Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 5

2013年12月03日 | Weblog

リヒターのガラス
リヒターとトゥオンブリー 新作エディション展(WOKO WORKS OF ART)
リヒター作品集『SINDBAD』

いましがた塗りたくられたペンキのような、てかてか光った、滑らかな色彩。毒々しいまでの人工性。他方で、流動的で粘り気のある生々しさはどこか天然の色を思わせる。人工性と天然性。近年、ゲルハルト・リヒターが手がける絵画作品シリーズ-「シンドバッド」「アラジン」「アブラダ」*1における色彩は、これまでの抽象絵画が現前させてきたどの色ともどこか違って見える。この違いはどこから来るのだろうか。形に従属した色彩でもなければ、何か観念的な意味へと翻訳されるような色彩でもない。色そのものの現前。それはけっきょく意味や象徴性が剥ぎ取られ、自律した色彩が音楽のようなものになったということか。それならばカンディンスキー以来、多くの抽象絵画が試みてきたことではないか。確かに、そうした一面もないとは言えないが、リヒターの色彩はもう少し即物的で、物資的である。だからといって、たとえばルーチョ・フォンタナやジャン・フォートリエのように、色が物質的なもの還元されてしまうわけでもない。おそらく、この非物質的でもなく、物質的でもない、あるいはそのいずれでもあるような効果をもたらしているのは、ガラスの存在である。

「シンドバッド」「アラジン」「アブラダ」のシリーズは、ガラスの表面にラッカーを塗りたくったものである。われわれは、ラッカーを塗った側を表面とすれば、それを裏側から覗いていることになる。ラッカーという塗料自体、そもそも光沢の強いものであるが、ガラス面によってさらに滑らかさが増していることは明らかだろう。このガラス面の一様な滑らかさが、まるで写真の表面のように塗料の凹凸や起伏といった触覚性をやわらげ、非物質的な色彩にしている。他方で、色の混じり合いや液体的なうごめきが物質性を喚起させてもいる。リヒターは観念的なものにも、物質的なものにも還元できない色彩を出現させようとしているのだろうか。

もちろんわれわれはすでに、こうした出現を名指す言葉を知っている。「シャイン(仮象)」。「シャインは私の一生のテーマだ。存在するあらゆるものが我々の目に見えるのは、我々がその反映するシャインを知覚するからであって、その他のものは目に見えない。絵画は、他のどの芸術にも勝って、ひたすらシャインに携わっている」*2。 「シャイン」は外見、外観、見せかけ、うわべ、仮象を意味するとともに、光、輝き、光沢、つやなどの意味もある。言うまでもなく西洋において、前者の意味としての「シャイン」はつねに否定的に使われてきたものだ。「シャイン」に対する本質や実体。モダニズム写真が追い求めてきた“ありのままの現実”もまた、写真登場以前の絵画という「シャイン」に対する否定であったろう。いや、マネに始まるとされる近代美術のイデオロギーもまた、「イデア」を「シャイン」として否定することで、「ものそのもの」の露出を目論んだとも言えるだろう。とするならば、リヒターは「シャイン」を再び肯定することで、写真登場以前の絵画に回帰しようとしているのだろうか。

もちろん、否である。上記の引用でも分かるように、リヒターには「シャイン」に対する本質や実体といった二項対立はない。すべてが「シャイン」である。われわれが見るすべてのものが「シャイン」である。肉眼で見る物も、写真も、映画も、絵画も・・・・・・。とするならば、いったい何が問題なのか。リヒターは続いて言う「絵画は、他のどの芸術にも勝って、ひたすらシャインに携わっている」と。ここでリヒターが絵画に特権性を与えるのはどうしてなのか。すべては「シャイン」であるが、「シャイン」が出現する条件や仕組みが違うということである。おそらく、リヒターが絵画に特権性を与えるのは、絵画が「シャイン」が出現する条件や仕組みの操作に最も適しているメディウムと考えるからではないか。それでは、条件や仕組みの操作とは何か。

