Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの解読-つぶやき風に

2010年04月24日 | Weblog
   実存の不幸とはつねに自己疎外(狂気)に属し、実存の幸福とは、経験的な次元にお
   いては、表現の幸福[芸術]に他ならないからだ。
   -フーコー「ビンスワンガー『夢と実存』への序論」(石田英敬訳)

写真のインデックス性について
写真(イメージ)を解読するための二つの方法を考察してみること。精神分析学(フロイト)的方法と現象学(フッサール)的方法。ともに20世紀前後に登場した、イメージ(記号)の意味作用に関する考察は、写真というイメージを読む上できわめて示唆に富んだ方法を与えてくれる。この二つの方法の傍らにベルクソン、あるいはドゥルーズを斜めから交差させながら(ということはもちろん、パースやラカンを介在させながら)。たとえば、ミシェル・フーコーは、フロイトが指標と意味作用を混同したのに対して、フッサールは指標と意味作用を明確に区別したと語っている。ここで、指標とはインデックス性と、意味作用とは記号の言語的な把握(理解)、あるいは言語への還元のことである。この意味作用と光学的な体制(表現性)がどう関係してくるのか。例えば、フッサールはその著『論理学研究2』の冒頭で、記号が「指示する機能以外に、さらに意味機能を充たすのでなければ、何ものも表現しはしない」と言っている。つまり、写真におけるインデックス性とは単に被写体を指し示しているにすぎないということだ。その被写体がどのような状態にあるのか、その存在の在り様を告げるのは表現の領域(どのような林檎なのか、どのような人物なのか、どのような街なのか・・・)である。われわれの言葉で言えば、光の体制のことである。もちろん、写真におけるインデックス性が単に被写体を指し示すだけの機能しかないと主張したいわけではない。写真におけるインデックス性は被写体との物質的な直接的つながり(痕跡)を持っている。バルト流に言えば、「それはかつてあった」というコードなきメッセージのことである。つまり、その被写体が過去に確かに存在したという実在性-過去の時間の露出を告げているということである。しかし、何度も言うが、インデックス性という写真の記号的な側面においては、見る側にいかなる意味も告げることはない。しかし、一個の林檎が、一人の人物が、人とモノにあふれた街が写されたとすれば、われわれはそれらが何かを名指すことができる。林檎、人、街と。その場合、それらのイメージはわれわれの言葉によって(英語ならば、別な音声記号で)把握され、名指しされたものには違いないが、それだけではいかなる意味も喚起しはしない。ただ光の痕跡があるだけである。確かに、それらの痕跡の記号から、ある連想をすることはできる。経験的知覚と言葉の関係によって。これはフーコーが挙げている例だが、例えば、野うさぎの足跡があるとする。その痕跡を野うさぎと名指すことができるのは、猟師たちである。一般の人にとっては、星型の跡にすぎない(その振幅の幅はあるにしろ)。猟師がその痕跡から野うさぎと名指しできるのは、経験的な知によってである。ところで、被写体を指し示すだけの写真(イメージ)は可能なのだろうか。と同時に、ただあるモノを指し示すことに、いかなる機能があるのか。写真の痕跡は光によってもたらされたものである。そこには言うまでもなく光による効果がまとわりついている。イメージはつねにインデックス性と光の効果が混合したものである。この光の効果を最小限に抑えることで、あるいは光の効果を巧みに操作することで、被写体-モノそのものだけを指し示す写真(イメージ)は可能だろうか。これが、ある一部のモダニズム写真が追求したことであろう。いわば引き算による写真、あるいは否定の論理による写真ともいえるものだ。林檎を写した写真がただ林檎であることだけを指し示す写真。おそらくその場合、見る側を強く喚起させるのは、<それがある>という存在感と<それがあった>という時間の露出だろう。