Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

写真における真理

2010年05月28日 | Weblog
-ジャック・デリダに倣って、誰かが、私ではない誰かがやってきて、次のような問いを発したとする。「私は写真の区別のされ方に関心がある」と。
-写真の区別?つまり、報道写真、広告写真、家族写真、記念写真、建築写真、医学写真、記録写真、風景写真、人物写真……といったもろもろの「…写真」として分類される写真のことか。
-確かに、「…写真」として分類される、その分類法にも関心がないわけではない。しかしすでに君が並べて見せた「…写真」の分類には、その分類法に混同があるように思える。被写体による分類なのか、写真の使用法における分類なのか……。
-写真の使用法とその被写体には不可分な関係があるのではないのか。被写体の選択が写真の使用法を決めるのか、写真の使用法が被写体を限定するのか……。
-……。「写真の区別のされ方」という問いにおいて着目してみたいのはむしろ、「…写真」と言われる写真と「写真」と呼ばれるものの区別なのだ。
-「…写真」と「…写真」と呼ばれない写真の区別のことか。
-写真史を紐解いてみればお分かりのように、写真装置の登場以来、写真というイメージの使用において、さまざまな領域が存在したことは明白だろう。その一つに当然ながら、“芸術としての写真”もあった。初期写真においてはとりわけ、「肖像写真」において“芸術としての写真”が追求されたことは周知の事実だろう。しかし、写真の黎明期における「肖像写真」は言うまでもなく「肖像画としての肖像写真」であった。つまり、絵画的カテゴリー、あるいは従来の美的(芸術的)カテゴリーに倣った「写真」ということだ。それに対して当然ながら、写真固有の表現性が見出されるなかで“写真としての芸術”が志向されることになる。この場合の“芸術”とは、言うまでもなく従来の絵画的、あるいは美的カテゴリーに収まらない“芸術”ということになろう。
-しかし、それでもなお、それを“芸術”と呼ばざるを得なかったのはどうしてなのか。
-“写真としての芸術”と呼ばざるを得なかった「写真」をとりあえず「モダニズム写真」と呼んでおこうか。
-“写真としての芸術”と「モダニズム写真」をイコールで結ぶのはどうしてなのか。
-“写真としての芸術”が従来の“芸術”とは異なる位相で“芸術”を求めたと同時に、他のあらゆる「…写真」とは異なる写真を求めたことでもあるからだ。
-その論理は「モダニズム美術-絵画や彫刻」が絵画や彫刻以外の何ものにも依存しない、還元できない絵画や彫刻を求めたことと同じであるということか。つまり、「モダニズム美術」が絵画あるいは彫刻における固有言語(イディオム)を求めたように、写真における固有言語を求めたということか。
-「…写真」から「…」を限りなく排除することで、いわば純粋な「写真」を求めたということだ。
-ということは、写真におけるあらゆる社会的使用を排除しようとしたということになるのか。
-つまり「モダニズム美術」と「モダニズム写真」は同じ論理を有しているということだ。
-しかし、60年代後半から70年代にかけて、“写真としての芸術”は一般社会で使われる写真を積極的に取り入れていくようになるだろう。「プライベート写真」しかり、「家族写真」しかり、「医学写真」しかり……。
-しかも、美術側-絵画や彫刻につらなるアーティストたちが積極的にそうした「…写真」を“現代美術”に導入していくことになる。もちろん、写真家たちおいても。つまり、またつまりだ、「モダニズム写真」以後の写真(とりあえず、「ポストモダニズム写真」と呼ぼう)は、写真の固有言語を放棄したということだ、おそらく。
-もはや、それらは“写真としての芸術”とも呼べないものではないのか。
-確かに。しかし、それらの写真を「…写真」とも呼ぶこともできないだろう。
-「…写真」と呼べない「…写真」なのか。
-「…写真」の使用法を真似がなら、「写真」そのものを志向すること。これはいったいどういうことなのか。その区別はいかになされるべきなのか。それが問題の核心だ、おそらく。
