駆け足で走ってみる百里基地反対運動の四十年②

2005年12月16日 | 歴史「百里物語」

その年の8月には、基地設産に反対する約五十戸の百里原開拓農民によって「百里原基地反対期成同盟」(略称百里基地反対同盟)が結成された。 

反対同盟に参加しなかった開拓農民の多くは、基地誘致に賛成という意思からではなくて、土地が売れれば、苦しい、展望のもてない開拓生活から抜け出せると思ったからであった。


百里原をとりまく地域でも、基地設置に反対する動きがひろがり、その年の12月には、その住民運動の全町組織「小川町愛町同志会」が結成された。 

反対運動は、基地誘致運動の推進者、H町長のリコール運動へとすすみ、H町長をリコール成立前に辞職へと追いこんだ。 

つづく町長選挙で、愛町同志会と百里基地反対同盟は、愛町同志会の会長格のY女史を立てて、ふたたび町長の座をねらうH前町長と闘い、基地反対の女性町長を誕生させ、全国を「アッ」と驚かせた。 


基地の設置に反対する運動は、革新団体の支援も受けて、この時期には大いに高揚して、町の流れを基地反対の方向へと変え始めていったのだが……。 

しかし、防衛庁は、計画を断念はしなかった。

横田・横須賀・立川・厚木などの米軍基地をもつ首都圏に、どうしても、自衛隊の戦闘機の基地が必要だったからである。

それは、いわば至上命令ともいうべきものであった。


防衛庁、自民党、それに百里基地建設工事を受注した土建会社も加わった、強力な巻き返しが開始された。

町の基地誘致派に対するテコ入れと、基地建設工事の強行であった。


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