意味が剥奪された裸形のモノ。しかし、このモノの存在感と時間の露出(バルトの「時間のプンクティム」)は実体的なものではない。モダニズム写真の誤りはこれを実体的なものととらえたことにあるだろう(蛇足ながら、その結果、何が起こるか、起こったかと言えば、いわゆる写真における技術至上主義がはびこることになる。手段が目的化されてしまうということだ。モダニズム写真が何を求め、どのような論理を展開したかを忘れ、その結果だけが美学化されてしまう。したがって、われわれがここで考えようとしているのは、モダニズム写真を否定することではなくて、あくまでも批判する-限界を問うことである)。これはあくまでも否定の操作(否定の論理に関しては、ジャン=リュック・ナンシーの次の言葉が示唆的であろう。「つまり人はその呈示不可能性を(再)呈示=表象し、結局はそれを、否定的なものをとおして呈示可能なものの秩序に従わせてしまうのである」)によってもたらされた効果にすぎないのだ。ここにこそデュシャンのレディメイドの論理がある。このことはまた後述したいと思う。もうしばらく、被写体(対象)を指し示すだけの写真について考えてみたい(もちろん、指し示すだけの写真は、事実上は不可能だが・・・)。限りなく被写体を指し示すだけの写真には、多くのヴァリエーションが考えられる。たとえば、スティーグリッツによって主張され、始められたと言われるストレートフォトはどうだろうか。もちろん、ストレートフォトと言っても、スティーグリッツはもちろんのこと、ウェストンやアダムズ、カニンガム、さらにはラングやエヴァンス、各写真家によって作風は異なるのだが、一般にストレートフォトと呼ばれるものは、たとえば、ウェストンの一連の静物写真(ピーマン等々)に見られるように、被写体(モノ)そのものを再現することにあると言われている。モノそのものの現前。まずそれらの写真はしばしばモノが他のモノとの関係においてどのようにあるかを排除し、撮影対象となるモノだけに焦点をあてるだろう。それは当然ながら、他のモノとの関係においての意味の創出を避けるためである(ということは、指し示すだけの写真においても、その被写体が位置する、他のモノとの関係や空間において、われわれは何らかの意味を取り出すことが可能だということだ。たとえば、ストレートフォトと、最近のミニマリズム的写真を比較してみると、そのことが良く分かるだろう。ストレートフォトがモノそのものを隔離し、孤立させるとすれば、ミニマリズム的写真はモノの関係そのものを隔離させようとしているように思える。これについては詳細な考察が必要だが。そして当然ながら、60年代後半以降に登場するコンポラと呼ばれる写真を間に置きながら。この3者の比較については後述することになると思う。さらにストレートフォトとはまったく真逆の“不鮮明の美学”というのもある。これもまたストレートフォトとの比較において考察に値するイメージの一つだろう。少し先取りして言えば、モノの配置による意味作用はバルトが言う「スティディウム」にあたるのだろうか)。撮影対象となるモノだけを隔離し、孤立させること。そうすることで、モノの配置から生じる物語性(経験的知による共同体的連想〉を拒否するとも言える。ストレートフォトにあっては、この後が問題となる。いわゆるレンズの効果とプリント技法である。ストレートフォトの真髄は、レンズと光の効果によって、形、輪郭、ボリューム、そして何よりもそのディテールを際立てることで、モノ(被写体)の存在感を喚起することにあるだろう(それがまた絵画とは異なる写真というイメージを創出することであったであろう)。そにおいてはすでにして表現の領域に侵入することになるのだが。確かに、ストレートフォトによるモノのイメージは、われわれの知覚におけるモノの別の相を見えるようにしてくれた。いわば写真という技法による、知覚の拡大・縮小=“引き伸ばし”である。人間的知覚のスペクトルを超えた過剰な知覚(すでに、写真の登場以前にフランシス・ベーコンはその著『ニュー・アトランティス』において、遠くのモノが微細な点や線まで明確に見える発明品について書いていた)、。これが現在もまだ、われわれを捉えてはなさない、写真の美学の一つであり、写真の魅力の一つでもある。これはまた近代科学の成果とも符号するものだ。しかし、ここで間違っても、写真はモノそのものを捉えることに成功したなどと誤解してはならない。確かに、ストレートフォトは写真のインデックス性という機能を用いて、モノの別な相を可視化した。さらにストレートフォトの多くは、一つの被写体(単体)に焦点をあてることで、モノの奥行き(深さ)を追求する。それをとりあえずは物理的次元、あるいは物質的次元と呼んでもいい。モノとしての写真。しかし、それによって見えなくなったもの、排除されたものがあるのではないか。それが問題だ。まず一つ言えることは、モノの関係性(社会的・歴史的)が抜け落ちることになるだろう。なぜ、モノがそのようにあるのか、モノと人間との関係、モノと社会的空間との関係(配置)等々。ストレートフォトはモノの意味性を剥奪し、物質的な次元の一部をあらわにするのだが、その減算的抽象化によって-いわばモノの純粋化によって、モノの社会性・歴史性が隠されてしまうということだ。もちろん、これには多くの反論もあるだろう。たとえば、モノの社会性や歴史性に着目することはけっきょく、意味を媒介させることではないかと(ここでの考察の賭金の一つはまさにここにある!)。実際、彼らがなぜ、ストレートフォトを志向したかと言えば、一つは単なる記録としての写真(現実の転写-意味を媒介とした記録性)ではなく、写真を芸術という領域に高めようとしたことにあるだろう。ここで言う「芸術」とは当然ながら、20世紀初頭のモダニズム美術が求めたことと一致する。スティーグリッツは当時のヨーロッパにおける前衛美術の良き理解者であるとともに、アメリカへの紹介者でもあった。絵画や彫刻がその図像的意味性を漂白し、抽象化に向かうことと、ストレートフォトの志向は符合する。つまり、あらゆる意味を回避し、芸術それ自体を志向すること。それでは、ストレートフォトにおける、インデックス性(対象を指し示す機能)と表現性はいかなる関係にあるのだろう。ストレートフォトが追求した表現性(レンズの効果やプリント技法)とはもちろん、被写体に何かを付加(意味づけ)することではない。むしろ、写真というイメージをインデックス性の機能に特化させるためである。繰り返しになるが、被写体そのものの現前(表象=再現前ではない)、純粋なモノの現前である。純粋なモノの現前とは、存在そのものの露出にほかならだろう。ストレートフォトがインデックス性を強化するためにレンズの効果やプリント技術を高度化させたとすれば、当然、そこにおける表現性が過剰になれば、インデックス性本来の機能を裏切ることになる。たとえば、ウェストンの「ピーマン(の写真)」がその一例だろう。ウェストンのピーマンはもはやわれわれが知る植物としてのピーマンではない。鉛の塊のようなものである。このインデックス性に対する表現の裏切りを意図的にやったのがデュシャンだ。マン・レイ撮影による、かの有名な写真「埃の培養」が指し示す対象は、埃ではない。ナスカの地上絵のようなものである。原則的にストレートフォトがインデックス性に忠実な表現を、あるいは被写体に従属する表現を志向したとすれば、デュシャンはインデックス性を脱臼させることに、あるいは被写体を裏切ることに表現を求めたことになる。だからといって、インデックス性に対して表現(レンズの効果)を優位に置いたわけではない(つまり、嘘=虚構をついているわけではない)。キャプションによって「埃」であることを告げているのだから。いわばデュシャンは被写体(対象)と記号(イメージ)の関係を宙吊りにしたと言える(ちなみに多くの広告写真は、ストレートフォトフォトとは逆にインデックス性を表現性に従属させることで-つまり虚構を痕跡に転化させことで、一つのメッセージ=意味を伝えるだろう。バルトが人為的なものを自然化すると言った写真の神話作用である)。デュシャンにおける対象と記号の関係は、ロザリンド・クラウスがフォトモンタージュ(ジョン・ハートフィールドらの)とマン・レイのソラリゼーションの違いについて論じていることが参考になる。フォトモンタージュにおいては、切り取られた(現実からの切り取りであれ、既存のイメージからの切り取りであれ)断片を一つの語彙とし、その再構成によって新たな意味を創出しようというものである。したがって、その機能は一般化されたイメージをずらし、脱臼させることに意図があるだろう。だからフォトモンタージュの多くは社会風刺を目的として使用されることが多い。それに対して、マン・レイのソラリゼーションは被写体(対象)とそれを指し示すイメージ(写真)のズレそのものを提示する。二重化の登録。ソラリゼーションはフォトモンタージュのように、新たな意味の創出を目論むというよりも、対象とそれを指し示す記号のズレ(二重性)を提示することで、むしろ意味の形成そのものを宙吊りするといっていい。意味作用の中断。デュシャンのレディメイドもまた、同じ論理に従っている。繰り返しになることを恐れずに、知覚を物質的な次元まで高めたストレートフォトの“鮮明さの美学”についてもう少し考えてみたい。写真が登場した時、従来の芸術家(画家)が最も恐れたのがモノを鮮明に写し取る再現性、描写性の高さであった。確かに写真は手の助けを借りることなく、モノを正確に描写、再現する。しかし、写真という機械の目によるモノの描写・再現には、人間の精神が介在していないではないか。であるがゆえに、そこに芸術的な意義はないということである。当時の芸術観から言えば、芸術とは精神による高度な総合の行為である。イデア(理念)の創出。写真は単なる機械の目(レンズ)による描写・再現にすぎないというわけだ。当時、ボードレールもまた、写真に対して同じ批判をしている。それではモノを正確に描写・再現する写真に科学的な価値があるのかと言えば、実はそれも曖昧である(これがまさに、表現と記録という形で反復される問題圏でもある)。なぜなら、写真はその他のいわゆる科学のように新たな“関数”を発見するものではない。ただ単に科学的な見方(事実)を再確認するだけのものだからだ。再認としてのイメージ。芸術でも、科学でもない写真というイメージ。おそらくスティーグリッツを始めとするストレートフォト派の面々は、写真を芸術表現まで高めるために、機械の目(レンズ)の持つ明晰さを精神の明晰さと一致させる必要があったのはないか。機械の目の明晰さを精神の目の明晰さに置き換えること。光と精神の同一性。たとえば、アンセル・アダムスが写真によって自然の中に見出したものは明らかに精神的崇高さである。ここでわれわれはもちろん、ストレートフォト派の写真を非難しているわけではない。彼らと後の技術至上主義者とは厳密に区別しなければならない。技術至上主義者(技の美の追求者)とはけっきょく、結果(効果、現働化された形体)から出発する者にほかならない(芸術家とはつねにいつも再開する者である)。それはさておき、ストレートフォトにおける機械の目による明晰さと精神の目による明晰さの一致には、後に、たとえばミニマリズムが「抽象表現主義の形而上学性(超越性)」を否定する、その超越性という問題点があるだろう。写真が写真家(作者)の精神世界を写し取るということである。ここには写真の極めて危険な使用法がひそんでいる。ベンヤミンが批判した例のレンガー=パッチュ(新即物物主義とストレートフォトの類縁性)の『世界は美しい』という世界である。あらゆる意味が剥ぎ取られたモノの美しさ。あたかもそれがモノの真理であるかのような実体化(自然化)。実際、ナチズムの美学には、「裸の事物=起源」という志向があった。これは初期写真にける観相学的使用法と同様である。さてここで、ストレートフォトの理念をパースの現象学あるいは記号論的な観点から考えてみたい(言うまでもなく、インデックス性という概念はパースからきている)。パース現象学の基本となるのが、一次性・二次性・三次性という普遍的カテゴリー(三項関係)である。一次性とは「他のものといかなる関係ももたないそれ自体であるもの」という一項的な関係の存在のあり方。二次性とは「第二のものとの関係においてあるもの」という二項的な関係のあり方。三次性とは「第二のものと第三のものとの相互関係においてあるもの」という多項的な関係の存在のあり方。パースにとってすべての現象は記号現象である。それゆえ、この3つの現象学的カテゴリーを記号過程にも当てはめ、記号の一項的なあり方を「記号(現象)」それ自体に、二項的なあり方を「対象(との関係)」に、三項的なあり方を「解釈項(記号と記号との関係によって作り出されたもの)」と呼んでいる。つまり、記号は対象と結びつくことで支持関係を作り、その対象が何であり、どんな意味をもっているかを規定するのは解釈項である。したがって、記号と対象の結合を保障するのも解釈項ということになる。「インデックス性」という概念は、上記の二項的なあり方を-対象との関係における分類に登場する。支持関係が類似性にあるものを「イコン(類似記号)」と呼び、物理的な関係をもつものを「インデックス(指標記号)」、対象といかなる類似性も、物理的関係ももたず、一般概念を介して対象の意味を表すものを「シンボル(象徴記号)」と呼んでいる。ここでパースの解説をしていても始まらないのだが、問題は写真というイメージがどのような記号的特性を持っているかである。写真は光の痕跡(光による物の鋳型)によって、対象との物理的な関係(支持関係)をもっている。たとえば、キリストの絵(記号)はキリストとのいかなる実在的な支持関係ももっていない(であるがゆえに、物理的な痕跡を求めて、その実在性を証明するためにキリストの聖遺物が求められるわけである。しかし、誰もが疑問をもつことだろうが、類似性が成り立つためにはそもそもその対象が実在していたからではないかと。しかし、神の絵における類似性とは実在した神との類似なのか。したがって、「イコン」には想像上のものも含まれるわけだが、その場合の類似性とは何かが問題となるだろう)。いうなれば、写真はそのネガ状態においてこそ、写真の「インデックス性」があると言える。ポジに転換されることで類似性を持つことになるわけだ。写真は「イコン」を含んだ「インデックス」というわけである(それじゃ、代名詞や固有名は「インデックス」なのか。確かに、代名詞や固有名は個別的事実を唯一無二指示する。しかし、対象とのいかなる類似性もなければ、物理的つながりもない。したがって、代名詞や固有名は「インデックス」を含んだ「シンボル」ということになるだろう)。写真におけるインデックス性とは、対象が確かに存在したことを指し示すが、それがいかなるものかは表すことはできない。われわれがリンゴ、人、街と名指すことができるのは類似性においてであり、言葉というまた別の記号においてである。とするならば、パースの記号論を使って写真というイメージを解読するには、「イコン」「インデックス」「シンボル」がどのように関係し、作動しているかを見ることではないか。つまり、写真のインデックス性という側面ばかりを考察しても拉致があかないということだ(とりわけ、デジタル時代にあってはなおのこと)。もちろん、それだけではない。「記号」それ自体の下位分類においては、「性質記号」「個別記号」「法則記号」という分類もしている。「性質記号」とは記号それ自体がもつ性質、質的な可能性として存在するもの(潜在性)である。「個別的記号」とは記号それ自体の性質が具現化したもの、写真というイメージの物質的諸条件-支持体や光量等々にあたるだろう。「法則記号」とは「個別記号」が一つの観念として表される場合である。写真ならば、「写真」と。さらに「解釈項」の下位分類においては、「名辞」「命題」「論証」と分類されている。つまり、パースの記号論ではきわめて精緻な分類からなっており、記号は9つの要素から構成され、10種類の組み合わせが可能になるわけである(イメージの3つの様態と記号の3つの様相の組み合わせ)。

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