-また、おそらくか。「…写真」でもなければ、“芸術”でもない写真。「写真」そのものとしての「写真」。しかしその「写真」は、社会一般で使われる「写真」の使用法を真似ることで「写真」そのものになろうとする。あなたに倣って言えば、つまり、写真における固有言語は、社会一般における写真の使用法の側にあったということか。果たしてわれわれはこの矛盾を引き受ける必要があるのだろうか。別な問題の立て方はないのか。
-確かに、われわれは先を急ぎすぎているのかもしれない。
-一つ確かに言えることは、「ポストモダニズム写真」における、写真の社会的使用法の導入の多くの事例は、美学的なアプローチというよりも、その写真の使用法そのものの機能を主題にしていることだ。つまり、ある領域での写真の使用法がどのように作動しているか、それを批判的にあらわにしようというわけだ。
-しかし、そうした写真の使用法における内在的な批判は、グリーンバーグが語ったモダニズムの論理と同じことではないか。いわく「モダニズムの本質は、ある分野を批判するためにこの分野に特徴的な方法を用いることにあるが、それはこの分野を破壊するためではなく、その権能の領域内にこの分野をより強固に確立するためである」と。
-まさにカント的批判だ。しかし、「ポストモダニズム写真」は、当該の分野を破壊=批判するために「写真」を用いていると言えないか。なぜなら、「ポストモダニズム写真」は、写真の社会的使用という、モダニズム的立場からすれば、「写真」に付随する本質外の機能を問題にするのだから。
-写真的視覚への批判ということか。つまり、「ポストモダニズム写真」は写真の社会的使用法、とりわけマスメディアににおける誤った使用法を内在的に批判するということか。本来的な「写真」を奪還するために、あるいは写真の正しい使用法を求めて…。
-しかし当然ながら、写真の正しい使用法があらかじめあるわけではない。したがって、写真に対する内在的批判は永遠に繰り返されることになるだろう。
-あなたが言う、もう一つの美学的アプローチとはどういうことか。
-感覚次元での拡張ということだ。例えば、「モダニズム写真」における物に関する物質的な相の追求、あるいは幾何学的構図に基づくフレーミングといった…。
-「ポストモダニズム写真」は、“見ること”そのものを主題化するということか。
-メディア批判から、視覚そのものまでを主題化するということだ、おそらく。
-また、おそらくか。あなたはあなたの発言に確信が持てないわけだ。それでは、「ポストモダニズム写真」の「モダニズム写真」に対する批判的側面はどこにあることになるのか。
-「モダニズム写真」が写真の社会的使用を排除し、美学的アプローチに制限されていくなかで、一つは言うまでもなく、アカデミズムの中で形骸化していくだろう。と同時に、それと反比例するかのように、写真の社会的使用はますます拡大していくだろう。「モダニズム写真」が切り開いた美学的効果を徹底的に利用しながら。われわれはその最大の成果を広告写真に見ることになる。
-ところで、同じ「ポストモダニズム写真」と重なる時期に登場する、グルスキーやシュトゥルートといった、いわゆるドイツ・デュッセルドルフ派の写真はどうなのか。彼らの写真は彼らの意図がどうであれ、けっきょくは美学的なカテゴリーに分類できるもの、あるいは回収されてしまったのではないか。
-ドイツ・デュッセルドルフ一派をひと括りにするわけにはいかないが、確かに彼らの写真は美学的カテゴリーに納まるものだろう。もちろん、彼らの細密なディテール表現に基づく巨大なフォーマット・イメージは、「モダニズム写真」が求めた知覚の拡張とは異なるものだが。
-実際、彼らの写真がグローバルな市場を獲得した要因には、巨大なフォーマット・イメージというのがあるんじゃないのか。ちまちました「写真」よりは価値がありそうに思える。
-(笑)。それはそうだろう。写真の登場以来、視覚的驚きというものは、一般大衆が最も好むものなのだから。しかし、その点だけを捉えて論じては、あまりにも了見が狭いというものだ。実際、デジタル以降の「写真」(とりあえず、「ポスト・フォトグラフィ」と呼ぼう)は、新たな美学的アプローチによる「写真」が大勢を占めるようになるわけだから。そこに何がしかの意義がないわけではないだろう。
-たとえば、グルスキーにおける現代の建築環境という、新たな風景写真のことか。
