goo blog サービス終了のお知らせ 

遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

児童画

2012-04-25 18:46:18 | 教育

昔 世界の児童画展というのを見に行ったことがあって

日本の子供は特異だと思った

私は日本人なのでそれが普通だと思うわけで

世界の方が変だと思った

日本の子供の絵は

これが 子供の絵かよというぐらい

多分上手い

そういう絵を見たら 外国の美術の先生は

日本って何やっているんだ?と多分想像できない

そういうことを日本の先生はやっているだろうな

と思った

上手い絵描かせて?馬鹿じゃね!?

と 思うかもね

前に 教育実践報告で

模写を授業でやっている報告を見たことがあった

ゴッホの靴の絵

Tumblr_lru868pn3m1qe31lco1_r2_500

多分この絵だったと思う

中学の授業だな

生徒は 克明に模写する

私自身は模写の授業って受けたことがない

今度笠間のワークショップが初体験だ

日本語では 学ぶはまねぶだ  なんて言うからね

国民的な思想として

多分

それが 学ぶことだという考え方が 身に染み込んでいるんだと思う

鶴太郎氏は 声帯模写が最初だった

全て真似して 学んできた

それが自分のやり方だ

というようなことを言ってた

こういうこと一式が

日本特異なものだ という自覚はなかったんだよな

上に書いた児童画展でも

外国の先生は 放任主義?というふうに思ったもの

子供の感性を自由に解放する

という方針で授業をすすめる人たちもいるけれど

解放する 魔術 難しいだろうな

私は勉強していない

 

自分自身が 

自由にのびのび描くのが子供だ

お前の絵は子供らしくないから嫌いだ

小学校の図工の先生に嫌われて

(その先生は 勝手に子供はこういうもの

と決めつけて 自分好みじゃないと嫌うんだ

やな感じ

と思い

あまり絵画的センスのない私は

見えるように描きたいんだ

という要求を抑えることは出来ないから

反抗した

そしたらね モチーフの石膏の先っぽがかけているのを

かわいそうだと思って 壊れていないように

絵の中で修繕して描いた

件の先生 見えるように描きたいと言ってるくせに

お前は嘘を描いた

と 馬鹿にしてきた

小学校5年生の時のことだ

60年近くまで執念深く覚えているくらいだからね

頭にきたんだよ

後に 思春期の子供の絵を描くときのあれこれを学んでいくとき

大人が望むように 子供は子供らしい絵を描きたいとは思わないものだ

知りたい

できたいことに猛進するものだ

これまた 勝手に思い込んで

それが 知的リアリズムから 視覚的リアリズムに進むのが

発達の筋道だと思ったからね

私の頭は硬かった

今思うと そういう頭の固い教育を受けてきて

大人になって

絵が好きでお絵かきを始めても

どうもつまらん絵になってしまうのは これのせいかもしれない

このごろ思い始めている

遅いよな

どうもすみません 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供に放射能のことをどう教えるか

2012-01-27 06:41:15 | 教育

小山の早川先生の講演をYOU-TUBEで見た

http://www.youtube.com/user/OyamaChild

子供連れで参加していたんだ

これは 賛否両論出るな と言う気がしたが

参加者は 

「放射能から子どもたちを守るひまわりとちぎネット 小山の会」

の人たちのようだから 問題ないだろうけど

子供にどう教えるか 早川先生の考え方はよくわかる気がする

私の師匠のF先生と似ているな

大人は金のために嘘をつく

テレビや新聞の報道は当てにならない

しっかり考えられる子供になれ

放射能がどこにあるか ちゃんと知識を持て

こういうこと

どう教えればいいか

単刀直入 ズバッという

子供にはそれで ちゃんと通じる だろうな

 

しかし

私が まだ やわやわだった自分の子に

「はだしのゲン」の映画を見せたことを思い出す

子供の神経には これが ものすごい恐怖を与え

かなりのトラウマになってしまった

広島を通るチャンスが何回かあったが

子供には 原爆資料館には入れないほどの衝撃を残してしまった

お母さんが子供に見せたかったのは分かるけれど

自分には あまりにも恐怖を植え付けられてしまった

と 恨まれた

 

