に変換する試みと言えるだろう。例えば、「ゴールドフィンガー」は画鋲を絵画的な約定(コンヴェンション-平面化や矩形化等々)にしたがって、作品化したものと言える。まずわれわれは金箔を施した絵画のような作品に、その輝きや美しさを見る。しかし、よく観ればそれは画鋲によって構成されていたことが分かる。一見して美しいと思われたものが、実は画鋲の集まりに過ぎなかった、というわけである。富井大裕は“美”や“芸術”と呼ばれるものが、単なるイリュージョンにすぎないということを観者に体験させようとしているのか。

いわゆる反芸術的な作品の提示。例えば、もう一つ、男性用ベルト(?)を造形化した作品がある。こちらは誰がどう見ようと、男性用ベルトである。しかし、その奇妙に歪められた形は(造形的な操作によって)何か別なものにも見えてくる。前記したような鑑賞の仕方に従えば、前者が理念的な次元(芸術)から実用的な次元へ、後者が実用的な次元から理念的な次元へ、ということになろうか。いずれにしても、富井大裕が試みようとしているのが理念的レベルと実用的レベルの絡み合い、交換、変換、転換等々であることは明白であろうし、われわれ観者が経験するのはその絡み合いであろう。

ここでもう一つ思い出されるのが、マイケル・フリードがアンソニー・カロのテーブル作品を分析した「モダニズムはいかに作動するか」というテクストである。このテクストでフリードは、カロのテーブル作品におけるスケール感を実用的空間から区別・分離された抽象的な操作によるスケール感として分析している。

「片や取っ手のもつ日常的にしてリテラルな機能があるとすれば、片や分離を強いて
そのことによって(たんなる)物理的物体ではない芸術作品として理解させるという
意味でこの《テーブル作品第二二番》をリテラルにではなく抽象的に理解させる調律
的機能もがこの取っ手にはあるのだが、前者のリテラルな機能が、後者の抽象的な機
能によって、覆い隠されるのである」(「批評空間」1995所収 上田高弘訳)

このフリードの分析は、前回紹介したジンメルの「取っ手」というエッセーの問題と共鳴しているし、富井大裕の作品を鑑賞するにあたってのヒントともなるだろう。富井大裕の一連の作品は、理念的なもの(芸術)が一つのイリュージョンにすぎない(いわゆるモダニズムにおける否定の論理)ということを提示しているのではなく、理念的レベルに転換される操作-約定の数々を問題にしていると言えるだろう。芸術における抽象的な機能(絵画化、彫刻化)とはいかなることなのかと。フリード流にいえば、富井大裕は「モダニズムの画家が発見に努めるのは、絵画的なるものすべてに共通する、それ以上に還元できない本質なのではなく、芸術史のある特定の瞬間にあって自身の作品をほかならぬ絵画として同定することを許す約定の数々」を再検証することなのではないか。富井大裕の作品にあっては、その再検証は決して否定的な契機によるものではなく、むしろ「何が芸術における価値ないし質の究極の源泉なのか」を見極めるための作品ように思える。

ここで富井大裕の作品と比較対照化してみたいのが、泉太郎の作品(あくまでも今回展示された作品に限定するが)である。われわれが理解する限り、泉太郎の作品もまた、日用品(おもちゃや旅行用トランク等々)を素材と使用している。しかし、泉太郎の作品においては、富井大裕の作品とは異なり、日用品それ自体に対していかなる操作も施していない。泉太郎が操作を施しているのはあくまでも展示という次元に対してである。

おもちゃや旅行用トランクなどの日用品が、キッチュな仏像(?)とともに、部屋の中の台座の上に置かれている。われわれ観者は部屋の外から鑑賞することで、これらの作品と隔てられている。この距離感と台座が“芸術作品の展示”を表象していることは明らかだろう。さらに部屋の奥には何台かのモニターが置かれ、ゴリラ(?)に扮した何者かが展示された日用品と戯れる映像が映し出されている(芸術と遊びの対比?あるいは同一性?)。泉太郎はこうした展示をすることによって、何を意図しているのだろうか。

反芸術的な身振りの提示だろうか?“芸術作品”と呼ばれるものをユーモラスに茶化すことにあるのだろうか?(部屋の前に置かれた自転車の車輪を使った作品は、デュシャンの「ロトレリーフ」のパロディ?)というよりもそれ以上でも、以下でもないように思える。“芸術作品”と呼ばれるものを“お笑い芸人風笑い”で茶化すことで(笑)、“芸術”という概念を相対化すること(いわゆる否定の論理)。しかし、こうした反芸術的な身振り、あるいはユーモアは、観者におもねることによって成立しているのではないか。富井大裕の作品とは異なり、泉太郎の作品は、観者に対して新たな思考(あるいは経験)を強いるようには思われない。「アートなんて面白ければいいじゃん」というわけだ(大笑)。

ここで田中功起の展示作品「美術館はいっぺんに使われる」についても、泉太郎の作品との決定的な違いについても言及してみたい誘惑にかられるが(明らかに田中功起の展示作品も、“展示空間(あるいは芸術空間)”をテーマの一つにしているように思える)、田中功起の作品についてはいずれ稿を改めて論じてみたいと思う。

さらに、いくつかの展示作品を参照例に、現代アートにおける“既製品”の使用法についての考察を進めていきたい。例えば、ウィルフレド・プリエトの模造ダイヤモンドを使った作品「One」やマッシモ・バルトリーニの建築現場用足場を使った「オルガン」、あるいはダミアン・ハーストの蝶の羽を使った「知識の木」など、いずれも“既製品”を使って(ハーストの蝶の羽は厳密には“既製品”ではないが)、“オリジナル性と価値”や“美”、“荘重さ”、“聖なる空間”、“宗教”、“科学”といった一般的な概念、あるいは象徴的イメージを転倒・変容させようとしているように思える。

前回のレビューにも書いたように、一般的に写真の果たす機能(とりわけ広告写真)は、共示されたメッセージがコードのないメッセージから展開され、その結果として文化的なものが自然化され、真実性や事実性といった神話を形成することになる。まあ、きわめて簡単に言えば、一般的、通俗的、無反省な概念を自然化し強固なものにしてしまう。象徴的メッセージという文化性の逐次的メッセージによる自然化。

このロラン・バルトの分析にしたげば、プリエトやバルトリーニ、ハーストらの作品は、上記した方向と反対のことが生じているのが分かる。つまり、象徴的メッセージに対して“既製品”という逐次的メッセージが介入することで、象徴的メッセージを転倒・変容させているということである。バルトは「写真のメッセージ」の中で、「外傷が直接的であればあるほど、共示は困難である。あるいは、写真の《神話的》効果はその外傷的効果に反比例するという法則である」と書いている。ここでのバルトの“外傷”という言葉の使い方は、“外示的メッセージ”とほぼ同義である(バルトの“外傷”という概念は、後に大きく変化していくのだが)。“写真の神話的効果”とは、「象徴的メッセージの逐次的メッセージによる自然化」という意味である。つまり、プリエトやバルトリーニ、ハーストらの作品にあっては、“既製品”を象徴的メッセージに対して反比例の関係になる使い方をしているということだ。

ここで重要なことは、象徴的メッセージと逐次的メッセージ(“既製品”)の反比例の関係を維持することである。逐次的メッセージ(“既製品”)のみを提示することは、いわゆる「ただモノ主義」となろう。確かに、そうした無意味なモノの提示は、美術、あるいは美術館という制度に対しては、何らかの有効性を持ちえる(えた)かもしれないが、現在もまだ果たして有効かどうかは疑問だ。例えば、BankART Studio NYK(日本郵船海岸通倉庫)の会場では、砂や植物、動物といったものをモチーフにした作品が多かった気がする。その多くの作品は、ハーストの使い方とは異なり、自然的なもの(外示的メッセージ)の提示のみに終わっている気がする。

今回、「ヨコハマトリエンナーレ2011」展に展示された作品を参照例に、現代アートが“既製品”をどのように使っているのか、その分類を試みようと思ったのだが、力足らずして分類までには至らなかった。いずれ、この問題についてはまた改めて考えてみたいと思う。

今回、映像作品についてはほとんど触れることができなかったが、最後に、「ヨコハマトリエンナーレ2011」展で最も印象に残った作品の一つ、クリスチャン・マークレーの「The Clock」について、少しばかり書いておきたい。この作品は既製の映画作品からの引用で成り立っている。「時計」をモチーフに24時間の時刻を示すシーンをつないだものである。しかも、この作品を観るリアルタイムの時間と一致させている。例えば、午後3時にこの作品を鑑賞する者は、まさに午後3時のシーンを見るということである。観るリアルタイムの時間と映画シーンの時間との一致。僕は10分ほどしか見ていないが、24時間通して観たらどのような経験を強いられることになっただろうか。

一般に映像の時間とは、鑑賞者の“いま”に“かつて”が介入してくることである。あるいは映画館などでの映像経験は、“いま・ここ”にある身体をないものとし、意識を映像の中の“かつて・あそこ”に没入する経験でもあるだろう。マークレーの映像作品にあっては、意識の上では“いま”と“かつて”の分離・区別がないことになる(この区別ことが“いま・ここ”の身体を取り戻すことになる)。とすると、この作品を24時間見続けることは、鑑賞者の身体的時間が映像の時間によって完璧に簒奪されてしまうということだろうか。マークレーの作品は、そのアイディアやつなぎの面白さ(そのつなぎによってさまざまな物語を作り出すことが可能だ)以上に、実はきわめて不気味で、空恐ろしい事態を告げているのではなかろうか。


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