-確かに、ティモシー・オサリヴァンやヘンリー・ジャクソンが地形測量学的アプローチにより、アメリカの自然に新たな風景写真(眺めという美)を生み出したとすれば、グルスキーは現代の建築空間に崇高な風景を見出したことになるだろう。
-話は飛躍するかもしれないが、90年代に登場する日本のいわゆる「ガーリーフォト」と呼ばれる写真はどう位置づけられるのか。
-「ガーリーフォト」をどう定義するか分からないが、身近なことがらを自らの感覚にしたがって切り取った写真とすれば、「モダニズム写真」と相反するという意味で「ポストモダニズム写真」と呼べるかもしれない。しかし、前述した「ポストモダニズム写真」(その多くの事例は欧米にあるのだが)とは大きく異なるだろう。
-では、なぜ、「ガーリーフォト」は評価されたのか。
-そこにも、「…写真」と「写真」の区別のされ方の問題が横たわっているのではないか。またおそらくを使って申し訳ないが、「ガーリーフォト」を評価した人たちが70年代に登場してきた写真家、あるいは評論家たちだと言うところに問題の核心があるのだ。70年代に登場してきた写真家たちの多くは、写真を内在的に批判する形で「モダニズム写真」と一線を画そうとした写真家たちだ。その一つの方法として、彼らは形式化・美学化する「モダニズム写真」に対して、私の「生きた経験」を重視するだろう。この「生きた経験」というのは言うまでもなく現象学に由来するものだ。あらゆる意味を、表象性を引き剥がし、「私」という純粋な知覚をあらわにしようと。当然、ここにもモダニズムにおける「否定の論理」が働いているわけだが。その帰結として、「素直さ」「素朴」「直接性」「リアリティ」「身体」といったタームが氾濫することになる。彼らが「ガーリーフォト」を評価するのは当然だろう。「ガーリーフォト」は彼らが到達したところから出発するのだから。しかし、彼らは大きな誤解をしている、おそらく。70年代に登場してきた写真家たちが写真の知覚を身体化しようとしたのに対して、「ガーリーフォト」の身体はすでにして写真化されている(された知覚)ということだ。「ガーリーフォト」における「素直さ」「素朴さ」「リアリティ」「身体」とはカメラ化された身体(感覚)なのであって、前世代の写真家たちが求めた「生きた経験」はもはやここにはないのだ。ここに大いなる誤解がある。「写真の身体化」と「身体の写真化」。ついでに言えば、「ガーリーフォト」が多くの“女の子”の間に登場したことを「男性原理と女性原理」から説くことにも賛成できない。「ガーリーフォト」を体現したのが“女の子”だったのはあくまでも社会的制度(あるいは社会的状況)によるものなのであって、「性の原理」とはいささかも関係がない(なぜなら“女の子”たちは社会や現実と直接向き合う必要のないモラトリアムを生きているのだから)。
-とすると、「マスメディア化された写真」を本来の「私」に奪還しようとした70年代の写真家たちに対して、「ガーリーフォト」は「マスメディア化された私」をあらわにしたということか。メビウスの出会い。
-(笑)。皮肉なことにも…。ところで、70年代に登場した写真家たちの間違いは、「モダニズム写真」が抽象的がゆえに、撮る次元における「生きた経験」を対置したわけだが、「モダニズム写真」が批判されるべきなのはむしろ、十分に抽象的でないがゆえに批判されるべきなのだ。
-あなたはもちろん、「ガーリーフォト」に対して批判的なスタンスをとっていると思うのだが、「身体の写真化」に対しても批判的な見方をしているのか。
-「身体の写真化」あるいは「身体の機械化」に関しては、そう単純ではないと思う。かつてのヒューマニズムのように批判するわけにはいかない。「写真化あるいは機械化された身体が何をなしえるか、まだ誰も知らない」のだから(笑)。おそらく、この問題は「ポストフォトグラフィ」の話になるだろう。
-「ポストフォトグラフィ」か。それはデジタル化以後の写真ということなのか。
-おっしゃるとおりだ。