子供の感受性に対して 私の中には 恐怖感がある

でも 考えてみれば 原爆168個分の放射能がまき散らされて

それが 子供たちが生きている間

ずっと 問題を起こし続ける中を

子供は生きていくわけだから

考える力をつけてやらないといけない

きれいごとだけで子供を育てていては

子供が生き延びていけなくなるような世の中になってしまった

そういうことではあるんだよな

このことは真剣に考えないといけない

って

私は教育に携わっているわけでもないし

孫もいないけれど

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠藤未希さん

2012-01-27 06:19:58 | 教育

南三陸町の津波映像に遠藤未希さんの

避難を呼びかけ続ける声が響いていたのは

思い出しても涙が出てきてしまうが

あの話を道徳教材にしたことで

いろいろ意見が出ている

春に 子供のためのお話コンサートで

いたちの子守唄を読むように言われて

最初の練習で読んでいたら

読んでる私が泣き出して話にならなかったが

遠藤さんのことを思い出して

もうめちゃくちゃになってしまった

あの話で道徳教育!?

どういう道徳観を育てようというのか

遠藤さんみたいになれと言うのか!?

遠藤さんみたいになって死んではいけないと教えるのか

この副読本 先生たちどうするの

(私は この話を美談にする神経の人は多いと思うから

すごく心配)

津波の時 つなみてんでんこ という文化があるというのは初めて知ったが

それこそ 後世に伝える 子供に教えるべきことだろうと

私も思う

災害と教育について しっかり考えないと

国は 国民の命は虫けらのように扱うからね

この国から 自分の命を守れる子供にしないといけない

ネット上に上っている意見↓

http://togetter.com/li/247772

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育学

2011-12-03 17:30:52 | 教育

ここのところ

見えるように描くということが限定的だ

ということを巡って考えるうち

色々疑問が出てきた

教育学ってなんだ?わかってない

で、私 美術教育学士なんだよね

超 嘘

美術教育学を収めた自覚がない

そういうもの あったか?

 

私が属していた研究会で 美術教育にかかわる発達理論で

子供の発達の道筋は視覚的リアリズムの時代までは理論化されているが

その先はこれからだ

というのがあった

 

それが・・ 揺らいできているんだ

 

これって 仮定がおかしかったのではないか?

と思うようになった。

美術教育にかかわる発達理論じゃないや

美術教育にかかわる認識の発達の多くある中の一つの道筋だ

 

中世やイスラム世界の概念的な絵を見て

思ったことだ

 

私は子供のころは

中世は文化的に暗黒時代だと習ったような気がする

そういわれ続けてきたのではないか?

今は違うみたいだけれど

もう とんでもない思い込みに毒されてきた気がする

 

概念 というもので世界を把握していく時代

歴史でも発達でも

それが 未開な時代 という 脱いで捨てる段階みたいな

美術教育の ある研究会では

概念砕き というのが 子供の発達を促す手法とされていて

「概念砕き」  これは術語でさえあったものな。

 

今盛んに群馬大学の教育学部の教授(この方は火山学がご専門)の

色々な発言

これが 教育学的にも

結構貴重な研究に違いないとも思うんだけれど

それもあって

教育学って どういう学問だ?

と改めて 不思議でしょうがない

 

私の師匠は 彫刻の先生だが

ご専門は何だったんだ?日本古美術史?

