駆け足で走ってみる百里基地反対運動の四十年①

2005年12月14日 | 歴史「百里物語」

百里原は、水戸の南約30キロの小川町にあり、町村合併前の橘村と白河村にまたがる、その名のとおりの広大な地である。

楢や櫟の林と、一部に農地もあったこの百里原に1939年(昭和14年)海軍航空隊の飛行場が設置された。

百里原の飛行場は、太平洋戦争が激しくなるまでは、航空兵の養成・訓練の飛行場で、赤トンボとよばれたオレンジ色二枚羽の練習機が、田園の空を「ブルン・ブルン」と飛び舞っていて、それは、なんとなくのどかな風景でさえあった。


しかし、戦争が激しくなるにつれて、周辺の農家を強制的に追い出して、拡張につぐ拡張が進められ、戦争末期には実践の基地も兼ねるようになり、「特攻隊」を編成して前線に送り出すようになった。

また、米艦隊が日本本土に接近してからは、グラマン艦載機の空襲を度々受けるようにもなった。


日本の敗戦によって戦争が終わると飛行場は解体されて、百里原は開拓地となった。

約百五十戸の人たちが入植したが、まともな農機具も肥料もないときなので、入植者の開拓生活は困難をきわめた。

干ばつ冷害が続き、特に、飛行場造成で表土が削りとられた赤土のところでは、作物はまともに育たず、入植者たちは、食うにも事欠き、借金がかさむばかりだった。


こうした入植者の中には、基地の設置が計画される以前から、すでに、土地が売れれば借金を整理して、百里原から立ち退きたいと思うようになっていた人たちも少なくなかった。

 1954年に自衛隊がつくられた。

 “いつか来た みちをとっとこ 自衛隊”と詠まれたように、日本の軍隊=自衛隊は、その軍靴で、新しい憲法を踏みにじって再軍備の道をすすみ始めた。

このときから、自衛隊に反対し、平和を願い、憲法を守ろうとする国民は、国と闘わざるをえなくなったのである。


百里原への自衛隊基地設置の動きは、1955年のH小川町長の誘致運動で始まる。

そして、翌56年5月に、防衛庁は、百里原に航空自衛隊の戦闘機の基地を建設する計画を発表した。


基地設置に反対する動きは、急速に広がっていった。


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