-先ほどあなたがおっしゃったように、先を急がず、堂々巡りを恐れず、反復を避けることなく、もう一度「写真の区別のされ方」にこだわってみようではないか。とりあえず、「モダニズム写真」「ポストモダニズム写真」「ポストフォトグラフィ」と大きな時代区分のタームが出揃ったのだから。それぞれの区別のされ方をもう一度考えてみようではないか。「モダニズム写真」、「ポストモダニズム写真」は何故に何から何をどのような方法で区別しようとしたのか。「ポストフォトグラフィ」は何故に何から何をどのような方法で区別しようとしているのかと。
-私を区別してくれ、愛する人よ。他の多くの人から私だけを区別してくれ、愛する人よ。そもそも「区別するとはどういうことか。愛されるために区別されることか。
-愛することはすでにして区別することではないのか。
-ジャン=リュック・ナンシーはその著『イメージの奥底で』のなかで、分離されたもの、距離をおかれたもの、切り取られたものは、聖なるものだと語っている。そしてイメージとは聖なるものであると。
-あなたはこれから語る「区別」について、ジャン=リュック・ナンシーが言う「区別するの力としてのイメージ」と重ねて「区別」という概念を考察してみようというわけか。
-表象(re-presentation)、表現(expression)、抽象(abstraction)等々とからませながら。これらの語句はすべて区別・分離に関わっている。肖像画(por-trait)、特徴線(trait)、ある意味では接頭語de(分離して)との関連においてデザイン(de-sign)もまた。もちろんここで、ナンシーについて語りたいわけでも、イメージについて論じるつもりもない。19世紀に登場した写真というイメージを区別してみたいのだ。
-写真というイメージを何から区別しようというのか。
-もちろん言うまでもなくまずは絵画的イメージからだろう。それがまた「モダニズム写真」が区別しようとしたことそのものではないのか。
-絵画的イメージと写真的イメージの区別ということか。
-初期写真において当然ながら写真的イメージは、初期の肖像写真のなかにその典型性が現れているように絵画を模倣するだろう。ベルグソンを引いてドゥルーズが言うように、新しいものはつねにそれ以前のものを模倣せざるを得ない、あるいは関連づけて自らの固有性を表にするほかはない。マクルーハンも言っていた、映画が演劇を模倣し、テレビが映画を模倣するように、新しいメディアはつねに古いメディアを模倣すると。新しいものがその固有性において力を発揮するのは、ある種の展開(時間の流れ)が必要なのだ。しかも初期の写真は技術的にも固定された不動の視点から被写体をとらえたものだ。被写体もまた不動であることを強いられた。絵画的イメージを模倣するのは当然の帰結だろう。したがって、「モダニズム写真」の第一の使命は、いかにして絵画的イメージから離れるかに求められることになるだろう。「近代写真の父」と言われるスティーグリッツが求めたことは誰もが周知のことだ。スティーグリッツは絵画的イメージから写真的イメージを引き離す(区別する)ことで「写真としての芸術」を求めたわけだ。「芸術としての写真」から「写真としての芸術」へと。
-「芸術」と「写真」の位置が倒置されることによって、何が起こっているのか。
-この言葉を使う人たちは、「芸術」と「写真」の位置・順番を倒置することによって、「芸術」という概念の変化を表しているとともに、写真的イメージこそが新たな芸術の中心となることを暗に主張しているだろう。
-しかし、初期写真の肖像写真を単に肖像画の模倣ととらえるだけではあまりにも狭すぎないか。
-もちろん、おっしゃるとおりだ。初期写真の肖像写真がその表象システムにおいて肖像画を模倣していたにしろ、肖像写真を見る多くの人たちはそこにただならぬ恐怖を感じてもいただろう。亡霊としての死者たちの存在を。後にバルトが指摘することになるように、ここには「時間の過剰な露出」という、明らかにわれわれの時間意識を変える秘密がひそんでいる。おそらく「ポストモダニズム写真」はこの点も問題にしていくだろう。
-ということは、逆に「モダニズム写真」は「写真としての芸術」を求めるあまり、写真本来の機能を取り逃がしてしまったということか。
-そこが問題なのだ。もう少し、「モダニズム写真」の「区別」にこだわってみようではないか。「写真としての芸術」を求めた「モダニズム写真」が写真に見出したのは、一言で言えば、その知覚の過剰さであろう。切断された瞬間を引き伸ばすことであらわになるディテールの過剰さ。切断された瞬間-静止画の拡大によってもたらされた物質的な相。こうした物質的な次元の現前は、被写体が人物であれ、物であれ、風景であれ、絵画的イメージによるもたされる再現描写とは異なるものだろう。絵画的イメージがイデア的総合による再現描写だとすれば、写真的イメージはイデア的な理解(事物の把握)を逸脱する。
-ベンヤミンが視覚的無意識といったり、スペクトル外の知覚と言ったことか。
-ただここで、一つの混乱が生じていることも確かだろう。というのも、西洋絵画はルネサンス絵画以来、いわゆる遠近法に見られるように、自然的知覚に近づこうとしてきたことだ(もちろん言うまでもなく、遠近法もまた一つの抽象化された知覚にすぎないわけだが)。そして写真はそのルネサンス絵画をルーツとし、ルネサンス絵画が追求した自然的知覚をさらに進化させたものととらえられてしまう。自然的知覚、絵画(ルネサンス絵画)的知覚、写真的知覚という、三つの知覚の絡み合い。つまり、写真的知覚を自然的知覚の延長ととらえる見方と、絵画的知覚及び自然的知覚と断絶した知覚ととらえる見方だ。
-「モダニズム写真」は言うまでもなく、後者の立場をとったわけだ。
-非常に乱暴な言い方をすれば、社会一般での写真の使い方は前者の見方に基づくものだ。「モダニズム写真」は「写真としての芸術」を求めたわけだから、当然、一般の写真との区別を志向するだろう。実はここに「モダニズム写真」をめぐるもう一つの混乱が生じることになるだろう。いわゆる「記録と表現」と言うアポリアであり、「写真のリアリズム」をめぐる混乱だ。
-確かに、記録としての写真も、写真としての芸術を求めた「モダニズム写真」のように、写真の写真的使用を求めた結果ではあるだろう。絵画的イメージとは異なる写真的イメージを追求したということで。しかし、当然ながら、この二つの写真的イメージは異なるものではないか。
-「写真としての芸術」が求めた写真的イメージが知覚の過剰さという現前性にあるとすれば、記録としての写真は記憶を補完するものとしての視覚的資料であり、事後的に見出された客観性(証拠)である。つまり、ある一枚の写真が記録的価値を持つとすれば、それはある出来事の総体(閉じられた全体)から事後的に見出されたものだ。出来事の総体性を前提にすることで、一枚の写真が記録的価値を持つことになる。つまり、記録的写真とは追認であり、再認にすぎないということだ。
-しかし、一枚の写真が記憶を修正するということもあるだろう。
-確かに、記憶の修正はありえるかもしれない。修正というのはやはり、基本的に記憶(あらかじめの経験の経験)が前提されているわけで、その前提自体の枠組みを崩すわけではない。
-現前性と記録性(あるいは記憶性)。あなたは大きな枠組みとしての近代写真における写真的使用法(絵画的イメージとは区別された)を現前性と記録性に分割するわけだ。あなたがおっしゃる「写真としての芸術」を求めた写真はストレートフォトを典型とするアメリカ派の写真に言えるとしても、ヨーロッパ系の写真、たとえば、主観主義的写真はまた別な系譜に位置づけられるのはないか。
-アメリカ派が写真における現前性(知覚)の引き伸ばしに着目したとすれば、たとえば、ドイツ系の写真は、モホリ=ナギにその典型が現れているように、光を造型的な視点からとらえることで、美術化していった気がする。
-美術化?
-光によってもたらされる造型性、あるいはアングルによる構図やパースペクティブ、その使用法は絵画のカテゴリーから逸脱することはない。いわば写真におけるフォトジェニックな領域を絵画的カテゴリーでなぞり直す。
-フォトジェニックな領域でのさまざまな試みは、ある物の存在様態をその光の効果によって、変質させる、あるいは裸眼とは異なる位相から照射するということにならないのか。
-確かに、そうした側面はあると思うが、われわれの結論から言えば、写真の写真的使用というよりも、やはり美学的(絵画的)使用ということになる気がするのだが…。
-写真による新たな美的体制の構築ということか。バルト流に言えば、「写真の狂気」を回避するための美的(芸術的)使用ということか。

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