遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

安心と危険の間で

2011-08-08 11:51:16 | 原発

昨日のYOU-TUBEを見て

ミトコンドリアって何?

とまた知らないことが出てきた。

やはり原発事故は 知らない世界へ人間を連れて行ってしまった

 

いつの時代も

人間はそうやって 不可解な地獄に陥る

 

そういう時何を考えているか

それを思うと

物語の世界

宗教の世界がだんだん見えてきた

しつこく言うが

51s5dcloi9l__sl500_aa300_この本は 美術の起源と 宗教と

いろいろ 初めて考えることを考えさせる本だった。

 

人間は不可解なものに出会って苦しむとき

いろいろ

類推する

ビザンチンの絵画も

繰り返すテーマ

対比するテーマを配置して

人に語ってきたんだ

 

知らなかった

Img556

マリアが 受難の予見で悲痛

Img557

幼児キリストが 受難の運命を受け入れられない幼い時の悲痛

 

死せるキリストを抱くマリア これは いろいろ図を見ていると思うので省略

 

Img558

 

マリアの魂を 幼子のように抱くキリスト

横たわっているのが死んだマリア

キリストが降臨して

マリアの魂を抱いて天国に送る

 

そういう風に絵を見ながら説教を聞く人々は

自分の苦悩を昇華させていったかもしれない

 

そんなことを考えた

 

不可解なことが次々現れて 自分の心が揺れているから

そんなことを思うのかもしれない

 

 

あのね

京都の五山の送り火に岩手の陸前高田の薪を焚かないでと言った人について

やはり非難囂々になってきた

ひどいじゃないかって言うわけだが

ある思いにとらわれるときって

人はそれを理詰めで説得したって どうなるものでもない

本当に人の不安なんて 理では動かない

 

この頃不安を煽るやり方だと かなり危険について言うと

攻撃する云いを見かける

いろいろわからないんだから しょうがないじゃないかと思う

 

 

現地にいなきゃ わからないこともあるよ

 

私福島に行って思うことがあった

ともかく 桃は売っている

桃のセシウムの基準を超えなくて大丈夫でうれしかった

と言って

今年も桃が食べられる喜びを感じただろうと 実感した

 

もちろん福島の人のなかにもほんの少しのセシウムもいや

だから地元の桃 食べられない人もいるだろう

 

私はお土産で買ってこなかった

茨城なのに

福島から買ってきた と言ったら 素直に喜んでもらえない

と思って買わなかった

私も 皮ごと食べられないんじゃな やめとこうと思った

これはまさに現地の人間ではないからの反応だと思う

(福島の桃自慢さん ごめんなさい)

 

よく

東京より北の野菜はもう食わない!

というツイートも見る

茨城だって 野菜作ったら人殺しだみたいなこと

 

茨城県民だったらたぶん言わないっじゃないかと思うが

 

 

でも 茨城の野菜ほとんどだけれど

検査も基準値も信頼を失っているからね

いやだ

とお思いになる人は

厭だと思って食べたら毒だし

やめたほうがいいと思う。

 

そういう人が後から気が変わったら

それはそれで

無理強いではなく気が変わるなら

それでいいと思う

 

こういうことを考えるときは

別にいろいろなことを類推しながら考えているので

 

ビザンチン美術の構成の仕方

これは

類推や連想   つながりを読むことなので

これまた

同じようだと  面白がっている

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