清水穣はそのきわめて示唆に富んだリヒター論*3のなかで、リヒターの芸術に一貫するコンセプトを「任意のものの姿を(具象であろうと抽象であろうと)すべて「シャイン」に変換すること」と定式化し、「純粋なシャインへ、つまり鏡の表面で停止した映像へと転じる」ことと語っている。そして、その方法が「「鏡面」自体を出現させること」であると。「それ自体は不可視でありながら、すべての可視性の基盤となっている平面、いわば二次元の視覚表現にとってのゼロ面を出現させること、可視性の根拠としての「見えないもの」を認識し、それを感覚の領域へと導きだすことである」。清水穣はリヒターのフォト・ペインティングからアブストラクト・ペインティングに至るまでの一連の作品を、この「ゼロ面の出現」=純粋な映像(シャイン)を露出するための方法ととらえている。

リヒターにおけるガラスの使用もまた、清水穣が指摘する「ゼロ面の出現」と深い関わりがあることは言うまでもない。リヒターはすでに「8枚のグレイ」や「ガラス板」、「ガラスの裏のグレイ」、「直立する5枚のガラス」といった作品において、ガラスを多用した作品を数多く手がけている。リヒターにとってガラスとはどのような機能を持っているのだろうか。考えてみれば、われわれはほとんど意識することがないが、写真とはガラス(レンズ)を透した映像にほかならない。リヒターのフォト・ペインティングとは清水穣が指摘するように、写真における表面(ガラス)を可視化したものである。

ガラスとはその透明性が増せばガラスというスクリーン(表面)は知覚できなくなり、その不透明性が増せば鏡となってガラスに写った像を出現させる。清水穣が語るように、ガラスとは「それ自体不可視でありながら、すべての可視性の基盤となっている平面」そのものと言えるだろう。つまり、すべてが「シャイン」であるということは、われわれはガラス(スクリーン)越しにすべてを見ているということである。確かに、「シンドバッド」「アラジン」「アブラダ」シリーズも、ガラスに塗られた塗料がガラスの裏側から見られることによって、その凹凸や起伏が掻き消され、否が応でもガラスの表面が知覚される=出現することになる。とするならば、リヒターの一連の作品における「ゼロ面の出現」とは、「われわれはすべてをスクリーン越しに見ている」ということを認識させるだけのものなのか。それではあまりにも貧しすぎないか。リヒターの作品を鑑賞するわれわれの知覚体験をあまりにも矮小化しすぎてはいないだろうか。リヒターの一連の作品は、「ゼロ面」を出現させるというよりも、「可視性の基盤となっている平面」=「ゼロ面」の操作に関わるものではなかろうか。つまり、「シャイン」とは「ゼロ面」の操作に関わることであり、「ゼロ面」の操作によって「シャイン」に対するわれわれの知覚体験が異なるということである。

周知のように、絵画における可視性の基盤となる「平面性」にいち早く着目し、理論化したのがグリーンバーグである。しかし、グリーンバーグが問題とした「平面性」とは、キャンバスの地としての平面でもなければ、イメージが出現する支持体のことでもない。グリーンバーグは「モダニズム絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない。絵画平面における感性の高まりは、彫刻的なイリュージョン(シャイン)もトロンプ・ルイュももはや許容しないかもしれないが、視覚的なイリュージョン(シャイン)は許容するし許容しなければならない。表面につけられる最初の一筆がその物理的な平面性を破壊するのであり、モンドリアンの形状もまた依然としてある種の三次元のイリュージョン(シャイン)を示唆している」*4と語っている。ここでグリーンバーグが語っている「平面性」とは実体的なものではない。むしろ、イメージを出現させる条件のようなものである。絵画平面が「彫刻的なイリュージョン(シャイン)もトロンプ・ルイュももはや許容しないかもしれない」とは、視覚的なイリュージョン(シャイン)もたらす平面の条件が変わったということである。

それでは、リヒターはイメージ(シャイン)が出現する平面の条件をどのように変え、われわれの知覚体験をどこに導こうとしているのだろうか。とりあえず、「シンドバッド」シリーズに絞って、この問題を考えてみたい。

一般的に絵画と呼ばれるものにおいては、何らかの支持体-キャンバス地を始めとする物質的な素材の上に絵の具等が塗られる。絵の具等によって何らかの形象が描かれることによって、支持体としての平面性は掻き消され、一つのイリュージョン(シャイン)が出現する。ルネサンス絵画にあっては、そのイリュージョンは遠近法的な手法によって組織化され、平面性は透明な窓(あるいは舞台)としてわれわれは知覚することはなかった。マネに始まる近代絵画はこの透明な窓としての遠近法を疑い、キャンバス地といった支持体そのもの(平面性)を前景化していくだろう。ここでの平面性の前景化はあくまでも遠近法的な操作による知覚を脱構築することであった。しかし、この平面性(支持体そのもの)の前景化は、“ありのままの現実”や“ものそのもの”といったイデオロギーと相俟って、やがて「オブジェとしての絵画」として、その平面性は実体化されることになるだろう。

バタイユはそのマネ論において次のように書いている。「私が語った-そして隠されたままになっていた-この奇妙な手術(操作)の魔術を、マルローが強調しなかったのはおそらくまちがっている。彼はマネの決定的な行為(そこから近代絵画と主題に対する無関心がはじまる)を把握した、しかし、彼はマネの態度を他の印象派たちのどうでもいい無関心と対立させるものを強調しなかったのである。彼は、必ずしも他のものよりも美しいタブロオというわけではない『オランピア』に、その手術(操作)の価値を与えているもの、つまりあの沈黙を、正確に定義しなかった」*5。ここでバタイユがマルローを批判している「主題の無関心さ」は、マネの絵画のフォーマリズム的読解につながるだろう。「主題の無関心さ」=形式への志向。そして、このフォーマリズムは奇妙にも人間的な意味を剥奪された「裸形のもの」というイデオロギーとも結託することになり、形式と内容という相変わらずの二項対立を保持することになる。しかし、バタイユが強調している「手術(操作)の魔術」とは、イヴ=アラン・ボワも指摘するように*6、「横滑り」であり、「分類を乱す」ことなのである。つまり、知覚条件の秩序を撹乱すること。

リヒターの「シンドバッド」シリーズにおける支持体とは何か。ガラスではむろんない。むしろラッカー塗料こそが支持体であり、われわれが見ているのはガラスである。ラッカー塗料に描かれたガラス?もちろん、われわれが見ているものはラッカー塗料である。とすると、ここでの「平面性」とはどこに出現しているのか。当然ながら、ラッカー塗料が「シャイン」の出現する平面性を支えているわけではない。つまり、「シンドバッド」シリーズにおける「シャイン」の出現は、通常の絵画の条件を転倒させている。ここでの「平面性」はフェノメナルなものであり、物資的な支持体にも、遠近法的な透明な窓(観念的なもの)にも還元されない。リヒターの操作(条件の変更)によって出現した「平面」である。「平面」こそが「シャイン」であり、「シャイン」とはまた視覚的「平面」であることになるだろう。

すべてが「シャイン」であるということは、われわれの知覚すべてが錯覚(見せかけ・仮象)ということである。しかし、すべての錯覚は同じ錯覚ではない。肉眼というメディウムも、絵画というメディウムも、写真というメディウムも、映画というメディウムも、その条件によって異なる錯覚をもっている。知覚の条件を変えるとは、これらの異なる錯覚をコラージュすることではなかろうか。錯覚と錯覚のズレから“出会い損ねた現実”(不可視の現実であり、いわば宇宙の持続そのもの)が幽霊のようにつかのまの姿を現わす。そのとき、われわれはある時代の支配的な知覚条件から横滑りすることになるだろう。思えば、近・現代美術とは知覚条件の不断の変更、再編成と言えないだろうか。リヒターの「シンドバッド」「アラジン」「アブラダ」といったタイトルは、アラビアンナイトに登場する人物たちの名前であろう。アラビアンナイトは語り手が自らの死を引き延ばすために、毎夜、王に語りかける物語である。リヒターはその晩年にあたり、描くこと=死を引き延ばすことに賭けているのだろうか。


*1:この論考は「シンドバッド」を中心に考察されていることをお断りしておく。したがって、「アラジン」や「アブラダ」との相互比較はまったく考慮していない。
*2:ゲルハルト・リヒター著『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』参照。
*3:清水穣著『ゲルハルト・リヒター/オイル・オン・フォト、一つの基本モデル』参照。
*4:クレメント・グリーンバーグ著「モダニズムの絵画」(『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳)参照。引用内の(シャイン)は筆者が追加したものである。
*5:ジョルジュ・バタイユ著「マネ論」(『沈黙の絵画』宮川淳訳)参照。引用内の(操作)は筆者が追加したものである。
*6:イヴ=アラン・ボワ著「「アンフォルム」の使用価値」(イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム』加治屋健司他訳)参照。


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