でも 含蓄のある教えを吐いていらっしゃった

 

子供の視覚的概念についてもそうだ

学生の美術教育研究が暴走しがちというのもご存じだったからかもしれないが

子供の視覚的概念の重要性については

しばしば話してくれた

あと

当時わからなかったけれど

絵画はイリュージョンだということもだ

 

ま、大学にもよるし 学生にもよるだろうけれど

大学での勉強は 学問というには なんか 足りな過ぎる

今の大学生が幼いというけれど

私らだって そうだったように思うけれど

 

あああ 学問しそびれた

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鑑賞教育

2011-02-06 06:54:06 | 教育

美術館のイベントに

この頃  先生のための・・・というのを

時々目にする

彩友会の仲間の現役先生が先日参加したイベントもそうだ

最近の新指導要領で鑑賞教育の充実が要求されてるそうだ

私が教わった先生に

三木多門という先生がいた

前に時々記事でも悪口を書いた先生だ

ともかく 教室に入ってきたときの顔が もう学生を軽蔑してるから嫌いだった

 

考えてみれば

大学の先生なんかおおむね学生を馬鹿だと思ってる

中学の先生みたいに

骨身を削って生徒のことに身を焦がすことはないな

(私の指導教官は 心底 学生が好きそうだったがな  おっかなかったが)

 

でも

あんなにあからさまな軽蔑に出会って  びっくりしたんだが・・

実際問題としては 馬鹿にされるほどバカだったな

夕べ 50年近くたって

やっとわかった

 

それは 鑑賞教育についてだ

 

だいたい芸術なんて そう生み出せるものじゃない

表現教育は無駄だ

それより 鑑賞できるように 物の値打ちがわかる

見る目を備えた人を作るほうが大事だ

というように聞こえることを

(どうせ お前らの作る絵も彫刻もろくなもんじゃない

さっさと諦めて もうちょっとは 物が分かる人間になれよ)

という顔で言ってた

と思った。

 

振り返ってみりゃそうなんだけれどね

そんなこと言われたくないよ  と思った。

 

今にして思えば 表現を通しての教育は

何も芸術家を育てるのではないし  

別の問題だ

子供もそうだし  生涯学習系の市民もそうだ

でも  鑑賞教育って 改めて教育体系として

学んだことがないなと思う

今は 体系化されたり 子供の発達とかかわって研究が進んでいるんだろうか?

 

美術教育なんて いろいろな実践はあるものの手探りで

理論化されてるようで 科学的に解明されてることなんか

ほんのわずか 

発達のことも 言ってみりゃ

好き勝手に理屈をこねて試行錯誤しているのが 

私が現役時代は

現状だった

 

どうなんだろう? 

 

文学にしろ 美術にしろ 

考えてみれば

そこに語られてることを 読み進めていく というような

作業の面白さ

って  結構奥が深くて

飽きない

そういうことを 共有したいというのが 三木多門のいうことだったのだろうか

そうは思えないほど  我々を 猿のように 豚のように辟易した目で見てたが

 

河野という先生が 解説の中で 胸中の丘壑(きゅうがく)という言葉を使って

書いてて

読んでも意味不明で

検索したらそれですぐわかる言葉ではなく

中国の文化に通じてる人には

常識かもしれないが

私は意味を読み取るのに えらい 苦労した

(ただの  無知だけかもしれないけれど)

一般読者を対象の 大衆的な雑誌に もっと親切に書いてくれ

思った

河野という先生は  こんなに普通の人には

わからない言葉と思わず使ったのか

どうせ分かりゃしないと思って使ったのか

学生に対するように わからなきゃ調べるだろうと思ったのか

わからないけれど

象牙の塔の住人は 素敵なことを研究してるかもしれないが

素人と ボキャブラリからして 共通の橋がない

 

学校の先生は

そこをつなぐことが求められてるのかな

 

その割には

学校の先生は勉強するほど間がないほど

雑味に こき使われてるんじゃないだろうか

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ようこそ先輩

2011-01-23 09:07:24 | 教育

19_01 テレビで

ようこそ先輩の課外授業 見た

清水 宏保氏

素晴らしい授業だった

体話といって

自分の体の動きをイメージ

ダッシュの瞬間をイメージさせて

肉体を通して イメージすること 自分を変えること

やらせていた

実際 全員タイムは更新

自分の脳を使ってイメージを組み立てることを体感させるって

とてもいい

 

子供がすべての活動の中で

こう

イメージを組み立てることで脳を高速回転させたなら

パワフルな明日が来る

そういう感じ  いい授業だったあ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする