Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 7

2013年12月04日 | Weblog

現代アートにおける“既製品”の使用をめぐって。(前半)
ヨコハマトリエンナーレ2011「Our Magic Hour 世界はどこまで知ることができるか?」

今年で4回目を迎える「ヨコハマトリエンナーレ2011」のテーマは、「Our Magic Hour-世界はどこまで知ることができるか?」だそうだ。横浜美術館の正面玄関前に、その同一作家による作品が展示されているウーゴ・ロンディノーネの作品タイトル「Our Magic Hour」からとったものらしい。1回目の2001年のタイトルが「Mega-Wave」、2005年が「Art Circus」、2008年が「Time Crevasse」。各タイトルからその年の社会的状況なり、アートを取り巻く環境、それに対するディレクターやキュレーターの反応や意図などを読み解くことが可能かもしれない。たとえば、1回目のタイトルにはいかにもスタート時らしく、日本から、横浜から、現代アートの“大きな波”を発信していこうという意気込みを感じるし、2回目のタイトルにはスペクタクルなアート=祝祭というお祭り気分がうかがえる。3回目のタイトルにはやや落ち着きを取り戻したのか、少しは“芸術”について考えてみようぜという雰囲気がないでもない。さて今年は、3月11日の東日本大震災後の開催とあって、あまり祝祭的な色合いは感じない(といっても、実際の企画や準備は3・11以前から進められていたのだろうが・・・)。「世界はどこまで知ることができるのか?」というサブタイトルにはやはり、東日本大震災後を意識している気がしないでもない。

とはいえここで、ヨコハマトリエンナーレそれ自体について論評するつもりはない。初回から深い関心を寄せてきたわけでもないし、国内外で催されている現代アートの国際展に詳しいわけでもないので、比較することも、評価を下すこともできない。ただ、こうした大規模な現代アート展はあまり好ましいとは思っていないというのが率直な意見だ。そこで展示される作品があまりにも多く、多種多様なため、それらを集約し、包括するにしても、最終的には“見世物”“娯楽”という要素しか残らない気がするからだ。さまざまな作品が次々と並んでいるのを見ると、われわれの知覚能力は麻痺してしまい、いわば催眠状態に陥ってしまう。個々の作品の印象は、意識の表層をかすめていくばかりで、けっきょく残るのは、ここは“楽しむ場所”なのだ、“アートを楽しめ”という天の声だけである(笑)。個々の作品の印象は薄められ、“娯楽”という唯一の公分母に還元されてしまうというわけだ。もちろんだからといって、こうした国際展を全面的に否定するつもりはない。おぼろげながらも、現代アートが何を問題にし、何をやろうとしているのか、その一端をとらえることができるし、個々の作家の問題意識や方法なども比較対照化することもできる。

とまあ、前口上が長くなったが、今回は「ヨコハマトリエンナーレ2011」を見ながら、思いついたこと、考えたことのいくつかをアトランダムに述べてみたいと思う。もう一つ、あらかじめ断っておけば、今回、メイン会場の一つである横浜美術館での展示しか見ていないので、次回も含め2回にわたって「ヨコハマトリエンナーレ2011」について述べてみたい。次回は今回とはまったく異なる観点、見方、論評を披露するかもしれないが・・・。

現代アートの定義、あるいは特徴づけているものはなんだろうか。もちろんその答えはさまざまであろうし、その定義あるいは特徴をどうとらえるかで、各論者の芸術観なり、芸術と社会の関係性のとらえ方なりが違ってくるだろう。そもそも近代アートと現代アートはどこで区分されるのか、あるいはむしろ区分されず連続的なものなのか。これもまた論者によって異なるだろう。

現代アートを特徴づけるものを考えるにあたって、「ヨコハマトリエンナーレ2011」を見ながら頭に浮かんできたのはやはり、“既製品(readymades)”というキーワードであった。実際、「ヨコハマトリエンナーレ2011」の展示作品においても、多くの作品が“既製品”を使用している(ざっと挙げれば、島袋道造、オノ・ヨーコ、イン・シウジェン、富井大裕、ウィルフレド・プリエト、田中功起、ライアン・ガンダー、八木良太、ダミアン・ハースト、マッシモ・バルトリーニ、デワール&ジッケル・・・)。もちろん現代アートを語る上で“既製品”というキーワードは目新たらしいものではないし、すでに多くのことが語られてもいる。屋上屋を架すことになるかもしれないが、“既製品”という観点から「ヨコハマトリエンナーレ2011」における展示作品のいくつかについて、あるいは現代アートについて考えてみたいと思う。

さて、芸術における“既製品”使用の起源となると、ブラック/ピカソのコラージュ(壁紙、油布、新聞紙、木片など)に求めるべきか、シュールレアリズムの“見出されたもの(found object)”に求めるべきか、知識不足の筆者にはなかなか断定的なことを言うのは難しい。それでもやはり、“既製品”の使用法において、現代アートに連なる文脈で語れるとすれば、デュシャンということになるだろう。実際、前二者とデュシャンにおける“既製品”の使用法はまったく異なるように思える。デュシャンにおける“既製品”の使用にはどのような意味があるのか、現代アートはデュシャンにおける“既製品”の使用をどのように受け継いでいるのか、そのあたりを少しばかり考えてみたい。

ところで、20世紀初頭のドイツの社会学者ゲオルク・ジンメルに「取っ手」と題された面白いエッセーがある。このエッセーでジンメルは水差しや容器の“取っ手”について、美学的な分析を行っている。

  「取っ手をつうじて容器に権利要求をする外界と、そのような外界にかまうことな自分
  自身のために権利要求をする芸術形式と、この二つの世界を取っ手の形態がどのように
  自らのうちに調和させているか-これが取っ手の美的効果を判定するさいに、無意識に
  作用している試金石であるように思える」*1

ここでジンメルが述べている“芸術形式”とは、水差しや容器の本体のことである。つまり、水差しやある容器を美的価値のあるものとして観察するならば、その本体は芸術的な形態として自律している(あるいは自律化可能である)。しかし、“取っ手”は実用的な生活の動きのなかに取り込まれているものであって、自律した理念的空間=芸術形式と外界をつなぐ蝶番の役割を果たしているということである。

 「みずから芸術形式のなかに取り込まれながら、同時に芸術作品を世界へとつなげる仲介
  役を果たす、これが取っ手の原理にほかならない」*2

この蝶番としての“取っ手”をどのように扱うか、その扱い方(“取っ手”という存在が本体の芸術形式に組み込まれるのか、実用的な機能を保持するのか)をめぐっての分析が新たな美的価値の提示ともなっている。ここでわれわれの関心を惹くのは、言うまでもなく“取っ手”という部分を考察の対象にしたことである。まずジンメルは、芸術作品とは「その内容を現実の表象から得てはいるが、そこからひとつの独立国を作り上げる」ものとしてとらえている。芸術作品とは現実から区別・分離された自己完結した世界であり、理念的空間のなかでその存在を営んでいる。自己完結するためのモチーフとなるのが色や形といった形式である。こうした芸術のとらえ方はグリーンバーグを範とするモダニズム批評にきわめて近いものであろう。ところが、ジンメルは“取っ手”という存在に注目することで、自律した理念的空間に対しての外界からの介入を問題化する。自律した理念的な世界=芸術的空間に対して、外界からの介入を許す開閉弁のような“取っ手”の役割。そして、こうした“取っ手”がもつ理念と実用性(経験)の二重性こそがより高次の美をもたらすというのがジンメルの主張である。

慧眼な読者にあってはすでにご察しのとおり、ジンメルが考察・分析する“取っ手”の機能と、デュシャンあるいは現代にアートにおける“既製品”が作動する機能をパラレルに論じてみようというのが本稿の意図である。と同時に、もう一つ別の迂回路-写真というメディアを介在させることで、現代アートにおいて、“既製品”がどのように作動し、どのような役割を果たしているのかを考えてみたい。

周知のように、ポストモダニズム批評以降、写真はそのメディア特性を理念と経験の二重性としてとらえられている。かつてのような“科学と芸術”“記録と表現”“現実と表象”“客観と主観”といった一連の二項対立でとらえるのではなく、むしろその二重性にこそ写真というメディアの特性があるということである。もちろん言うまでもなく、写真の二重性を指摘することが重要なことではない。問題はその先にある。

ロラン・バルトは記号学的アプローチによる初期の写真論「写真のメッセージ」や「映像の修辞学」*3において、写真のメッセージを共示(connotation)されたメッセージと外示(denotation)されたメッセージの二つが共存されたものととらえている。共示されたメッセージとは「社会がそれについてどう考えるかをある程度読み取らせる仕方」である。いわば社会的・文化的・歴史的にコード化されたメッセージである。他方の外示(denotation)されたメッセージとは現実の「アナロゴン(類似物)そのもの」であり、そのアナロゴンが指し示す、言葉の外にある現実である。いわゆるコードなきメッセージである。もちろん、バルトも指摘するように、「写真は知覚された瞬間に言語化されるし」、「言語化されなければ、知覚されない」。しかし、権利上、写真は光による物の痕跡(鋳型)として、直接的に意味作用なく物の存在を指し示している。これを写真論ではおなじみのインデックス性と呼んでもいいだろう。

「写真のメッセージ」や「映像の修辞学」における眼目は、共示されたメッセージがコードのないメッセージから展開(外示されたメッセージの修正)することにあり、その結果として文化的なものが自然化されてしまうという写真のパラドックスにある。実際、バルトはその共示方式(トリックやポーズ、被写体、フォトジェニー、審美主義、統辞法など)の分析に多くのページを割いている。しかし他方で、バルトは写真というメディアがもつ可能性も示唆している。一つは「外示されたメッセージと共示されたメッセージのからみ合い」である。そしてもう一つが映像レベルにおける“外傷(トラウマ)”という概念である。

「外示されたメッセージと共示されたメッセージのからみ合い」とは、外示されたメッセージと共示されたメッセージがどのような関係にあるかである。一般的に写真の果たす機能は、共示されたメッセージがコードのないメッセージから展開され、その結果として文化的なものが自然化され、真実性や事実性といった神話を形成することになる。まあ、きわめて簡単に言えば、一般的、通俗的、無反省な概念が自然化されて強固なものになってしまうということだ。しかし、外示されたメッセージと共示されたメッセージの関係性を変えることによって、一般的な写真の機能を覆すことができるのではないか。つまり写真による意味作用を変化させるということである。

そしてもう一つの“外傷という概念。バルトは映像レベルにおける“外傷”とは、「言語活動を中断し、意味作用を塞き止めるものである」と言っている。この“外傷”という概念は後に、“第三の意味”や“鈍い意味”、“プンクトゥム”という概念で展開されていくものである。

われわれがここで注目したいのは“外示されたメッセージと共示されたメッセージの関係性”と“外傷”という概念である。と同時に、バルトが写真というメディアから取り出した、この二つの観点をデュシャンあるいは現代アートにおける“既製品”の使用に応用してみることである。次回の後半では具体的に「ヨコハマトリエンナーレ2011」の展示作品に即しながら、“既製品”の使用法について考えてみたいと思う。

注:
*1・ゲオルク・ジンメル著「取っ手」(『ジンメル・コレクション』所収 ちくま学芸文庫 北川東子編訳)

*2・同上

*3・ロラン・バルト著「写真のメッセージ」「映像の修辞学」(『第三の意味』所収 みすず書房 沢崎浩平訳)


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